終章

終章

水穂さんは、しずかに眠っている。

先ほど、無理やり飲ませた止血剤が効いてくれて、やっと眠ってくれたという訳であるが、それにしても、先ほどの状態が続いていたら、危ないところだった。まだ、予断を許さない状態なので、メイも、ガブリエル先生も、水穂さんの観察を続けていた。

一時は、どうなってしまうのか、メイは不安でどうしようもなかった。もはやこれまでなのか!何て神頼みしてしまったような気がする。もし、余裕があったら、十字を切ってお祈りしたかったくらいだ。

ガブリエル先生は、眠っている水穂さんの顔を真剣に観察しながら、一生懸命何か考えていた。まだ、水穂さんに対して、打つ手はあるのだろうか、とメイは考えたが、口にしたくなかった。そんなことを言っていい雰囲気ではなかったからである。

しいんとした、長い時間がたった。いつの間に、夜は明けて朝になっていたのを、メイもガブリエル先生も、すっかり忘れていた。

「先生、ご家族に連絡を、」

と、メイが、ガブリエル先生に言いかけたその瞬間、細い、細い声がした。誰がしゃべったんだろうとメイは周りを見渡すが、いるのは、自分とガブリエル先生と水穂さんだけである。先ほどの声は、ガブリエル先生の持っている太い男の声とはわけが違う。と、いう事は、水穂さんの声だろうか。水穂さんは、眠っているはずなのに、声がする筈はないと考えたが、多分、夢でも見て、寝言を言っているんだと考えなおした。その声は、メイには次のように聞こえたのである。

「日本に帰りたい。」

そんなに!と、メイは悲しくなってしまったが、ガブリエル先生にも、なぜかこの言葉は通じた。日本語など全く分からないはずのガブリエル先生が、いきなりこういうことを言い出した。

「そうですか。彼の最期の望みになるでしょうから、かなえてやりましょう。」

「ちょっと待ってくださいよ!最期の望みって、どういうことですか。もう治療方法がないんですか?」

メイは、おどろいてそう言い返したが、

「はい。ありません!」

と、ガブリエル先生は言った。

「こっちへ来るのがもう少し早かったら、まだ打つ手はあったかもしれませんが、こうなってしまった以上、手の施しようがない。私たちに出来る事は、すべてやりました。あとは、彼が、安らかに眠っていただけますよう。」

「何を言うんですか。先生らしくありません。先生はいつも患者さんに、必ず治るから大丈夫だって、勇気づけておられました。私は、その姿に感動してここまで来たんです。その先生が、もうあきらめるなんて、いったいどういう事なんでしょうか!」

メイは、急いでそう言ったが、ガブリエル先生の目は落ち着いていた。なんで落ち着いているんだろう、と、メイは不思議な気持ちだったが、

「しかし、ご家族には、この事実は伏せておきましょう。回復したという事にしておきましょう。医療の知識がない人に、この事実を伝えてしまうのは、一寸可哀そうすぎます。」

と、ガブリエル先生がそういうので、驚きというか、怒りさえ感じてしまうのであった。

「一体どういうことですか!ご家族にも事実を告げないで隠しておこうなんて、いずれ分かってしまう事だと思うんですけど!」

「いいえ、家族に知らせることができないほど、容体は深刻です。今は、彼の最期の望みをかなえてあげられるように、ご家族にも告げないで置いた方が、いいと思うのです。」

「つまり、嘘をつくという事ですか?」

メイは、ガブリエル先生に言った。先生は、黙って頷いた。

「いいえ、メイさん、医学に携わっているとね、こういうことは、たくさんありますよ。」

医者は其れで片付けてしまうのだろうが、ご家族は本当につらいよなあ、、、とメイは、涙を浮かべて、がっかりと落ち込んだ。

「さあ、メイさん、ご家族に伝えてください。もう落ち着いたから、あと数日で日本に帰れますと。」

「はい、、、。」

涙ながらに、メイは、電話を掛けに、ナースステイションに戻っていった。

「そうですか、あいつも、そこまでよくなったんですか。其れはいい傾向ですなあ。よかった、よかった。」

知らせを聞きにやってきた杉ちゃんが、にこやかに笑っている。メイは、それを聞いてなんだかつらくてたまらなかった。マークさんもほっとした顔をしているけれども、それが本当の事だったら、どんなにいいだろうな、と思った。

「ほんなら、水穂さんに会わせて貰えんでしょうかな。もう帰っていいのならそれでいいでしょう?」

杉ちゃんにそういわれて、メイはドキッとした。それを言われたら、もしかして私たちの嘘がばれてしまうかもしれない!と思わず身構える。

「い、いえ、今日は勘弁してあげてください。水穂さん、今日は疲れているみたいで、朝からずうっと眠っているんです。起こしてしまったらかわいそうでしょう。」

メイは、とりあえずそういうことを言った。

「でも、良くなったという事は、面会してもいいという事でしょう?」

杉ちゃんにそういわれて、メイはまたドキッとした。

「本当に今日はちょっと、、、。」

「変なやっちゃな。よく成ったら、面会してもいいはずだけどな。」

杉三がそういうと、マークさんが、今日は疲れているんだろうから、帰った方がいいかもねと、杉ちゃんに促した。メイは、何を言おうか迷っていると、

「まあそうかもね。よし、今日はとりあえず帰るか。」

と、杉三が言ったため、ほっとした。とりあえず悪化していることを何とか隠さなければならない。それには、水穂さんにも、演技指導が必要だと思った。

「ほんじゃあ、お願いしますよ。水穂の事、後しばらくだが、よろしく頼むな。」

と、杉ちゃんは言って、マークさんと一緒に帰っていく。その背中を、メイは、にこやかに、でも悲しい気持ちで見送った。


その次の日。また杉ちゃんたちがやってきた。今度は、年寄り夫婦を連れてきたので、メイはさらにびっくりした顔をする。

「あの、万事屋さん夫婦が、水穂さんにどうしても渡したいものがあるそうで、連れてきたんだよ。」

マークさんの通訳で、メイは、困ってしまった。こうなってしまっては、会わせないわけにはいかなかった。しかたなくメイは、杉ちゃんたちを水穂さんのいる病室まで連れていく。

「おい、水穂さん!」

杉ちゃんは、ドアをガチャンと開けた。水穂さんは、眠っていたが、すぐに、目を覚ました。

「お、もう、例の点滴もしてないじゃないか、瘧熱の薬は、そんなに効果的だったか。」

と杉ちゃんは言った。確かに、点滴の包帯は外されている。其れは確かだった。

「でも、紙みたいに白い顔をしているのは相変わらずなんだな。」

と、杉ちゃんはそういうことを言う。其れは入院する前と変わらないよ、とマークさんが訂正した。

「杉ちゃん、こちらのご夫婦は?」

と、水穂さんが、弱弱しく聞くと、

「私たちは、パリ市内で万事屋をやっております、ラターと申します。あなたの事は、こちらの杉三さんから聞きました。」

と、ラターさんが答えた。勿論、マークさんが通訳したので杉ちゃんには通じた。

「始めのころは、この杉三さんたちが、大量にそば粉を買いに来たので、一体なんだと思っていましたが、あなたに食べさせるためだったんですね。あなたの事については、トラーちゃんから、聞いていましたが、初めのころは、本当にそうなのかどうか、ちょっと疑っていました。」

つまり、杉ちゃんが、爆買いに近いような買い方で、そば粉を買っていったのだろう。確かに、外国の人から見たら、おかしな人に見えてしまうかもしれない。

「でも、トラーちゃんや、杉三さんの話を聞いて、うつ病だった家の妻の気持ちが変わったようでしてね。その、可哀そうな人に、そば粉のケーキでも作ってあげたいと言い出しまして。妻が、他人の事で悩むようになったのは、本当に久しぶりですから。それまでは、自分はだめだとか、自分は役に立たないとか、そういう事ばっかり話していたものですから、、、。」

確かに、そのように変わっていくことは、鬱を患う人の家族にとっては、本当にうれしい事なのかも知れなかった。鬱の人というのは、大体が自分の事ばかり話して、他人のことまで考えている余裕もなくなってしまうからである。

「そして、あなたにそば粉でケーキを作ってあげたいと、なんと、ケーキ教室まで通い始めたんです。先月の今頃だったら、みんな私の事なんてどうでもいいと思っていると言い張って、周りの意見など聞きませんでしたし、外へ出ても、人が怖くて、落ち着いて行動できませんでした。そんなことまで急にできるようになってしまって、私は、驚きというか喜びというか、なんとも言えない気持ちでいっぱいです。」

ラターさんは、白髪頭をかじりながら、そういうことを言った。

「この頭がね、その証拠です。先月までは、妻の事で、さんざん悩んでいましたが、今は手のひら返すように変わってくれたので、信じられないです。」

隣で、奥さんがにこやかに笑って、夫の話を聞いていた。穏やかに話を聞いていられるのも、彼女が、おちついていられるようになった証拠だ。

「それにしても、水穂さんは、随分お美しい方なんですね。」

奥さんのハナが、優しそうな声で言った。

「そんなわけですので、家の妻が作りました、蕎麦ケーキ、あなたに食べていただきたいんですが、お願いできませんか?」

と、ラタ―さんが言う。

「ちょっと待て、クリームとか、そういうモノは使っていないだろうな。其れは、水穂さんには凶器になってしまうぞ。」

と、杉ちゃんが、口をはさんだ。

「ええ、心得ておりますよ。それは杉ちゃんから、耳が痛くなるほど聞きました。」

ラターさんはにこやかに笑った。

「ですから、生クリームもバタークリームも使わないで、ただのシフォンケーキにしました。どうぞ、食べて下さい。」

ハナがそういうと、メイは、食べさせてやった方がいいなと思った。水穂さん、起きられますか?と言って、水穂さんの体を抱え起こして、ベッドの上に座らせた。ハナが、ベッドテーブルの上に箱を置いて、縛っていたリボンを解き、箱を開ける。中には、シッカリ切れ目の入った、シフォンケーキが入っていた。

「さあ、皆さま一切れずつどうぞ。」

ラターさんがそういうと、杉三もマークさんも、いただきまあすと言って、ケーキを取って食べた。二人とも、おいしいとか、食べ応えがあるなとか、そういうことを言っていた。

「水穂さんもおひとついかがですか?」

ラターさんが、水穂さんに言った。メイは大丈夫かな、と心配だったが、そば粉だったら大丈夫か、と考え直し、彼の前にケーキを一切れ渡した。水穂さんは、笑ってそれを受け取った。そして、ほんの少しだけど、蕎麦ケーキを口にした。

「よしよし、水穂さんも食べてくれたぜ。」

杉三は、ケーキっを食べている水穂さんを見て、にこやかに笑った。幸い、水穂さんが咳き込むことはなかった。そうなれば、よくなっていると見せかけることもできるかなとメイは、思った。ラターさん夫婦が帰るまで、水穂さんは、穏やかだった。ラターさんたちが帰った後で、さて僕らもそろそろ行こうか、なんてマークさんが言いだした時まで、メイは、水穂さんが疲れてしまわないか、気が気ではなくて、落ち着かなかった。じゃあ、僕らも帰ろうと、杉ちゃんがそう言うと、メイは、急いで水穂さんをベッドに寝かせた。


二人が、病室を出て、そのドアを閉めると、メイは、一寸ほっとした。今日はばれずに済んだかあと、言う意味である。しかし、ドアを閉めた直後、廊下から、こんな言葉が聞こえてきたので、ぎょっとする。

「なあ、もう水穂さんよくならんのだろ?」

あの、杉ちゃんという人が、そういうことを言っているのだ。あの乱暴な口調は、彼の物である事は疑いなかった。マークさんは、どうなんだろうなと、わざととぼけたような返事をしているのがわかる。

「僕知ってるんだぜ。みんな、もうよくならんという事で、僕らをここに呼び出したんだんだろ?水穂さん、どんなに薬使っても、よくならないんだろう?」

メイは、その言葉が終わるか終わらないうちに、病室の外へ飛び出した。水穂さんと会話を円滑にするため、日本語を勉強した成果は、こういう風に、発揮されてしまうのか!

「待ってください。水穂さんの事は、私たちが。」

メイは、思わず廊下にいた杉ちゃんにそういうことを言った。

杉ちゃんは、それ以上言わなくていいよ、という顔でメイの顔を見た。確かに、口調は乱暴だが、その目は、決して怖い顔ではなかった。それよりも、とろけそうに優しかった。

「看護師さん。今まで水穂さんの面倒見てくれてありがとうな。」

杉ちゃんの一言に、メイは、涙を流した。

「もう、演技なんかしなくてもいいんだぜ。それより、人間は、事実に対してどうするかを考える事しかできやしないってことを、頭に叩き込んで置け。」

「ごめんなさい、私、ガブリエル先生の指示で。」

其れより先は、いくら日本語を勉強してもいう事ができなかった。

「いや、気にしないでいいよ。僕らも、わかるからよ。さすがに、あの万事屋さんには伝えていないけどさ、いずれは分かっちまう事だろうよ。だから、気にしないでくれや。」

「気にしないでくれって、日本人はそういう事軽く言うけど、どうしたらいいのか、わからないですよ。」

メイはやっとそういうことを言った。

「だから、気にしないでいいんだよ。気にしないで。そんな事気にしたら、看護師は務まらんぞ。もっと、図太い神経を持てや。」

「ええ、水穂さん、日本に帰りたいとうわごとを言って、、、。」

と、メイは、思わずそれを言ってしまった。なんで自分はこんなに口が軽いんだろうと思う。杉ちゃんの言う通り、もっと図太い神経をしなければだめだ。でも、そんなものどうやって得られるものだろうか。

「そうなんですか。それでは、日本で発疹熱の流行が下火になったら、戻してあげましょう。」

不意にマークさんがそういうことを言った。

「こちらではあまり情報も入ってきませんけど、日本はどうなっているか、一寸調べてみます。」

「ええ、確か、テレビのニュースでやっていましたけど、感染者は横ばいになっているとか。」

メイは、涙をこぼしてそういうことを言った。

「医療従事者として、テレビや医療雑誌などでも取りあげられているのを見るんですが、最近は、気候が暖かくなってきたせいか、そうなっているようです。高齢者や子供さんなどでは、死亡した人も出たようですが。大半の人は、比較的軽症らしいですが、、、。」

「なるほど。まあ、抵抗力の弱い奴らはそうなるな。」

と、杉ちゃんは言った。

「でも、日本には、いわゆるロックダウンという、国土を封鎖するとか、外出すると逮捕するという法律がないので、あまり日常生活は変わらないって、ほかの看護師が話しているのを聞いたことがありますけど。」

つまり、そういうことは行われていないというのなら、いつでも帰ってもいいという事である。日本の法律は甘いというけれど、別の面から考えれば、民主的なのかも知れなかった。

「まあ、いいじゃないか。何でも、始まりもあれば終わりもあるよ。日本が落ち着いて来たら、そこへ帰ろう!」

杉ちゃんは、にこやかに笑って口笛を吹いた。

「まあ、お前さんの事は、本当に感謝しているよ。本当に、手取り足取り、水穂さんの事を、看病してくれてありがとうな。また、白人のつまんない奴らにいじめられちゃうと思うけどさあ。ちっちゃいことは、気にしない精神で、頑張ってくれ。」

そうだよね、私は、変わらないんだ。相変わらず白人の看護師たちにいじめられてしまうんだ。

「じゃあ、今日はこれで帰るけど、あと少しの辛抱だ。もうちょっと、水穂さんの事、見てやってくれよ。」

と、杉ちゃんは、マークさんと一緒に病院の廊下を歩いて行ったのだった。


「どういう事よ!」

トラーは、テーブルをバシンとたたいた。マークさんは困った顔をしている。杉ちゃんはと言うと、のんきにフライドポテトをべらりべらりと食べていた。

「まあ、そういう事だ。日本で発疹熱の流行が下火になったら、水穂さんの望み通りに、日本へ帰してあげよう。」

と、マークさんは言うが、それも逆効果だった。トラーはさらに声をあげて、

「そんな事言って、水穂、もうよくならないんだったら、ずっとこっちに居させてあげるのが、あたしたちの出来る事じゃないの!」

と、言うのだった。

「そうだけど、水穂さんの望んでいることだし、水穂さんにはもう時間がないんだから、かなえてあげようよ。そうさせてあげるべきじゃないのかい?僕たちの事情で、水穂さんを引き留めてしまうのは、いけないと思うよ。」

マークさんがトラーにそういうと、

「だけど、水穂の体の事も考えてよ。そんなからだなら、飛行機に長時間乗っていくのに、耐えられるはずもないわ!それに、日本では発疹熱の流行も終わってないんでしょう?それにかかって水穂、終わっちゃったらどうするの!」

と、トラーはさらに言った。

「トラちゃんは、水穂さんにこっちに居てほしいから、そういうことを言うんだな。でも、僕は、日本人だから、日本で終わりたいっていう気持ちもわからないわけではないよな。」

と、杉ちゃんは、フライドポテトを食べながら言った。

「まあ、お前さんの気持ちがわからないわけでも無い。だけど、僕らはやっぱり、日本人だからさ、最期には、生まれた故郷に帰りたいっていう気持ちはだれでもあるわけだよね。ほら、昔、遣唐使で中国に行った、阿倍仲麻呂という人が描いた歌を知っているか?天のはら、振りさけ見れば、春日なる、三笠の山に出し月かも。」

「古いわね、そんなもの。」

と、トラーは言った。

「あたしは、今の時代なら、どこで暮らそうと個人の自由だと思う。わざわざ、生まれ故郷へ帰りたいなんて、年寄りじゃあるまいし、いいところならどこに居たっていいと思うわ!其れで良いじゃないの!」

「いい加減にしろよ!」

マークさんがお兄さんらしくそういうことを言った。

「水穂さんの気持ちも考えてやれよ!好きなら、そういう事ができるはずだよ、わかる?」


何日かして、日本では発疹熱の感染者が減少したと報じられた。まるで、時期を見つけて大移動を始めるバッタの大軍と同じようなものであった。一体彼らはどういう目的で、日本にやってきたのだろうか。



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同和地区から来た男 増田朋美 @masubuchi4996

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