後編

 ぽたりとハンドルに滴った水滴を見て、顔中が汗だくになっていることに気がついた。


 確かに今日はいい天気だけど、それにしたってまだ五月だというのに暑過ぎる。いい加減に喉は渇き切っているが、ペットボトルは背中のデイパックの中だ。水分補給したいのは山々だけど、ひいひい言いながらもここまで足をつかずに登ってきたのだ。喉を潤すために立ち止まるのも癪に障る。


 やむなく左手で額を拭うと、手のひらには一面にびっしょりの汗がまとわりつく。ただでさえ握力が無くなっている気がするのに、これではハンドルを握る手が滑りそうだ。汗を振り払うかのように左手を振り回して、その手首につけた腕時計が目に入った。


 なんてことのない安物のスポーツウォッチだが、そこに表示された時刻を見て愕然とする。コンビニを出発してから、とっくに四〇分台を超えていた。それどころかもう間もなく一時間に達しようとしている。


 四〇分台でこの山を登り切ると、彼女は確かにそう言っていた。それがとんでもないことなのだと、この期に及んで僕はようやく理解する。


 今走っている辺りはちょうど左右から鬱蒼とした緑に覆われて、坂の行き着く先など見えようもない。ここはいったいどの辺りなんだろう? 峠の茶屋まで、あとどれだけ登ればいいんだろう? そもそもスタートからゴールまでどれぐらいの距離があるのだろう?


 先の見えない不安感と、全身押し潰されそうな疲労感と、思った以上にダメダメな自分に対する絶望感はピークに達していた。だから何度目のつづら折りかわからない、カーブの端の若干勾配が緩くなったスペースで、僕はとうとう足をついてしまった。


 スタンドを立てる気力も湧かないまま道端に自転車を横に倒して、自分自身もデイパックを背負ったままその横に仰向けになる。デイパックの中身が潰れてしまうとか気にする余裕もない。ぜえはあいう息遣いが収まるまでの間、僕は木漏れ日の中でひたすら大の字になっていた。


 ――なんだよこれ。めっちゃキツいじゃん――


 そんな思いを口に出すのもしんどい。何度か目をしばたたかせながら、僕の心はもうすっかり挫けまくっていた。


 まさか自転車での山登りがこれほどキツいものだとは思ってなかった。こんなざまじゃ彼女にも呆れられるだけに違いない。そもそも縁が無かったってことなんだ……


「おーい、大丈夫か」


 半ば目を回しかけていた僕に、どこか間延びした声が降り注がれた。声のする方向へと瞳だけを動かすと、そこには穴だらけのアーモンドみたいなヘルメットにサングラスを掛けた、ぴちぴちのジャージに身を包んだ自転車乗りの姿が見える。


 どこかで見たような気がすると思ったら、思い出した。少し前に僕のことを凄いスピードで躱していった、あのロードバイク乗りだ。


 ――もしかしてもう頂上まで登って、今は下りの途中? だとしたらロードバイク半端ねえ――


「脱水症状か、ハンガーノックか? それともパンクでもした?」


 のんびりした声だけど、どうやら相手はそれなりに心配してくれているらしい。だとすれば、こうやって伸びたまま不安がらせるのも申し訳ない。僕はのろのろと上体を起こして、ゆっくりと首を振った。


「ちょっと疲れちゃって。休んでるだけです」

「ああ、そのクロスバイクでここまで登ってきたのか。そいつは大変だ。見たところ自転車にボトルもついてないみたいだけど、もしかして飲み物忘れたか?」


 そう言ってサングラスを外した相手は、明らかに年配の、それも僕の父や母よりも確実に年上の男性だった。


 こんなおっさんにあっさりと抜かれたのかと思いかけて、すぐに僕はその考えを改めた。ぴちぴちジャージに包まれたおっさんの体型を見る限り、その身体にはほとんど贅肉が見当たらない。おそらく今の僕なんかよりよほど引き締まった、アスリートらしい体つきであることは一目瞭然だった。


「いや、麦茶は持ってきてます。ほら」


 背中と地面の間でぺちゃんこになっていたデイパックの中から、僕は多少凹んでしまった未開封のペットボトルを取り出して見せた。


「それ、ここまで一口も飲んでないんだろう? そいつはダメだ、ぶっ倒れるに決まってるよ」


 おっさんは僕に早いとこ麦茶を飲むよう促すと同時に、背中に手を回してごそごそとしている。やがてペットボトルの中身を三分の一ほど飲み下した僕の前に、おっさんは何やら一本突き出して見せた。


 それは一口大のスティック羊羹だった。


「こいつをやるよ。疲れたときは甘いものを食うに限る。信じられないかもしれないけど、一口食うだけでも意外と元気になる」


 初対面の人から食べ物をもらうのはちょっと、などと冗談を言える心境ではなかった。言われるままに受け取った僕は、力なく袋を空けて羊羹に齧りつく。


 するとどうだろう。


 口の中に広がっていく小豆の濃い甘みを噛み締めるにつれて、不思議なことに少しずつ疲れが消えていく気がするのだ。男性は気休め程度と言っていたが、疲労困憊ですっかりうなだれていた僕の頭は、羊羹を食べ終わる頃にはしっかりと持ち上げることが出来た。


 ――凄えな、羊羹。これならなんとかなるかもしれない――


 ついに立ち上がるまで気力を取り戻した僕は、礼を言おうとおっさんの顔を見る。が、おっさんの視線は、横倒しになった僕の自転車に注がれていた。


 乱暴に投げ出された自転車を見咎めているのだろうか。しかしおっさんのロードバイクも同じように道端に横たえられているから、そういうわけでもなさそうだ。


 おっさんは僕の自転車の側まで歩み寄ると、ペダルの根元の辺りを指差して言った。


「もしかして君、フロントのギアこのままで、ここまで登ってきたの?」

「フロントのギア?」


 言葉の意味がわかりかねて尋ね返すと、おっさんは僕の自転車を両手で起こしながら説明した。


「ほらここ、ギアが三枚ついているだろう。今はその真ん中にチェーンが掛かってるけど、もう一段軽くすることが出来る」

「マジですか」

「大マジだよ」


 おっさんは僕の驚いた顔を見ると、にやりと笑った。


「フロントもリアも一番軽い状態、インナー×ローならまだまだ行けるさ。頂上まで残り三キロぐらいだ、あと少しだよ」


 ***


 ハンドルの左側にもシフトレバーがあることを、すっかり忘れていた。


 忘れていたのには理由がある。この自転車を買ってもらったとき、店員が「通学程度ならフロントはミドルに固定でまず問題ないですよ」と言っていたのだ。その言葉を鵜呑みにして、僕はこれまでハンドル左のシフトレバーをほとんど触ったことがなかった。


 もっとも実際今日という日まで不都合を感じたことはなかったから、店員の言葉に間違いは無い。


 ただ山登りに使うなら、具合が悪いということだ。


 左側のシフトレバーは右側のそれに比べると固い気がしたが、構わずに親指を押し込んだ。がちゃがちゃがちゃんという音と共に、リアに比べると幾分もったいつけた変速動作の後、ペダルが格段に軽くなる。


 ――マジかよ、こんなに楽になるのか!――


 もうこれ以上ギアを軽くすることは出来ないと思っていた、その先にさらに軽いギアが現れて、僕は猛烈な感動を覚えていた。


 羊羹パワーで回復したスタミナと合わせて、これなら頂上までたどり着くことが出来るかもしれない。残り三キロという数字を教えてもらったことも励みになった。


 まったくあのおっさんには感謝してもしきれない。穴だらけのヘルメットを被ったぴちぴちジャージ姿のおっさんが、僕の脳裏に天使のような存在として刻まれる。


 よし! と気持ちを奮い立たせて再びペダルを漕ぎ出した僕は、その勢いで一気に頂上まで駆け上る――というわけにはいかなかった。


「三キロって、結構長くない?」


 ペダルが回せないわけじゃない。ただ当たり前のことだけど、ギアが軽くなった分スピードも落ちた。その分時間もかかる。今まで以上に黙々と、人気の無い坂道を上り続けるという作業に追われることになるわけだ。


 ――なんの苦行だよ、これ――


 内心で毒づきながら、僕はひたすらペダルを漕ぎ続ける。そんな中で見えてきた変化といえば、それまで坂道を覆っていた緑のトンネルが徐々に開けて、視界が広くなってきたことだった。


 家を出たときにはまだ低かったはずの太陽が、気がつけばすっかり中天にある。緑の屋根に遮られていた日差しが頭から背中から全身に降り注がれて、また体中から汗がどっと湧き出す。


 それでも僕の心が再び折れることがなかったのは、目の前に広がる光景のお陰だった。


 山頂が今までに無い近さに迫っていた。坂道のつづら折りはまだ何回か残っているが、その先はどうやら目の前の頂きをぐるりと巻くようにして隠れている。もしかしたらあの先がゴールかもしれない。


 そして少し視線を動かせば、そこには圧倒的な下界の光景が広がっていた。山に包まれるようにしてひしめく街の様子はびっくりするほど遠くて、いつの間にかこんな高さまで上ってきたのだということに今さらのように気づかされる。


 ――こいつは凄いや――


 語彙力の乏しい僕にはそんな感想しか思い浮かべることしか出来なかったけど、感動したのは本当だった。同時に最後まで坂を上りきろうという気持ちが、まだ心の奥底から湧き上がる。


 だから僕は眼下の絶景を後に、その先にある頂上を目指して、ペダルを無心で漕ぎ続けた。


 だんだんと頭が下がって、視線が路面に落ちていく。


 両腕からも力が抜けて、上体がハンドルの上に覆い被さりそうになる。


 それでもペダルを回すことをやめようとはしなかった。


 僕の自転車はゆっくりと、でも少しずつ坂道を上って、上って、上って――


 へろへろになりながら、何度目になるかわからないカーブを曲がると、もうそれ以上先に上るべき坂道は残っていなかった。


 ――もしかして――


 目の前にはちょっとした広場が広がっている。端には『峠の茶屋』と呼ぶのに相応しい、ブリキとトタンの掘っ立て小屋みたいな店がちょこんと構えられている。その前にはいくつかのベンチが設けられて、何人かの登山客とそれよりは少ない自転車乗りらしい人たちが寛いでいる。


 ――ゴールだ――


 ついに頂上へとたどり着いたというのに、そのときの僕は感動に打ち震えるという余裕さえなかった。


 サドルから尻を降ろして、両足を地面につく。よろよろとした手つきでハンドルを支えながら、ともかくも自転車から降りて、今度はなんとかスタンドを立てる。そのすぐ脇にあったベンチに腰を下ろした僕は、ずるりと脱ぎ捨てるような手つきでデイパックを床に降ろすと、そのままベンチに仰向けになった。


 さんさんと降り注ぐ陽光の下で、乱れきった呼吸はなかなか収まろうとしない。疲れ切った体を横たえたまま、ベンチの横にだらりと垂れ下げた腕の先で、僕は小さく拳を握り締めていた。


 ――登り切ったぞ――


 口に出さずにそう呟いて、達成感を噛み締める。


 なんでこんな苦労を買って出たのかとか、そもそもどうして自転車で山を登ろうとしたのかとか、そんなことはもうどうでも良くなっていた。


 ともかく僕はやりきった。途中へこたれそうになったり、あの天使のようなおっさんに助けられもしたけれど、それでもなんとか頂上までたどり着いたのだ。


 今はこの充実した感覚に、存分に浸っていたい……


「あれえ?」


 不意に頭上から、聞き覚えのある声がした。


 僕は寝っ転がった姿勢のまま、視線を少し上に動かす。逆さになった視界に見えたのは、僕の顔を見下ろすポニーテールの彼女の顔であった。


「どうしてこんなとこにいるの?」

「ああ、その……」


 僕が坂を登りきるのに、既に一時間半以上がかかっている。だから、まさかこうして会えるとは予想外だった。へたばった姿を見られてばつの悪い僕に、彼女は少し悪戯っぽい笑顔を浮かべてみせる。


「もしかして、私のこと追っかけてここまで来たの?」


 僕の自転車を目にしてそう尋ねる彼女に、なんと答えて良いものか言葉に詰まる。まさしくその通りのはずなんだけど、その割にはあまりにもハードな体験だったから、そんな簡単に頷いてしまうにはなんだかもったいないような気がした。


 上手い返事が思いつかずに、僕は無言のまま上体を起こす。改めてベンチに腰掛け直して顔を上げると、そこにはぴったりとしたジャージにすらりとした身を包んだ彼女が立っている。


 その格好をまじまじと見つめ返すのは少々気恥ずかしくて、僕は少し視線を逸らしながら、わざと問いかけとは関係の無いことを口にした。


「もうとっくに山を下りていると思ったよ」

「ああ」


 答えをはぐらかされても、彼女は気にとめる風ではない。代わりににっと白い歯を見せて、彼女は僕が上ってきた坂の向こうにある下り坂を指差した。


「一度反対側まで下りたんだよ」

「へ?」


 彼女の言うことをすぐには理解出来ず、僕の口から出たのは間の抜けた返事だった。


「反対側の、湖の畔まで下りてね。そこで軽くご飯を食べてきたの」


 軽い口調でそう言い放つ彼女の小麦色の顔を、僕は多分驚愕の目つきで見返していたに違いない。


「え、じゃあ、もしかして……」

「で、またここまで登ってきたってわけ。練習のときはだいたいそんな感じ」

「マジかよ……」


 そう呟いた僕は大袈裟に両手で頭を抱えながら、思わずベンチに倒れ込んでしまった。冗談めかしたリアクションで誤魔化したけれど、衝撃を感じたのは本当だ。


 僕がこんなに死ぬような思いをしながら、どうにかこうにか登り切ったこの山を、彼女はなんでもない顔で二度も踏破してしまうのだ。


 あっさりと達成感を吹き飛ばされた僕が、目の前の彼女の凄さを思い知って目眩に襲われてしまったとしても、多分仕方ないんじゃないか。


 打ちのめされている真っ最中の僕に、彼女が浮き浮きとした口調で話しかける。


「でも仲間が出来て嬉しいなあ。やっぱり練習もひとりきりだと、ちょっとつまんないんだよね」

「えっ」


 それはいったいどういう意味なのか。ベンチに横になったまま視線で問いかける僕の顔を、ポニーテールの先を垂らしながら覗き込む彼女が、喜色満面で言った。


「明日もいい天気だっていうし、一緒に登ろうよ、ね?」


 最高の笑顔でそんな風に誘われて、思わず頷いてしまった僕は完全に白目になっていた。


(了)

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