第14話「札」
天上の満月が、辺りを白々と照らし出し、その影を色濃く落としている。だが、どこにも葉佳の姿は見えない。
何処へ? そう思った。
だけどそれ以上に改めて思った――今だ、と。
朱有は堂の階段を駆け下りると、堂正面の山中に続く道ではなく、いつものように裏手に回った。
杉の葉群で道は暗く足元は定かではない。だが通いなれた道、そして所々射し込んでくる月光に助けられながら、朱有は小走りに進んでいく。何度か石や道の隆起に足を取られたが、すぐさま体勢を整え、足を緩めることはなかった。
やがて杉林を抜けた。
そこに、いつもの色鮮やかさと賑やかさはない。
あるのは、青みがかった白と黒に包まれた、静謐な世界――麓の行路神で二股になる道にも、水の張られた田にも、人影はなかった。
村に人影がないことを確認した朱有は、岩に手をかけながら、後ろ向きで斜面を下りた。
斜面は急ではあるが、月明かりが辺りを照らし出してくれている。それについ先日、従兄の姿を追って下りたばかりで、通りやすい場所も危うい場所も、まだ記憶に新しい。
山中から麓に続く道は、昼間は通りやすいだろうが、今時分は鬱蒼と茂った草木で闇に沈んでいることは想像に難くない。虎はいないだろうが、野犬の類はいるかもしれない。
それに何より――見つかりたくない。朱有は強くそう思った。
時に足をかけた岩が崩れ、時に急すぎる傾斜に足を止められず、何度か斜面を転がるように滑り落ちた。あちこちを擦りむいたが、むしろ「これで距離が稼げた」と朱有は思った。
麓に下り、行路神の前を横切って、走り出す。水田に満月が揺れていた。ただ自分の息遣いだけを聞きながら、朱有はひたすらに道を走る。
水田を抜け、集落を抜けた。ゆるやかな傾斜の先、見慣れた建物が近づいてきた。
やがて、土壁に囲まれた建物を前にして、朱有はようやく足を止めた。突き上げてくる呼吸で、胸が痛い。
息を整えながら、朱有はゆっくりと歩き、かつての家に近づいた。もう家人はみな眠っている時間だ。だから、この静けさはいつものことのはず。
だけど何なのだ――この、何か立ち上ってくるかのような、禍々しい「気」は。
朱有は壁に沿って歩き、家の裏手に回った。
裏口は、家人が減ったことで人のいる建物から遠くなってしまい、滅多に使われなくなった。ために戸がどんどん重くなり、ますます使われなくなってしまっていた。
だから鍵は、申し訳程度に木の棒が渡してあるだけ。戸をがたつかせれば、簡単に外れたはず。
角を曲がる。
途端に視界が暗くなった。いつしか月は天上を過ぎ、傾きだしていた。
「なんだこれ」戸口に立った時、朱有は思わず呟いた。
扉に何かが貼り付けてあった。何枚も。
開閉禁止だとばかりに、扉と壁を繋ぎとめるように、短冊が貼り付けられている。
朱有はそのうちの一枚を剥がし、壁の陰から抜ける。月の光にかざしてみると、短冊には、流れるような文字が細々と書き連ねられていた。
「これって……」
先日使いに行った隣村で、訪ねた家の門に似たようなものが貼り付けられていたことを朱有は思い出した。
聞くに、旅途中の道士を泊めた際、「最近家人の怪我が多い」と話したところ、一宿一飯の礼にと道士が置いていったものだという。
道士は言ったという。「これを家の出入口に貼っておけば――」
心が騒めき出す。
朱有は再び戸口の前に立ち、戸と壁の僅かな隙間に指先を入れ、戸をがたつかせた。耳が痛くなるほどの静寂に響く、不穏な音。だが構わなかった。
戸の向こうで、乾いた音がした。
鍵として戸に渡していた木の棒が落ちたのだ。
朱有が身体を預けるようにして戸を押すと、軋んだ重苦しい音とともに、少しずつ扉が開いていく。
貼り付けられていた札が破れ、剥がれ、はらはらと地に落ちた。
それを踏みつけて朱有が扉を開けた時、傍らを何かがすり抜けた気がした。
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