第15話「怯」

 ひやっとした気配がして、首筋を押さえて振り返る。


 だけど背後に広がるのは、青白い月に照らされた、なだらかな傾斜。その先は闇に沈んでいる。

 正面に目を向けたが、やはり何の気配もない。壁沿いに繁る雑草は、豪も揺れていなかった。


 ――気のせい、か? 


 堂を出てから、ずっと心が落ち着かない。

 必要以上に過敏になってしまうこの感じ、厳粛な祖父の大事な置物をうっかり割ってしまい、恐れながら日々を過ごしたことを思い出す。


 自分の仕業だと、ばれやしないか――と。 


 

 今は住人のいない家屋を抜けて、内庭に出た途端、「何だこれ……」声が、漏れそうになった。


 青白い月明かりが降り注ぐ内庭は、見るからに荒れていた。

 草は伸び放題で、小枝や落ち葉は散らばったまま。手入れがされているとは思えない。いくら不幸続きだからと言っても、祖父が亡くなったときだって、家人なり村の誰かなりが掃除していたはずなのに。


 進んでいくと、家人が寝静まっているはずの建物の扉があちこち開いていた。

 中を覗くと、床には卓子や椅子が倒され、衣類が散乱し、割れた鏡が辺りに散らばっている。盗賊でも入ったのかと疑ってしまうほどに。

 扉の閉まっている部屋の扉を押してみると、難なく開いた。

 鍵がかかっていない室内は整頓されていて、ついさっきまで人が暮らしていた気配はあるけれど、無人だった。他の部屋も同じだ。


 誰もいない。

 どういうことだ。たった半月で、この荒みよう……。


 歩を進めるほど、記憶とは違う風景が重なっていく。これまでとは違う不安が募ってきて、朱有は思わず足を止めた。

 何かを探し当てたい気持ちと、これ以上は見たくないという気持ちがひしめき合っている。


 庭の隅でくさむらが小さく鳴った。

 風か――そう思ったとき、何かが、耳をかすめた。

 耳をそばだてる。葉擦れの音が聞こえる。その合間に、切れ切れに聞こえる「声」


 この声――思ったとき、朱有は駆け出していた。


 内庭を突っ切って、欄干を飛び越えて母屋に入り、廊下をひた走る。この先は、かつては祖父の、ついこの間までは父の、そして今は――。


 前方の扉は僅かに開いていた。


 そこで朱有は歩を緩め、静かに、大きく、息を吐いた。

 一歩ごとに胸が激しく打ち出して、妙な音が漏れないように息を殺す。そうして扉の前に立ち――そっと、中を見た。


 灯一つなく、窓も閉ざされた室内は、ただ闇に沈んでいる。はずだった。


 だけど――帳向こうの床台は、ぼうと浮き上がっている。

 下に敷かれた夜着と、その上に横たわる伯父の肌の白さ。


 さきほどから耳に流れていた呻き声が、はっきりと聞こえる。まるで首を締めあげられている鶏のような声を上げている伯父は、恍惚の表情を浮かべている。頬骨とあばら骨が、色濃い陰影を作るほど浮き出ていて、曲げられた手足は、枝かと思うような細さ。


 あれは人じゃない。あれは、まるで……。


 その、人ならぬものに跨っているのは、――滑らかな肢体にまとわりつくように流れる黒髪から覗く横顔。毒々しいほど赤い口角が、上がっているのが目に焼き付く。


 あの、弥勒菩薩を思わせる、あの笑顔。

 この、全身に怖気立つような、言いようのない感覚。


 気づいたら、後ずさっていた。

 気づいたら、走り出していた。

 朱有は母屋を出て内庭を突っ切り、裏口から家を飛び出した。一度も足を止めず、一度も振り向かず、転がるようにして丘を駆け下った。


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