夜の夢にとろけてる

雨籠もり

夜の夢にとろけてる

 おう妹よ、どうしたんだい、そんな浮かない顔をして。

 目が覚めると、そこはなんでもない場所だった。なんでもない、何処にでも有り得る風景。緑色の文字盤の目覚まし時計。紫色のポーチ。白色の本。それらが乱雑に散らかった床の上で、私はいつの間にか眠ってしまっていたようだった。

 お姉ちゃんが……いる。

 目の前でバランスをとるように、いち、に、と歩いている。ここは何処なのだろう? この部屋には一つも見覚えがない。けれど私は、何故かこの部屋を知っている気がするのだ。

 限りなく精巧な偽物の群れ。

 固くて飲めないスープから、回すことは出来るけれど出鱈目な地球儀。

 段ボールのベットに、お姉ちゃんの足跡。

 黒い足跡。真っ黒な炭の色。

「どうしたんだい? 私の妹。」

 いきなり私の視界に上から登場してくるものだから、私は驚いて尻もちをついてしまう。大袈裟な『ぺったん』という音がこの世界に反響する。お姉ちゃんはそれを聞いて、お腹を抱えて笑った。私は『何がおかしいの』と頬を膨らませる。

「だって妹、君は本当にオノマトペなんだ」

 オノマトペ?

「君はいつだってそうなんだ。なんでもオノマトペなんだ。歩く時は『ひたひた』、走る時は、『たたたた』。けれども実際のところ、鳴るのは作用した別事象であって、君自身ではないんだよ、伽藍堂くん」

 お姉ちゃんがまた、きゃっきゃっと快活な笑い声を鳴らす。けれども部屋には反響しない。私の音だけがなんだか響いてしまっている。

 この部屋全体で、私のことをからかっているんだ。お姉ちゃんのいじわる。

「悪かったよ、妹。」

 お姉ちゃんはそう言って傍のテーブルに座った。私も、それに面する形で椅子に座る。木造りの滑らかな感触。まだ作ったばかりなのだろうか? 新しい木の匂いがする。

 本当に静かだ。お姉ちゃんの動きには何も音がない。無音の雪が降る中で、お姉ちゃんは黄色のマグカップに紅茶を注ぐ。可愛らしい熊の顔が描かれたマグカップ。けれど、紅茶の注がれる音もやっぱり無い。マグカップが机に当たって小さく鳴る音も、注ぎ口と小さくぶつかる音も、一切が何も無い。

 空っぽの空洞だ。

「妹よ、どうぞ」

 お姉ちゃんがマグカップを差し出す。紅茶からはとくとくと湯気が立ち上っている。

 ……それじゃあ、いただきます。

 唇を紅茶につけた、その瞬間だった。

 にゃあ。にゃごにゃご。

 マグカップから、正確には紅茶から、猫の鳴き声が聴こえたのだ。こんにちは、とでも言うみたいに。

 わっ、と驚いて、私は椅子から転げ落ちた。その叫び声と、『すってんころりん』のオノマトペが部屋中を駆け回る。反響した音が壁にぶつかってさらに反響する。部屋の中は私の音で充満していた。恥ずかしくなって思わず私は顔を覆う。

「どうしたんだい、そんなに顔を赤くして。まるで大火事じゃないか。顔から火が出るー」

 お姉ちゃんは極めて感情を込めない棒読みで、私の視界の右方向からのっそりと生えてくるみたいに登場してそう言った。言葉の後から訪れる静寂が部屋中に降り積もる。

 いいからほっといてよ、私の事なんて。

「ほっとけるわけが無いじゃないか。赤の他人ならともかく、私の分身のような君を放っておくなんて、有り得ない。」

 私が助けを求めた時にそうしてよ。

「助けを求めたんじゃないのか?」

 ――え?

「助けを求めたからこんなとこまで来たんだろう? 1059階室には、助けを求める人間しか入れない。そういう決まりだ。私もそうだし貴方もそう。」

 助けを求めて出られない。

 助けがないから出られない。

『お母さん、助けて。』

 不意に思い出したその台詞が、不意に思い出した赤色の光景に響き渡る。誰の言葉だったろうか。誰の叫びだったろうか。

 誰の祈りだったろうか。

「おや、お湯が沸いてるよ。コーヒー、飲むんだろ?」

 お姉ちゃんが顎で、雛のようにピーピーと鳴るやかんを指す。立ち込めた湯気、コーヒー豆の匂い。私は立ち上がると、歩く度に飛び出すオノマトペを気にせずに、ヒーターの電源を切った。

「これで完璧だね、妹。」

 お姉ちゃんは満足そうに、宙に浮かんだ『ピー』のオノマトペに寝そべって笑っていた。紅茶からまた一つ『にゃあ』と声が上がる。

「妹、私に何か言いたいことがあるんだろう?」

 お姉ちゃんは、いきなり私の目前に立ち塞がって、私のことを見下ろしてそう言った。フェルトみたいなスカートの布地が鼻の頭を摩る。

 言いたいこと?

「そう、言いたいこと。何があったんだい? 何処でいったい、どんなものが君を苦しめているんだい?」

 苦しんでなんかないよ。私、こう見えても明後日から社会人だよ。ちゃんと生きていけるもの。

 お姉ちゃんなしでも。

「ほほう、それは強いね。拍手拍手。」

 全然響かない拍手が、情けなく地に落ちる。

「嘘つき。」

 お姉ちゃんがふと、いなくなった。私の視界には、緑色の文字盤の目覚まし時計も、紫色のポーチも、白色の本も猫の鳴き声がする紅茶まできちんと在るのに、お姉ちゃんの姿だけが消えて。

 私の耳元にお姉ちゃんの声だけが囁いた。

「嘘つきは苦しいよ、妹。」

 笑わない?

「笑わないよ。だから嘘なんてつかないで。あと20分で終わりなんだから。」

 本当に?

「本当に本当。」

 じゃあ誓ってよ。アリスに誓って。

「アリスに誓うよ。」

 ……みんな、変わっていっちゃうんだ。

「うん。」

 みんな私を置いて変わっていっちゃうんだ。性格も、外見も、住む場所も、心地良さも。みんなみんな、変わっていっちゃうんだ。私だけそのままなんだ。私だけずっと取り残されているんだ。でももしかしたら自分も変わってるかもしれなくて。自分ですらもう信じられない。季節も太陽も自分勝手だ。ネオン街も大学も身勝手だ。先生も友達も自己中だ。みんな忘れていくよ、みんな離れていくよ。だけど私は嫌だもん。変わるのも、変えるのも嫌だから。忘れるのも、忘れられるのも辛いよ。ずっと同じままでいたいよ、お姉ちゃん。

 青色アイスクリーム。

 砕けた緑色のクレヨン。

 転がるサッカーボール。

 ほつれたペンギンの人形。

 止まったオルゴール。そのねじをもう一度回して、お姉ちゃんは四方を歩く。

「それじゃあダンスを踊ろうか。」

 握りこぶしふたつを頭の上に乗せて、お姉ちゃんは右足、左足、とリズムを刻んで歩き出す。勿論音はない。音無しの一鬼夜行だ。

 乾いたやかん。

 木造りの椅子。

 浮遊するオノマトペ。ぺと、ぺと、ぺと。

 お姉ちゃんのスカートが、右へ、左へ揺れて笑い出す。

「お姉ちゃんは変わらないぞ。これからも多分永遠に。」

 くるくると回転して、一つジャンプ。着地するけれど、やっぱり音はしない。

「妹よ、君がいくら変わってしまって跡形も無くなったとしても、私は変わらずに此処に在り続けるぞ。だからな、妹。嫌になったらまた来るといいさ。いつでも私が身代わりになってあげよう。」

 気がつけば、その場の全てが踊り出していた。折れたクレヨンも、猫の紅茶も、真っ赤なカーテンも。

「慰めにも癒しにもならないだろうけれど、私の所にくれば私はいくらでも踊るし、いくらでも話すよ。それに、いくらでも聞いてあげる。いくら妹、君の声が響いたって、ずっと私は傍で聞いてあげるさ。そうだろう?」

 お姉ちゃんはそう言って、私をきゅっと抱き締める。

 お姉ちゃん。

「どうした、妹よ」

 何か言いたいことがあった気がするんだ。とっても大事なこと。でも、思い出せない。思い出せない。

「……良いんだよ、妹。言わなくても分かってる。さ、キャラメルアイス食べよう。お母さんのとっておき。」

 待って、お姉ちゃん。待ってよ。まだ何かあるんだ。言いたいけれど、ああ、分からない。

「大丈夫だよ、妹。大丈夫。」

 大丈夫。君はもう、大丈夫。

          ✥

 スマートフォンのバイブ音でふと目が覚めた。夏夜の暑さに囲まれて起き上がる。テレビには『東京五輪開催記念』と称して古い映画が流れていた。画面の向こうでは白色の天使が、両手のない少年と話している。私はそれを、ぼうっと見ていた。

 暗闇の中を、不思議が飛んでいた。

 胞子か何かのように、宙を漂って。

 外ではまばらに雨音が響いている。

 蛇口から水滴がシンクに落ちる音。

 古い映画の中で、天使は少年に優しく語り掛ける。

『孤立しても、お前は孤独じゃない。』

 その台詞に、肩を軽く叩かれるように、私は忘れていたものを不意に思い出した。

 急いで立ち上がり、部屋の電気をつけて、それから押し入れの扉をすぐに開いた。目の前に佇むドールハウス。天井部を開いて私は覗き込む。

 固くて飲めないスープ。

 回すことは出来るけれど出鱈目な地球儀。

 折れた緑色のクレヨン。

 緑色の文字盤の目覚まし時計。

 白色の本。

 孤立しても、孤独じゃない。

 お姉ちゃんとはよく、このドールハウスで遊んでいた。懐かしい――すっかり忘れていた。火事で残ったのも、このドールハウスくらいだったな。

『お母さん、助けて』

 お姉ちゃんは、足を火傷して動けなかった私を庇って火の海に飲まれた。すぐ目の前で、あっという間だった。

 すっかり忘れていた。あの夢の間、お姉ちゃんが既に死んでいることなんて、すっかり。

「お姉ちゃん、」

 もう一度私はドールハウスに呼び掛ける。途端、静寂が辺りに広がった。

 私の言葉は反響もしなかったし、オノマトペにだってならなかった。けれども不思議と、背中を撫でられているような安堵感に包まれる。

 お盆も終わりに近づくと、毎年のようにお姉ちゃんは夢の中に現れる。そして私はいつもの通り、お姉ちゃんが死んでしまっていることを忘れてしまうんだ。

 まるで生きているような姉に。

 何を考えているのか分からない姉に。

 不思議で奇妙な世界に誘われて。

 今年も、守られてしまう。

 そして私はまた言いそびれてしまうのだ。言わなくてはならない一言を。

「お姉ちゃん、ありがとう。」

 お姉ちゃんは来年も来てくれるだろうか?

 次こそは、その台詞を伝えられる?

 けれども夏夜の静寂しじまはしらんぷりで、静かに闇を漂うのだった。

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夜の夢にとろけてる 雨籠もり @gingithune

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