幻約聖書『愚者篇』~まやかしの天空の城~

星十里手品

まやかしの天空の城

 人類は城を建造するために百階部分を造るために、一階を構成する材料を使って、愚かしくも百階を造ってしまった。百一階を造るために、二階の資材で代用してしまった。そのようにして城は、虚構の材料によって積み上げられて、はるか天空に非存在の物体として浮上していた。誰も気付かなければ、そのまやかしは墜落することもなく、公的にいつまでも浮いていられた。一番下の階でその下が中空で何もない、という絶望的な事実に気付いた誰かが、本当のことを大声で叫べば、何万年も催眠術にかかっていた城は、正気に戻って地上に落ちるだろう。だが遅かれ早かれ、いつかは落ちてしまうのではないのか? 城の秘密を知る管理者の針刺は、ルージュを引いた唇の前に人差し指を立てて「Be silent」静かにと狂人を諭した。かくして愚者fool(プー)とされた者は、異端審問にかけられた。床までの広い窓が開け放たれ、冷たい風が吹き荒ぶ天空を背にして、フールはセフィロティック製の椅子に捕縄で括りつけられていた。椅子は天井から六本の赤い糸で吊られ、椅子の脚ひとつに重心を置いて、不気味な音を軋ませて不安定に斜めに傾いていた。ちょうど椅子のマリオネットのようにも見えた。誰かが椅子の手摺りに触れれば、すぐにバランスを崩して、赤い糸を引きちぎって、死刑囚は天空の城から墜落するという仕掛けだった。宗教画シャルニケ・ドルケイモス作「血の罪人天使ルビヤ」から着想を得た、死の芸術品とも評される処刑方法だった。その絵画は、幻約聖書に収録された神に叛逆する天使ルビヤの「堕天篇」の神話を題材にしたもので、かつて地上のラファリアの国立美術館に所蔵されていたが、第八次メギド大戦の戦火によって、灰になって永遠に消失してしまった。そのヴィジョンは長らく、芸術愛好家たちの記憶の中で飾られることになったが、ここ天空の城の法の聖域で、正義を行使する処刑器具として悪魔的に復活した。転落椅子の処刑場は、強欲で凶暴な雲が渦巻いている、狂ったような天上だった。百本の氷の短剣が乱れて舞い踊るかのような、無情で容赦のない突風が肌を刺した。やがて全身白ずくめの、風になびく亜麻布で顔を隠して、純白の翼を付けた衣装と手袋を身に着けた、天使を模したミンストーレ執行官が、同じように目隠しをされたフールのもとに、厳粛に近づいていった。その背後で、裁きの玉座に座って、事の成り行きを見守っていた針刺は、聖杯の形の銀の食器に真っ赤に盛り付けられた血苺の一つを、針のスティックで突き刺していた。玉座の右側にある台の上には、色彩豊かな虹色のおやつの、砂糖まみれのメサティック人形の小麦粉を焼いた菓子が用意されていて、救済者の頭部が齧られたまま皿の上に置かれていた。急いで針刺は血苺を口の中に放り込むと、ゆっくりと目を閉じて、舌の上に広がるブラッドベリーの果肉の、芳醇な香りと味を楽しんだ。左右の窓の端でひとまとめにされた、象牙色のカーテンが激しく揺れて身を捩らせている。次に死刑囚の姿を見たときは、もう遙か地上へ、椅子ごと突き落された後だった。人が死ぬことに関して、誰も何も見ていなかった。ここでは、誰も責任を負わない。落ちていったフールも、自分の死が何なのか、まぶたの裏に焼きつけて眺める権利すらなかった。死者は処刑されたことにも、気付いてはならないのだろうか? 哀れな世界の老賢者たちの、罪意識への慰めのために。飛ばされずに床に残った赤い糸の切れ端が、生命が宿っている虫のように風に震えていた。まやかしの城の調和は満たされた。眠気を誘う程、毎日が退屈で倦んでいた。台の上の聖杯の中には、無数の針で串刺しにされた血苺の骸が横たわっていた。針刺による午後の審問の暇潰しの、取るに足らないやがて捨てられる創作物だった。哀れな死の果実の傷口から迸しった果汁は、聖杯を悪魔でいっぱいに満たした後もなおも流血し続け、世界の海の果てにある奈落アビスの滝のように、無限に床に滴り落ちていった。血は湖のように大きくなって、たちどころに聖人や義人の姿が織り込まれた、高価な毛織物の敷物を赤く染め直して、一部は閉め忘れた窓から外壁を伝って流れ落ちていった。血の本流は、扉の下枠を乗り越えて、鮮やかな赤いさざ波となって、壮麗な廊下の彼方へと押し寄せていった。針刺は血の流れから逃れようとはせず、アッシュグレーのドレスのスカートが汚れるのにも構わずに、その場で跪いた。紅を引いた水路の中で瞑想し、悲劇の運命の祈りを捧げた。手下の天空城の神どもは、柱時計などの家具にゴキブリのように何時間も張り付き、眼鏡よりも大きな目で瞬きしながら、黒光りする羽のようなマントの先っぽを、血に浸して濡らしつつ難を逃れた。足を滑らせて血塗れになって転んだ、天使に扮したミンストーレ執行官は「ハァァリィィ……」と超低音域のオクタヴィストの呻き声をあげ、血の氾濫に翻弄されて食堂のほうへと流されていった。ハリーと呼ばれたひっつき虫の法務大臣は、助けを求めた同僚の悲惨な有り様を目にしても、相分かった、と力強く頷くだけで何もせずに彼を見捨てた。針刺は流されもせずに、頭まで血に浸かってもまだ両手を組み合わせて祈り続けていた。呼吸ができなくて苦痛に歪むはずの顔の表情は、何故か快楽に満ち溢れていた。今や死んだはずの血の群体は、巨大で獰猛な獣の生命を得たかのように、階段を順々に下って、人間たちが暮らす下界へと、災厄をもたらしに行った。朧げな空中の楼閣は、聖杯から罪の報いを受けたかのように、あらゆる窓やひびから血を流して、かつて針刺が血星と名付け、人々が捨て去った地上へと、アビスのように大雨となって降り注いだ。よく見れば、下層の立ち入り禁止区域の上階では、荒れ狂う血の激流に人々が半狂乱になって、断末魔の叫びをあげながら、自分から星の海に向かって飛び降りているのが確認できた。神々は時が来るまで、人類の嘘に寄り添うために、ずっと耐えなければならなかった。ルビヤの苦しみ。アンデの悲しみ。天空を支え続けたタイタン神族のアトラスのように。太陽の白い光に包まれて、虚偽と虚飾の居城は、ゆるやかに霞んで見えなくなった。

 

「滴った血が大地を飲み込み、星を清め、杯に注がれる」 

                   幻約聖書 ルビヤの石『予言篇』プー 

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