インナー×ローでちょうどいい

武石勝義@『神獣夢望伝』発売中!

前編

 額から吹き出した汗が眉の上に溜まり、端から零れて目尻を掠めていく。


 ゴム製のハンドルグリップを握り締める両手のひらまでもが、汗に塗れてぬるぬるに感じる。


 背中に背負ったデイパックに入っているのは、ペットボトルが一本とスポーツタオルぐらいのはずなのに、肩紐がやけに食い込んでずっしりと重さを感じる。


 何よりサドルに乗せる尻が痛い。それもちょっと我慢すれば耐えられるという程度を超えている。やむなく立ち漕ぎしようにも上体を支える両腕の筋肉は既に限界で、浮かせた尻はすぐにまたサドルの上に落ちてしまう。おかげで先ほどから、サドルから尻を浮かせては降ろすという間抜けな動作の繰り返しだ。


 そんな苦行そのものとしか思えない状況でも、ペダルは漕ぎ続けなければならない。


 太股はとっくにぱんぱんだ。それにさっきから左の膝に力が入る度、ぴりっとした痛みが走る気がする。ともすれば踏み外しそうになるスニーカーの底に注意を払いながら、それでもペダルを踏み抜く足の動きを止めるわけにはいかない。


 そうしなければ前に進まないのだから仕方が無い。


 ――どうしてこうなった――


 そんな言葉ももう、わざわざ口にするだけの気力も無い。ガス欠寸前の根性の残りカスは、全てペダルを回すエネルギーに充てるしかない。


 間もなく正午に差し掛かろうとする太陽の日差しが、坂道のところどころに枝葉の陰を落とす。荒い息を吐きながら登り続ける自転車の速度は、下手をすると徒歩の登山客にも届かないかもしれない。


 果たしてゴールまでたどり着くのに、あとどれだけ登らなければならないのか。最早さっぱりわからなくなった頭をもたげながら、僕は残りわずかな力を込めて自転車のペダルを踏み締める。


 ***


「今度の週末、映画でも見に行かない?」


 三日前――水曜日の放課後、校舎裏の駐輪場で意中の彼女とふたりきりという絶好のシチュエーション。その機を逃さなかったのは、我ながら上出来だったと思う。


 だけど勇気を振り絞って口にした僕の誘いに対して、彼女が浮かべた表情は絶妙に微妙で曖昧だった。


「どうしようかなあ。雨だったら付き合ってもいいんだけど」


 雨だったら、という条件をつけられるのは想定外だった。


 むしろこの週末は土日とも快晴に恵まれるという予報に、快哉を上げていたぐらいだったのに。まさか紫外線が気になったりするお年頃だから――と考えて僕は目の前の彼女を見返した。


 まだゴールデンウィークも明けて間もない、初夏というには早すぎる頃合いである。その割には彼女の肌はうっすらと日に焼けて、むしろ陽光の下こそが似合う健康的な小麦色だ。


 少なくとも日差しを気にするような性格ではなかったはずだ。だとすると週末の天気予報を口実にした、体の良いお断りということか――


 がくりと肩を落としかけた僕に向かって彼女が口にしたのは、意外な一言だった。


「週末は天気がいいらしいから、あの山を登るつもりなんだよね」


 そう言って彼女が指差したのは、学校の敷地をぐるりと囲むフェンス越しのさらに向こう。間もなく夕陽が沈もうとする先にある、山の頂きの連なりを象るシルエットだった。


 毎日自宅と高校を行き来する自分のことを見守るように聳える山々が、行楽地としてちょっとした人気のスポットだということは、僕も知っている。


 都心から電車で一時間余りのところにあるという点や、規模の割には登山道の整備が行き届いているということから、手軽に登山を楽しめる初心者向けのコースらしい。そういえば小学生の頃に遠足で登らされたなあ、と思い出す。確か山頂近くにはやや開けた広場があって、なかなかの眺望だったような気もするが……なにしろ何年も前のことだから、記憶もあやふやだ。


 山が身近にあることが当たり前のように育ってきたが、その割には山に親しむということはなかった。両親も兄弟も特にアウトドア志向ではなかったし、自分も体を動かすとしたらもっぱら友人たちと野球やサッカーに明け暮れるばかりで、小学生以来あの山に登っていない。週末にちらほらと見かける登山客たちを見ても、興味をそそられるということもなかった。


 ただ彼女の言う『山登り』とは、僕の想像からは若干かけ離れたものだった。


「ここのところ天気のいい週末は、いっつもあの山でヒルクライムしてるんだ」


 彼女の口から聞き慣れない単語を耳にして、思わず眉をひそめて尋ね返す。


「ヒルクライム?」

「聞いたこと無い? 自転車で山とか峠とかの坂を登るの」


 軽く小首を傾げるような仕草に合わせて、うなじに届くポニーテールの先が小さく揺れる。こともなげにそう言いのけた彼女に向かって、僕は当惑した顔を向けた。


「自転車で、あの山を? だって、結構きついんじゃない」

「慣れればどうってことないよ。麓のコンビニから峠まで長さも勾配もほどほどで、練習にはちょうどいいんだよね」


 自転車で山を登る……そんな酔狂に興じる輩がいるということは聞いたことはあるが、彼女がそのひとりだとは思わなかった。


 彼女の存在は一年の頃から知っていたが、初めて口をきいたのはつい二ヶ月前。二年生のクラス替えで一緒になって、たまたま席が隣同士となってからだ。そこからごく自然に言葉を交わすようになって、あっさりと惹かれていった自分は我ながら単純だと思う。


 ただ、いかんせん彼女と知り合ってまだ日が浅い。ここでようやく彼女の趣味を知ることになろうとは、間抜けなことこの上ない。


「もしかして、その自転車で登るの?」


 彼女の両手がつかむハンドルの先にあるのは、大きな前籠がついた真っ白いフレームの、いかにも通学用の頑丈そうな自転車だ。素人目にも山登りには向かないだろうと思ったら案の定、彼女にも笑って否定された。


「まさか、これは通学用。山を登るときはロードバイクだよ」

「ロードバイクとか、ガチじゃん」

「そりゃこの自転車に比べればね。ロードバイクならコンビニから峠まで、四〇分台ぐらいで登れるし」

「マジか」


 大袈裟な口振りとは裏腹に、四〇分台であの山を登り切るということがどれほど凄いことなのか、正直なところ僕にはぴんと来なかった。


 だが彼女はよほど驚かれたと感じたらしい。少しばかり自慢げに胸を反らしながら、気分良さそうにつけ加える。


「でも登るだけなら誰でも出来るよ。そのクロスバイクでも十分だから」


 そう言って今度は彼女が僕の自転車を指差した。


 彼女の頑丈そうな自転車に比べればスポーティで、タイヤ幅も若干細い。艶消しの黒地にしゅっとした細身の外観がお気に入りだが、こいつで山登りをしようなどとは思いもよらない。あくまで高校への自転車通学用のつもりだ。


「そういうわけだから、お天気次第ってことで。返事は土曜の朝まで待ってもらってもいい?」


 ***


 天気が気になるあまり週末だというのに早起きしてしまった僕は、マンションの三階の窓越しに広がる早朝の爽やかな青空を、恨みがましい目で眺めていた。大きくため息を吐き出しながら、無意識のように枕元のスマートフォンに手を伸ばして、思わず軽く目を見開く。


 画面上には、SNSのメッセージが届いているという報せが表示されていた。


『いい天気だから、やっぱり山をひとっ走りしてくるよ。ごめんね』


 可愛らしい猫のキャラクターがぺこりと頭を下げるスタンプと共に添えられたメッセージは、彼女からのものだった。時間は、僕が目覚めるほんの十分ほど前のことだ。


 しばらく手の中のスマートフォンに視線を落としていた僕の胸中に渦巻いていたのは、彼女をデートに誘い損ねた無念。


 そして僕の誘いをあっさりと撥ねのけた、自転車に対するもやもやとした感情だった。


 自転車ごときに負けたことが悔しくもあったし、いったい自転車の何が彼女をそこまで惹きつけるのかという興味もあった。今頃彼女はこの窓からも見えるあの山の頂上を目指して、きっとあくせくペダルを漕いでいるのだろう。


 そこまで思いを巡らせた僕がするべきことといえば、もうひとつしかなかった。


 いや本当はそんなこともないのだろうけど、そのときの僕はそういうことにした。


 ベッドから飛び降りて、ジャージの短パンに履き替えて、Tシャツの上から薄手のパーカーを羽織る。まだ家族の誰も起きていない早朝のリビングでバナナを二本頬張り、牛乳をコップ一杯呷ると、僕は空のデイパックを肩に引っ掛けながら家を飛び出していた。


 マンションの駐輪場から黒いフレームのマイ自転車を引っ張り出して、サドルに跨がる。こいつは高校への進学祝いに両親からプレゼントされたものだ。買いつけた自転車屋の店員はサドルが高い方が格好いいし走りやすいと言っていたから、跨がっても両足のつま先がぎりぎり着く程度にまでサドルを上げてある。確かにこの方が走りやすいなあ、という実感はある。こいつで駆けつければ、山の麓にあるコンビニまで十五分ぐらいで到着するだろう。


 コンビニでは麦茶のペットボトルと、昼食代わりになりそうなサンドイッチかおにぎりでも買おう。そうしたらあの山のてっぺんを目指して出発だ。


 高校に上がってからは帰宅部だけど、中学まではこれでもサッカー部の練習に明け暮れていたのだ。体力には多少の自信はある。


 もしかしたら頂上で彼女と会えるかもしれない。


 いやそれどころか、坂を上る途中の彼女に追いついてしまうかもしれない。


 ***


 買い物を終えたコンビニから出発して道なりに進むと、すぐに山の登り口と言える坂が現れた。通学時と変わらないギアのまま、僕は立ち漕ぎで敢然と坂に挑むが――その意気込みも最初の十分ほどまでのことであった。


 ――さすがにこのギアで登り切るのは無理か――


 右手のハンドルグリップについたレバーをガチャガチャと親指で押しまくり、後輪のギアを下げる。勢いに任せて駆け上ることを諦めた僕は、ペダルの負荷が軽くなったことを確かめると、ひとまずサドルに尻を落とした。そしてようやく周囲の光景に目を向ける余裕が生まれる。


 坂道の脇にはぽつぽつと何件もの民家や、その合間に広がる畑が見えた。コンビニから何キロ進んだかはわからないが、本番はまだまだこれからだろう。熱くなった頭がようやく少し冷めてきた僕は、改めてゴールまでの道筋を思い浮かべようとした。


 だけど、何も思い浮かばなかった。


 当たり前だ。小学生以来足も踏み入れていない山なのだ。それも小学生の時分は、引率の先生の後をただついていったに過ぎない。クラスメートたちとお喋りしてはしゃぎながら登った記憶はあるものの、道中の景色などこれっぽっちも憶えていない。


 彼女が口にしていた峠の茶屋とやらまでのルートまでは、確か一本道だったはず。途中で道を誤ることはないだろう。ただ、途中で目印になるようなものでも確かめておけば良かったと、ささやかな後悔に襲われる。だが今さらそれを言い出しても始まらない。


 徐々に民家が登場する間隔が広がっていき、代わりに緑の葉をいっぱいに繁らせた木々が立ち並び始める。ついに山中らしくなってきた林道はことのほか静かだ。行き交う車どころか人影もない。僕の耳に入るのはペダルを踏み締める度に軽く軋むクランクの音と、僕自身の荒い息遣い。


 ――いやいや、いくらなんでもバテるの早すぎないか?――


 早くも肩で息をつく自分に、正直驚いていた。


 運動しなくなって一年ほどのブランクがあるのは確かだけど、それにしても体力ってこんなに衰えるものか? 中学のサッカー部ではレギュラーこそ獲れなかったけど、スタミナだけは自信あったのに。


 僕はさらに五分以上そのままペダルを漕ぎ続けていたが、踏み込む足にかかる負荷がいよいよ洒落では済まなくなって、ついに意地を張ることを諦めた。再び右手のシフトレバーを親指で押し込んで、後輪のギアをとうとう一番軽い段まで落とす。スピードは落ちたが若干楽になったペダルを回していると、いつの間にか一軒の民家も見当たらなくなっていることに気がついた。


 坂道の右側にはぎっしりと立ち並ぶ木々が零れ落ちそうな勢いで枝葉を突き出している。対して左側には生い茂る葉っぱの隙間から時たま、これまで踏破してきた道程を見下ろすことが出来た。


「結構登ったなあ……」


 そのはずなのに前に目を向ければ、ゴールの見えない坂道が延々と続いている。


 何段かつづら折りに重なって見える上り坂は、右側の木々にその先が遮られて、どこまで続くのか見当もつかない。


 ――まだあれを登らなきゃならないのか――


 げんなりとした気分でそんなことを考えていると、不意に背後から息遣いを感じた。


 僕のように乱れた呼吸ではない。整ったはっはっという吐く息の音は急速に追いついてきて、やがて「右通りまーす」という声が放たれた。


 えっと返事をする暇もなく、僕の右脇を一台のロードバイクが抜き去っていく。


 テレビやネットで見たことのあるぴちぴちの自転車乗りらしい格好をした声の主は、立ち漕ぎのままロードバイクを右に左にとリズミカルに振り回しつつ、見る見るうちに僕を置いてけぼりにしていってしまった。


「はええ……」


 呆気にとられた僕は、そう呟くだけで精一杯だった。


 ――なんだよおい、ロードバイクってあんなに速いの?――


 僕の乗っている自転車とロードバイクとは、そんなに大きな差があるものなのか。ハンドルが真っ直ぐかぐにゃっと曲がっているかだけの違いじゃないのか。それともさっきの自転車乗りは実はとてつもないプロレベルで、秘かにこの山で特訓しているところだったのか。


 彼女もあれぐらいの勢いでこの坂を登れたりするのだろうか。


 だとしたらとてもじゃないけど追いつけない。


 もしかしたら僕は今、非常に無理目な、というよりも無謀なチャレンジをかましているのかもしれない。


 そんなことを考え出したら、全身に一気に疲労感が押し寄せてきた。


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