第16話「果」
――また、ここに戻ってくるなんて思わなかった。
朱有は車に揺られながら、辺りに目を投げる。
屋根が影を落とす車内を吹き抜けていく風は、清々としていて、緑の匂いがした。道中で見てきた田畑は、以前に見た時より、緑が増え、濃くなっていた。新緑が目に眩しい、とはこういう光景をいうのだろう。
この、なだらかな傾斜を上ったのは、ついひと月前のこと。
春の陽気を感じながら、もうすく家だと心躍らせてこの傾斜を急いだ。
だのに――待っていたのは、あの、赤黒い色に塗れた、惨状。
あの夜、この道を駆け下りた。
気を緩めたら追いつかれる――それはもう必死に、無様に走った。
何度か転んだのだろうが全く覚えていない。目が覚めた時、身体がやけに痛むと思ったら、あちこちに擦り傷やら打ち身があり、着ていた服の膝や肘が破れていたのを見て、それと知った。
隣村に入ったところで、ぶっ倒れた。
早朝の野良作業に出てきた老女に発見され、村長の家に担ぎ込まれたのだ。
ひと月前、使いで訪れた家の主は、朱有を見て「錯乱して家を飛び出し、虎に食われたと聞いていたが」と大層驚いていてが、もともと亡父と懇意だった村長は伯父親子の話も聞き知っていたようで、朱有の話を「さもありなん」と納得してくれた。
そして。
「大丈夫ですか? 朱有さま」
隣からの声に目を向けると、困り顔の少女が、心配げにこちらを見つめていた。
彼女は村長の娘――そして今は、朱有の許嫁だった。
朱有はそこで初めて聞かされたのだ。
先月の使いの目的は、単なる届け物ではなく、自分の品定めだったのだと。
彼女は村長の一人娘で、婿養子を取る予定だった。
だが思いがけず村長に息子が生まれ、旧知だった朱有の父が、「それならば年の頃も近い、うちの息子の嫁にもらえないか」と持ち掛けた。
しかし村長は、大切な一人娘は自らが認めた相手に嫁がせたいと、「使い」の名目で朱有を招いたのだという。
対面に満足し、これから話を進めていこうとしていた矢先、朱家に不幸が訪れてしまったのだと。
娘が泣き暮れて本当に大変だったのだ――そう言う村長の肩口を、頬を赤らめた娘が「もう、やめてください」と何度も叩いていた。
二人は、喪が明け次第、結婚することとなった。
旧朱邸は今はない。
あの夜、火が出て全てが焼き尽くされた。
火の勢いはあまりに強く、伯父の遺体は結局見つからなかったのだという。
今は、この丘を下ったところに、新たな村長夫妻の新居が建築中である。
今日は、二人で朱家の墓に挨拶へやってきたのだった。
丘を下り、水田の中を道を車が進むと、田にいた村人みなが手を止め、こちらを見てきた。好奇心に満ちた無遠慮な視線を浴びながらも、許嫁は、その一人一人に丁寧に頭を下げている。そんな彼女を、朱有は微笑ましく、また心強く見つめていた。
行路神の前を通り、車は墓地へと入った。
彼女は、土と磚で築かれた亀甲墓を、まるで婚家の家族たちであるかのように思いの溢れた目を見上げると、跪き、頭を地に何度も打ち付け、涙ながらに手を合わせた。
その姿を見て、朱有は静かに泣いた。思えば、家族を喪った悲しみで涙するのは、初めてのことだった。
墓参りを終えた二人の車は、山中へと入っていった。
この先にはあのお堂がかつてあり――今は、墓が築かれていた。
朱有が山中を過ごしたという堂の話をしたところ、村長は家の者を使わして、身の回りのものを取ってくるように言いつけた。そこで、女性の衣装らしきものが貼りついた白骨遺体が、発見されたのだ。
「きっと気の毒な身の上の君を、女の霊が哀れに思い、護ってくれたのだろう」
黙り込む朱有に村長はそう声をかけ、素性の分からぬ女一人のために、墓を造らせたのだった。
何度説得しても、彼女に礼が言いたいと珍しく譲らない許嫁に、朱有は結局折れた。
ただし条件として日の高いうちに行くこと、家人を複数人連れて行くことを上げた。山中はどんな危険があるか分からないからと言いはしたが、朱有の眼の奥には、あの夜に見た紅い口が浮かんでいた。
この日のために道を整えていたのだろう、車は滑らかに山中を進み、あっというまに目的地に着いた。
墓は、小さいながらもきちんとした亀甲墓だった。
真新しい墓には、真新しい花や団子や水やらが幾重にも備えられている。僕が堂で口にしていたものよりずっと豪華だな……そんなことを朱有は思った。
許嫁の手を取って車から下り、家人から花を受け取った朱有は、じっと墓を見つめながら近づいて行った。背後からは許嫁が控えめについてきている。
――葉佳。
墓の前で立ち止まり、朱有はそう呼びかけた。
「どうか、安らかにお眠りください。――お護りいただいて、本当にありがとうございました」
そう声にして、手にした花を供える。
膝をつき、叩頭すること数度、何か聞こえた気がして、朱有は頭上を見上げた。
見上げた先、青い空に、細く長い雲が、やけに早く流れている。
『ずうっと――一緒にいてくれるのよね』声は、確かに聞こえた。
突如巻き起こった一陣の風。
許嫁が肩にかけていた巾や車中の備品やらが飛ばされ、皆が右往左往する中、視線一つ動かせない朱有の目の前に現れたのは――目の奥に焼き付いていたはずの、妖しい「紅色」
許嫁の悲鳴。
自分の名を呼ぶ家人たちの声が聞こえた――気がした。
墓が真っ二つに割れた――そう思った瞬間、強く手を引っ張られた。
振り返ったその先で、恐怖で歪んだ顔を涙で濡らす許嫁が自分の名を叫びながら手を伸ばしているのを、家人たちが必死に取り押さえていた。
朱有も手を伸ばしかけ――だが視界が両脇から扉が閉ざされていくように狭まっていき、やがて消えた。
(終)
焦熱 天水しあ @si-a
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