第六章

第六章

「おはようございます。」

朝食を持ってきたメイは、にこやかに言った。水穂さんは、それを聞いてすぐに目を覚ました。

「ご気分はどうですか?」

メイが聞くと、水穂さんは、変わりありませんと答えた。

「変わりありませんですか。そう言われると、正直力が抜けてしまいました。私たちはよくなってほしくて、治療しているのですから、一寸でも変化があったら知らせてほしいんですけどね。」

メイはちょっとがっかりした顔をする。日本では変わりありませんというと、喜ばれるのであるが、西洋ではそうではないみたいだ。水穂さんは、なにかいおうと思ったが、メイは、もういいですよ、と優しく言った。

「さあ、お食事にしましょうね。今日も、しっかり食べてください。野菜中心の食事にしましたし、肉も魚も一切入っていませんから、安心してくださいね。具合が悪くなる食品は一切入れませんでしたから。」

メイはそのまま、おかゆの入った器を、ベッドテーブルの上においた。

「さあどうぞ、今日もたくさん食べてくださいよ。」

おかゆのお匙を、水穂さんの口元へもっていくと、水穂さんは、ありがとうございます、と言って、中身をくちにし、それを飲み込んだ。

「さあ、もう一口行ってみましょうね。ただし、のどに詰まると大変ですから、ユックリ食べてくださいね。」

メイは改めてお匙を口元へもっていく。水穂さんはしっかりと中身を口にした。

「もう一口。行けますか?」

もう一口も大成功。それを何回か繰り返して、お皿の中身はすっかりなくなった。

「ごちそうさまでした。」

水穂さんはそういって、メイが渡した吸い飲みの水を飲みこんだ。水と同時に、何か暖かいものが、水穂さんの顔に触れた。

「どうしたんですか?」

水穂さんが思わず聞くと、

「いえ、いえ、やっと吐き出さずに食べていただけたので、思わず感動してしまったんです。あ、違うかな、感激と言った方がいいのかしら。私が、一方的に感じただけの事ですものね。感動と感激は違うって、本に書いてありました。なんでしょうか、すみません、日本語は、そういうところが難しくて、、、。」

と、メイは答えた。とにかく、もの凄く、感極まってしまった事は確かなんだろう。確かに、日本語は心の動きを表す語は多いので、困ってしまう事も多いだろう。

「どちらでもいいじゃないですか。」

水穂さんは言った。

「言葉なんてどっちにしろ、不完全なものですから、どんな言語でも表現できないことはありますよ。其れは、そのままでいいと思います。」

「まあ、そんな事いっていただけるなんて。」

つまりここは西洋だ。どんな小さなことでも言葉でしっかりと表さなければ、だめと言われる世界である。白黒はっきりしなければ、いてはいけない世界なのだ。曖昧にしていたら、バカにされることもある。

「そうなんですね、こちらでは、あいまいなままではだめで、徹底的にはっきりさせなければいけないといつも言われていたけれど、日本の人たちは、そうしなくてもいいと思ってくれるのね。」

「ええ、言葉より、共有するほうが大事なのではないかと思っていますから。」

水穂さんは、そういってまた咳き込んでしまった。メイは急いで看護師の顔に戻って、急いでナースステイションにもどって薬を取りに行く。そして水穂さんの背中をなでてやって、出すべきものを吐き出しやすくしてやった。持ってきた薬を飲ませると、数分後にせき込むのは止まって、しずかに眠りだしてくれた。メイは、空っぽになった食器を係の者に戻して、水穂さんにかけ布団をかけてやり、ナースステイションに戻った。

メイが、水穂さんの看護記録を書いていると、また白人の看護師たちが、彼女にまたあの日本人にちょっかいを出しているのかとか、嫌味をいってくるのだった。メイはそれを言われても、黙って記録を書き続けていた。最近は、白人たちの嫌味にも耐えられるようになってきている。いくら嫌味をいわれても、気にしなくなった。ただ、水穂さんがよくなってほしいとしか考えていなかった。

がちゃんと音を立てて、ガブリエル先生が、入ってきた。メイはすぐ書くのをやめて、おはようございます、とガブリエル先生に挨拶する。ガブリエル先生は、水穂さんの様子はどうだったかと聞いた。メイは、一寸ためらったが、

「ええ、朝食は残さず食べてくれましたが、薬が切れてしまうと、やはり咳き込んで吐いてしまうことを繰り返しています。」

と言った。ガブリエル先生も、禿げた頭をかじりながら、

「そうですかあ、薬を与えている間は止まるが、切れるとすぐに元に戻ってしまいますか、、、。」

と一つため息をついて考えこむ。三角顔を傾けて、暫く考え、

「よし、あれを使ってみるか。」

とメイに言った。

「あれって何ですか?先生。」

メイが聞くと、

「あれはあれですよ、いくら免疫抑制剤と投与しても一進一退を繰り返すばかりでは意味がないので、別の薬にしましょう。」

と、答える。別の薬って何があるんだとメイが聞くと、ガブリエル先生は、説明するから、ご家族を呼び出してくれという。メイは分かりました、と急いでモーム家に電話するために、電話を掛けに行った。


「一体なんで僕たちがまた呼び出されなければならないんだろうね。全く、こっちの病院は、よく人を呼び出すな。」

病院から電話を受けて、タクシーに乗った杉三は、隣の席に座ったマークさんに言った。

「本当に、日本では、こういうことはなかったの?」

マークさんが聞くと、杉ちゃんはないと即答した。マークさんはそれを聞いて首をかしげる。

「どうもわからないな、入院したら、定期的に、患者さんの様子を報告するのは当たり前だと思うけどねえ。家族だって、それについて知る権利はあるだろうし、というより、家族の人だって、知りたがると思うけど?」

「まあしょうがない。日本では、病院から呼び出されることなんてほどんどないのさ。呼び出されるとしたら、二度と帰ってこないことが確立した時かなあ。」

「なるほどねえ。日本人がいかに冷たいか、わかる気がするよ。」

杉ちゃんの発言に、マークさんはため息をついた。

そうこうしている間に、病院の正面玄関に到着する。二人は運転手さんに下ろして貰って、病院の中に入った。受付に行くと、こちらの部屋に来てくれと言われ、会議室に直行する。

会議室に入ると、ガブリエル先生が待っていた。日本では、挨拶するのが当たり前だが、こんにちはと挨拶する暇もなく、杉三は、こういうことを言った。

「で、今日はなんで僕らを呼び出したんだ、水穂さんまた何かあったんかよ。」

「ええ、そういう事です。」

マークさんの通訳を介し、ガブリエル先生も単刀直入に言った。

「今まで、彼の治療は、免疫抑制剤と止血剤の投与を中心に行ってきましたが、一向に効果がなく、一進一退を繰り返してばかりなので、今日から、使用する薬剤を変更しようと思うのですが、宜しいでしょうか?」

「なんだ、そんな事で僕を呼んだのか。日本では勝手にやっちゃうもんだけど。」

杉三は、はあ、という顔をして、ガブリエル先生に言った。

「当たり前じゃないですか。勝手にどうのこうのなんて、こちらではしませんよ。身内の方の許可をもらわないと、もし、患者さんに何かあったらどうするですか。こっちが勝手にやってもし、患者さんの容態が悪化したなんてことがあったら、それはいけないでしょうが。」

勿論、マークさんが、ガブリエル先生の言葉を通訳してくれた。

「まあねエ、確かに日本の病院みたいに、死んでから申し訳なかったと謝られるよりは、いいかも知れないねエ。」

「そうですよ。そうならないように、私たちは患者さんの身内の方に報告するようにしているんです。今日から、水穂さんの薬を変更して、免疫抑制剤ではなく、抗マラリア薬を投与して見ようと思うのですが、宜しいですね?」

ガブリエル先生は、シッカリと言った。マークさんの通訳で杉ちゃんには通じた。

「マラリアねえ。日本語で言う所の、瘧熱の事だよなあ。しかしなんで、瘧熱の薬で、水穂さんの病気が治せるんだい?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、詳しいメカニズムは解明されていませんが、抗マラリア薬が、免疫の調整作用を起こすようでしてね。それで、暴走した自己免疫をうまく整えてくれるようなのです。」

と、ガブリエル先生は言った。マークさんの通訳を聞いて、杉ちゃんは、

「はあそうか。まあ、期待はしないが、とりあえずやってみてくれ。どんな作用をしてくれるかなんて、知りたくもないが、其れで何とかなるという事でね。」

と、言った。

「では、それでは、治療開始を許可してくれるわけですね。」

と、ガブリエル先生が言う。マークさんが通訳すると、

「なんでも、こっちで許可しなきゃいけないなんて、なんだか変な国家だな。なんで、わざわざこっちで、許可しなきゃならないんだろう。日本は何でも医者任せで通っちゃうんだけど?」

と、杉ちゃんは、素っ頓狂に言った。

「まあ、仕方ないよ。杉ちゃん。こっちはこっちなりのやり方があって、理由だってちゃんとあるんだからね。」

マークさんが杉ちゃんにそういうと、

「ああ、そうだねえ、郷に入っては郷に従え、か。」

と、杉ちゃんは、にこやかに言った。

「では、許可がとれたようなので、これで宜しいですね。今日から、水穂さんに、抗マラリア薬を投与する事に致します。何か、不安な点等がありましたら、遠慮なくお問い合わせください。私たちも、何か疑問点でもありましたら、すぐにあなたを呼び出しますからね。」

と、ガブリエル先生は言った。杉ちゃんは、この国家では、患者ばかりではなく、周りの人間も一丸となって戦うことを要求されるんだなと、言って、カラカラと笑った。

その日から、水穂さんには、免疫抑制剤ではなく、抗マラリア薬が投与されるようになった。それがどういう風に、変わってくれるかは不詳だが、とにかく、ガブリエル先生は、あきらめずに投与を続けようといった。


数日後。

「おはようございます。」

メイが、水穂さんの朝食をもって、病室に入ってきた。水穂さんは、静かに目を開けた。

「よく眠れましたか?」

「ええ、まあ。」

と水穂さんは言った。

「ご気分は、かわりありませんか?」

水穂さんは黙って頷いた。

「そうですか。日本では、黙るのも、そうだという事だと本に書いてありました。それでは、ご飯にしましょうね。今日も、シッカリ食べてくださいませよ。」

メイは、おかゆをお匙でかき回して、それを水穂さんの口元へもっていく。水穂さんは、しずかにそれを飲み込んだ。

「じゃあ、もう一口行きましょうか。」

と、メイは、もう一度、おかゆのお匙を口元へもっていった。水穂さんは、静かにそれを飲み込む。それを繰り返して、水穂さんは、今日も、完食することができた。

「よかったよかった。全部食べてくださって、私はうれしいです。有難うございます。」

メイは、にこやかに笑って、吸い飲みで水を飲ませた。欧米人らしく、そういう言い方をする。日本人であれば、そのような言い方はしない。これで当たり前で、片付けてしまう事だろう。

「そうですか、こちらこそありがとうございます。病院の食事らしくなく、味付けがしっかりしているから、食べやすいです。」

と、水穂さんも、出来るだけ肯定的に言った。否定的に言うよりも、このような言い方をしたほうが、ずっと意思が伝わると思う。

「いいえ、今までそういうことを言ってくれなかったから、うれしいですよ。」

と、メイはにこやかに言った。水穂さんも、

「いえ、こちらこそ。」

と笑い返した。それを見て、メイはある事に気がつく。

「今気が付いたんですけど、今日は何となく顔色がいいですね。なんだろう、日本の色で言ったら、桜色というのかしら。いつもとなく、桜色っぽくて、今までは食事した後必ず咳き込んでいたのが、咳き込まなくなったし。」

「たまたまですよ。」

水穂さんは言った。

「たまたまってなんですか?たまが二つあるのですか?」

と、メイが聞くと、

「いえ、単なる偶然というだけの事です。」

と、水穂さんは答えた。

「そうですか、日本語は面白い言葉があるんですね。難しい言葉もあるけど、面白い言葉もあるんですね。それでは、また、時間が来たら、検温に来ますからね。」

と、メイはそういって、にこやかに部屋を出て行った。

お昼を持ってきたときも、水穂さんは、しっかり食べてくれたし、夕食の時もよく食べてくれた。食べ終わって、咳き込むことも、大幅に減った。それ以外のときは、気持ちよさそうに静かに眠っている。メイは、そういう事も、看護記録にしっかり書いておいた。例え小さな変化でもいいから、何か変化が起きてくれることが、今の彼女にはうれしかった。彼女は、今は、水穂さんの担当看護師になれてよかったと思っている。それを看護記録に書くのが一番のやりがいであった。


モーム家では、杉ちゃんとトラー、仕事から帰ってきたマークさんが、杉ちゃんの作った鮭の塩焼きを食べていた。二人は、こんなシンプルだけどおいしい料理を食べたのは初めてだと、杉ちゃんに言っていた。トラーなんかは、レシピを作ってくれというくらいで、食べ終わったあと、杉ちゃんに作り方を述べてもらって、ノートブックに記録していたほど熱心だった。

丁度その時、モーム家の電話が鳴った。マークさんが、何だろうと言って、電話に出る。何回か言葉を交わして、マークさんは、電話を切った。

「どうしたの、お兄ちゃん。」

トラーが、レシピを書いていた手を止めて、マークさんに言う。

「いや、水穂さんが、咳き込むのをだいぶ治まってくれたらしいので、これから少し歩く練習もさせるそうだ。」

と、マークさんが言った。

「本当!」

トラーは、天にも昇るような気持ちなのだろうか、椅子から立ち上がって、喜んだ。思わず、天井を向いて涙を流したりしている。ここでは、人前で泣くことは、恥ずかしいことではないと解釈されるらしい。マークさんはそれを注意しなかった。

「よかったわ!水穂、もしかしたら帰ってこられるかも知れない!」

「そんなにはしゃぐなよ。今はまだ、完全によくなったわけじゃないんだから。」

と、杉ちゃんが言うが、トラーは、涙を流して喜ぶのをやめなかった。

「しっかし、こんなことまで、報告してくるなんて、ここの病院は、本当に細かいなあ。」

杉ちゃんは、首をかしげてそればかり言っていた。


その翌日。寝てばかりいた水穂さんが、ベッドの上におきた。メイに体を支えてもらいながら、ガブリエル先生の観察の下、ベッドの上に座ったのだ。このとき、また咳き込むのかと心配されたが、水穂さんは、それはしなかった。その日、水穂さんは、久しぶりに起きて疲れたのか、消灯時間より早く眠っていた。

その次の日。水穂さんの昼食は、おかゆだけではなく、リンゴが出された。リンゴは、杉ちゃんとトラーが、差し入れたものだという。水穂さんは、丁重に礼を言って、リンゴをくちにした。このときも咳き込むことはなかった。それでは、もう、寝て食事をするのではなく、座って食事をしても大丈夫ね、とメイは、にこやかに笑った。

メイは、ナースステイションにもどってきた。やっぱり白人の看護師達が、何人かいた。メイが看護記録を書き始めると、白人の看護師が、彼女の机の近くを通りかかった。そして、持っていた、マグカップをわざと落とした。介護記録用紙は、コーヒーで茶色くなってしまった。

「ちょっと何をするんですか!」

メイが思わず、そういうと、

「あらごめんなさい。たまたま急いでいたもんだから。」

と、白人の看護師は、わざとらしく言うが、メイは、こればかりは頭に来てしまって、

「急いでいたんじゃないでしょう。わざと落としたんでしょう。大事な看護記録なんですから、汚されては困ります!」

と、言った。途端ににこやかに笑っていた、看護師たちの顔がきつい顔になった。

「白人に対して何よ、その態度は!」

「アンタね。あの、日本人の患者と仲良くし過ぎよ!」

とたんにそういう言葉が飛び出す。

「仲良くというか、私の患者ですもの、仲良くというか、大事にすることは当たり前じゃないですか!」

メイがそういうと彼女たちは、

「まあ、そうなっているのも、つかの間ね。日本人は、白人のほうがいいって、絶対そう思っているはずよ!」

と、と得意気にそういうので、メイは、

「いいえ、絶対にそういうことはないわ!水穂さんは、薬だってちゃんと飲んでくれますし、私の事を、嫌だとか、そういう風に言ったことは一度もありませんよ!」

といい返した。

「まあ、せいぜい、うわべだけの、関係を楽しむことね。どうせすぐに、容体が悪くなって、だめになっちゃうでしょ。」

白人の看護師たちは、そういうことを言って、ナースステイションを出て行ってしまった。メイは、汚れてしまった看護記録用紙を捨てて、新しい用紙に看護記録を書き始めた。

そんな事は絶対ない。水穂さんは、私の事を信頼してくれる。だからあそこ迄回復してくれたんだ。きっとこのまま順調に回復してくれれば、よくなっていってくれるはずだ!とメイは、神頼みでもするつもりで、看護記録を書く。


その日の真夜中の事である。久しぶりに夜勤を担当したメイが、患者さんの見回りのため、病院の廊下をあるいていると、どこかで、咳き込んでいる音がした。誰だろうと、メイは、その音がする部屋に行ってみる。誰が咳き込んでいるのかと思ったら、咳き込んでいるのは水穂さんだった。

「水穂さん!大丈夫ですか!」

水穂さんは答えもせずに咳き込んでいる。メイは、応急処置として急いで、薬を飲ませ、なんでこうなってしまったのだろうと思いながら、水穂さんの背中をさすった。





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