第五章

第五章

「一体なんで僕が、病院から呼び出されなければならないんだろうか。日本の病院では、一度入院したら、病院にまかせっきりにして当たり前なんだけど?」

病院に向かうタクシーの中で、ポテトチップスをかじりながら杉ちゃんは言った。隣の席でマークさんが、

「まあまあ、かんべんしてくれ。こっちでは、患者さんの事でわからない事があったら、すぐに来てもらって説明をするのは、当たり前なんだよ。」

と、言った。杉ちゃんは、まだ、不服そうな顔をしていたが、

「だってそうじゃないか。わからないところは、すぐに解決しておかないと、治療にも支障が出るだろう。そうしたくないから、呼び出すんだよ。」

マークさんにそういわれて、まあ一応はそうだよな、と杉ちゃんは言った。それでも、こうして何回も呼び出さるのは、初めての経験なので、よくわかんないよ、という文句も、忘れなかったが。

病院につくと、受付のおばさんが、二人を出迎えた。受付のおばさんも、困っているのだろうか、ああ、来てくれたんですね、と、にこやかに笑って、二人を此間と同じ会議室に通す。

「来ていただいてありがとうございます。いやあ、あの患者さん、あの、磯野水穂さんですが、彼には、大いに手を焼いております。」

と、ガブリエル先生が、そういう意味の事を言った。マークさんの通訳を聞いて、杉ちゃんは、

「なるほどね。また何かあったのか。もう、こうなると、ご飯を食べないとか、そういうことか。」

と、言った。マークさんが通訳すると、

「まさしくその通り。ご飯どころか、栄養剤の点滴も、勝手に抜いてしまうので、我々も困っております。」

と、ガブリエルさんが言った。通訳を通して、杉ちゃんは、

「栄養剤を抜くねエ。よっぽど、体に栄養が入っていくっていうのが、嫌なのなかなあ。」

と、大きなため息をついた。

「で、僕らになんの用があって、呼び出したんだよ。」

「はい、ですから、しっかりと食事をするとか、栄養剤の点滴を受けてくれるように説得していただきたいんですよ。担当医の私も、担当看護師のリールも、一生懸命説得しましたが、いずれも、水穂さんには効果なしでした。」

マークさんの通訳を聞いて、杉ちゃんは、やれやれと、ため息をついた。

「どうでしょうか。お願いできますか。やはり医者も看護師も、ご家族に叶うモノはありません。是非、よろしくお願いしますよ。」

と、ガブリエル先生に言われて、杉ちゃんは、頭をかじりながら、

「あーあ、疲れるなあ。全く水穂さんも、困ったもんだねエ。」

と、ガブリエル先生についで、病棟に入っていった。病棟では、男性、女性、いろんな患者さんがいた。家族としゃべっている患者さん、看護師や、お医者さんとしゃべっている患者さんといろいろいた。

「本来なら、磯野さんは、面会謝絶ですが、こうして呼び出したんですから、相当重症だと思ってくださいね。」

と、ガブリエル先生はそう言っている。マークさんは心配そうだが、杉ちゃんは、にこやかに笑っていた。

暫く行くと、ナースステイションの前を通りかかった。その前で何か話をしている声が聞こえて来る。日本人が聞きなれている英語とは、また違う発音の言語で、なにか言い合っているが、その発音を聞くと、何をしゃべっているのかは分からないが、少なくともいい話ではないような気がするのだ。ガブリエル先生が、ナースステイションの前に止まって、また何か言った。たぶんきっと、フランス語で、コラとか、やめなさいとかそういう事を言ったのだろう。なぜなら、そのあとで、そのおしゃべりは、すぐに中断されたから。

おしゃべりが中断されて、看護師たちがナースステイションの外に出てきたが、日本と違って、つんけんとした表情の人たちではなく、にこやかに笑っていたけれど、彼女たちがナースステイションしゃべっていたことは、決して良いことではないと思う。

一行は、一番奥の部屋に入った。この病院は、小児科以外の病棟はすべて個室になっているようである。まあ、それがいいのか悪いのかよくわからないけれど、大部屋がないというところに、杉ちゃんは、おどろいていた。

「ここです。よろしくお願いします。」

「はいよ!」

と、杉ちゃんは、ドアをたたくこともせず、病室のドアをガラッと開けた。

水穂さんは、静かに眠っている。でも、げっそりとやせて、髪は、白髪が増えていた。右手には、点滴が付いているが、もうカテーテルを抜いてしまうのを阻止するためにだろうか、包帯でぐるぐるに巻かれてついていた。そして水穂さんは、げっそりと痩せていた。

「水穂さん、起きてくれ。」

と、杉ちゃんは、水穂さんの体をちょっとゆすった。水穂さんは、ん、ん、と言って、重い重石を持ち上げるかのように目を開けた。

「おい、起きてくれや。」

「杉ちゃん。」

水穂さんは、そっと、弱弱しくつぶやく。

「どうしたんだよ。そんなに辛そうな顔をしてさ。ガブリエル先生に聞いたぞ。何も食ってないそうじゃないかよ。だから、こんなにげっそりと痩せちまったのか。」

杉ちゃんがわざと明るく言うと、水穂さんは、

「日本に帰りたい。」

と小さな声で言った。

「バーカ!そんなんじゃ、帰れるわけないじゃないか。そうしたいんだったら、ちゃんと食べて、カテーテルを抜いちまうことのないようにするんだな。それが達成できなきゃ、無理に決まってらあ。」

と、杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「其れよりも、いつも思うんだけどな。食べようとしないんだ。そんなに、こっちの料理は、味がまずいのか?それとも、内容が、食べられないものばっかりか?」

「食べる気が、しないんだ。」

と、水穂さんは、また弱弱しく言った。

「食べる気がしないんじゃなくて、食べなきゃ行けないんだ。食べ物があるってことは、幸せなことだぜ。そりゃ、こっちでも、日本でも、今は食べ物にありつけないっていう人はなかなかいないけどさ。でも、だからこそ、食べるもんがあるってことはな、幸せなことだと思わなきゃ。」

杉ちゃんは、水穂さんの包帯だらけの右手を握り締めた。

「でも、食べる気にならない。」

水穂さんは、もう一回同じことを言った。

「じゃあ、理由を聞かせろや。なんで食べる気にならんの。」

杉三は、またにこやかにそういう事を聞く。

「おしえてくれよ。全部の物に理由はあるよ。理由もないのに、食べ物をとる気がしないなんて、そんなことないだろ。ハンガーストライキをするのだって、理由がなければできやしないさ。そういうもんだよな。世の中って。」

水穂さんは、黙ってしまった。

「おい、なんでそういう風になっちまうんだ。黙ってりゃいいってもんじゃない。理由を話してみろ。理由を。黙っていたんじゃ、どんな言語でも、伝わりはしないんだぞ。」

と、杉ちゃんにいわれて、水穂さんは、涙をポロンと流した。

「おい、頼むから話してくれるか。そうしないと、せっかくお前さんを治そうとしている、先生方や、マークさんたちに悪いと思わないのかよ。」

「杉ちゃんにはわからないよ。もう、日本を離れて、こんなところに無理やり入れられてさ。若しかしたら、二度と帰れないかもしれない。それでは、もう、二度と、時代が変わるのも、見ることができないじゃない。」

水穂さんが、弱弱しくそういうことを言うと、

「バカだなあ、実にバカだなあ。なんでわざわざ、人種差別のひどいところに帰ろうかなんて思うんだ。少なくとも、こっちにいればだよ、えったぼしと言われて、人種差別されることもないじゃない。そのほうが、よほど、悲しい気持ちにならなくて、済むじゃない。」

と、杉ちゃんは言った。

「其れになあ、お前さんの事を思ってくれている、マークさんたちの事はどうするんだ。今お前さんが言ったのは、マークさんたちの事を全部、無視しちゃうことになるんだよ。そうじゃなくて、マークさんに感謝して生きなくちゃ。いくら、体の事が大変でもな、お前さんを看病してくれる奴らを、裏切るような真似はしちゃいけませんよ。」

「どうしてそういうことを言うの。僕が、辛いことは何も変わらないんだし。」

「ほんなら、周りのやつにちゃんと言ってさ、周りのやつを支えてやってくれよ。お前さんがいることによって、生きようという気になれる、というやつらもいるんだぞ。」

水穂さんの言葉に、杉ちゃんは、そういうことを言った。

「だけど、僕は、」

「もう、それ以上言わなくていい。日本に居れば、どうせお前さんは、えったぼしだ。だけど、こっちに居れば、そういうことは、言われなくても済むんだからさ。堂々としてろよ。そのほうが、こっちにいるより、よほどいいんだよ。気楽にいこうや。もっと。」

杉ちゃんは、ポンと水穂さんの肩をたたいた。

「具体的に、そういう気持ちになれるやつら、なんて誰がいるの?」

水穂さんがそういうことを言うと、

「トラーちゃんと、せんぽ君。そしてマークさん、ベーカー先生、あと、ここにいる、禿げ頭のガブリエル先生も、クロちゃんの看護師さんも、みんなお前さんに支えられて生きているじゃないか。お前さんに関りのあるやつは、縁がなければ関りなんて持たないさ。そういうのって、すごいことだと思わないか?人を動かすって、すごい苦労があるんだよ。其れは、誰にでもできる事じゃないんだから。それを、ちゃんと考えてやってよ。頼むから。」

と、杉ちゃんは、すぐにそういうことを言った。

「たったそれだけ、、、。」

「バカだねえ。それだけって一人動かすのはな、おっきな丸太を転がして運ぶより難しいんだぜ。世の中には、人間ほど、重たいものはないんだぜ。人間は、何よりも、鉄の塊よりも、重いんだ。そういうことくらいわかってるだろうがよ。こんだけたくさんの人間が、お前さんに近づいてくるっていうのは、すごいもんだと思わなきゃ。お前さんは、それくらいできるんだ。自信持ってよ。そういうことを、お前さんは、すっかり忘れちまってる。其れは、身分が高かろうと低かろうと、出来るやつはできるし、できない奴は、どんなに学歴があってもできない奴もいるんだよ。阿羅漢と呼ばれている奴を見ればわかるだろ。奴らは、人間を動かすには、大声を出して周りの人を動かすしか、方法はないと思っている。そんな奴らより、ものすごいことができるって、お前さんも自信を持ってよ。なあ、頼むから!」

杉ちゃんは、一寸激したように言った。

「其れにな、あの、クロちゃんの看護師さんな、お前さんは知っているか?あの看護師さんは、いじめられっ子だぜ。いじめって、本当につらいってことは、お前さんも知っているだろう?」

「どうしてわかったの?」

水穂さんがそう聞くと、

「あの、ナースステイションの前を通りかかったとき、雰囲気で分かっちゃったんだ。僕、頭悪いから、言葉を覚えるのは苦手だけど、何となく、そういうことをいっているな、という事は、わかるんだよね。あの人な、きっと、あんなふうにいじめられたら、もしかしたら、アフリカに帰っちまうかもしれないよ。でも、帰らないでいるってことは、水穂さんのことを、看病したいという気持ちがあるからじゃないのか。それを、お前さんが要らないっていうんだったら、彼女の努力はみんな、無駄になっちまうという事だろうな!」

と、杉ちゃんは言った。そういうことは、杉ちゃんでなければ言えないことだ、とマークさんは、大きなため息をつく。何処の国へ行っても、言えないことを言ってしまうのが杉ちゃんという事であった。

「杉ちゃんごめん、、、。」

と、水穂さんは、涙をこぼして泣いた。

「だから、ごめんねじゃないんだよ。口で言ったって、改善はしないよ。いや、口で言ったからと言って、解決しようというほうが間違ってるさ。そうじゃなくて、いくらつらくてもさ、周りにこんだけ支えてくれる奴らがいるって、一生懸命生きなくちゃ。そうしなきゃ、いつまでたっても食べれないまんま、餓死してしまうぞ。お前さんの態度は、一生懸命お前さんの世話をしよう、それを生きがいにしようとしている奴らにとっては、こんな悲しいことはないと思うよ!」

「ごめんね、ごめん、、、。」

しゃくりあげる水穂さんに、

「じゃあ、今日からは、頑張って、ご飯を食べてくれるか?」

杉ちゃんは、すかさず念を押した。

「わかったよ。杉ちゃん。」

水穂さんも度胸を据えてくれたらしい。その表情は、強いものになった。これを聞いたガブリエル先生が、すぐに病室を出てナースステイションに行ってしまう。そして、数分後、メイが、食事の入った器を持ってやってきた。

「水穂さん、お食事ですよ。ご希望のとおり、白がゆを持ってきましたよ。」

と言っても、正確には、野菜が入っており、白がゆというモノではなかったが、メイはかまわず、おかゆの器をベッドテーブルにおき、お匙でおかゆをかき回して、

「はい、良く味わって食べてくださいね。」

と、おかゆを口元へもって行った。水穂さんは、しずかにそれを口に入れた。ここで咳き込んでしまうかなと誰もが予測したが、水穂さんは咳き込むことなくそれを飲み込んだ。

「おお!食ってくれたぞ!万歳、万歳、ばんざーい!よかったよかった。」

杉ちゃんがでかい声でそういって、万歳を三唱すると、ガブリエル先生が、ほかの患者さんもいますから、そんなに声を出さないでくれと言った。マークさんが通訳すると、

「ああ、すまんすまん。あまりにうれしくて、ついに声がでかくなってしまった!」

と、杉ちゃんは、涙目でそう答えた。もし、ここにトラーさんがいたら、もっと大声で叱るだろうな、と、そういうことも言っていた。


杉ちゃんたちが、パリ市内でそういう事をやっている間、日本では。

「やれやれ。いろんな人が、発疹熱に罹患していますね。」

と、ジョチさんは、人の少なくなったコンビニで、コーヒーを注ぎながらそういうことを言った。なんとも、店員が、発疹熱に感染したせいで、若い高校生を臨時で雇ったとか、そういうことを言っていたっけ。なんとも、抗生物質が効かないというのだから、なんとも強力な細菌であることは確かだった。

とりあえず、コーヒーを注いで、ジョチさんは、買ったばかりの日本経済新聞をもって、イートインコーナーに行った。まだ、迎えの車が来るまでは、30分くらいあった。なぜか、時計を壊したままにしてしまっていたので、30分進んでいたのに気が付かなかったのだ。時計を確認すると、ジョチさんは、椅子に座り、日本経済新聞を読みながら、時間をつぶすことにした。

「いらっしゃいませ。」

不意に、そとから、誰かが入ってきた音がした。こんな時だから、客が来るなんて、非常に少ない。いつもなら気にしないけれど、何となく誰が来たのか、見たくなってしまうのであった。

「あの、コーヒー一杯ください。」

と、その客は、高校生の店員さんに言った。

「ちょっとお待ちください、カップをとってきますから。」

と、店員は、急いでレジカウンターから出て、カップを一つとってきた。その客が、普通の歩ける客ではなく、車いすに乗っていたので、そういうことを、考慮したのだろう。まあ、それは、だれでもそうするのである。とりあえず、その客は、店員からカップを受け取り、代金を支払った。そして、コーヒーメーカーの前に行って、コーヒーを注いだ。

「あら、蘭さんじゃないですか?」

と、ジョチさんは、その客にそう声をかける、と、彼も気が付いたようで、

「あ、お前は波布だな!このご時世なのに、よく平気でいられるな!お前のような者は、重症化しいやすいのに?」

といつもの憎まれぐぢをたたいた。

「ええ、もちろん、波布は波布です。でも、重症化するかどうかは分かりませんよ。其れは、運しだいという事ですからね。」

と、ジョチさんが言うと、

「けっ!そういう事しか言えないんだな。どうせお前は、今から赤旗の打ち合わせにでも行くんだろう。全く、日本を社会主義国家にしようといったって、そうはいかないぞ!」

と、蘭は言った。

「全く、蘭さんも、そういう憎まれ口をすぐ言うんですね。僕は、そのようなことは全く計画しておりません。テロリストじゃないんですから。」

ジョチさんは、コーヒーを飲んで、蘭に向けてそういうことを言う。

「へん!お前のしていることは、どうせ大したことはないじゃないか。製鉄所の管理だって、水穂のことだって、お前は、何一つできなかったくせに!」

と、蘭は、また馬鹿にするようにいった。

「そうですかねえ、蘭さん、その水穂さんですが、今ごろ、パリ市内で、のんびり暮らしているんじゃないですか?あちらでは、発疹熱もないし、被差別民として扱われる事はないでしょう。そういうところへ出してやるのも、水穂さんが、回復するのに、必要なんじゃないですか?」

と、ジョチさんは、そういうことを言った。

「しかし、日本から追い出してしまった事こそ、最大の差別だと思うのだが!」

と、蘭は言うのだが、ジョチさんは平然として、

「ええ、そうかもしれませんね。でも、水穂さんは、重い病気なのですから、日本に居たら、発疹熱にかかってしまう可能性もありますし、そういう意味では、安全な国家に逃げさせてあげるというのも、悪いことではないと思いますけどね。まあ、蘭さんは、水穂さんの事を何よりも大事に思っているでしょうから、そういう風には、考えることは、出来ませんよね。」

と、言って、コーヒーを飲み干した。

「そんな事、、、。」

と、蘭は、何も反論できなくてがっくりと落ち込んだ。

「大丈夫ですよ。水穂さんを向こうで客死させることはしないって、マークさんたちは、そう思ってくれているでしょう。現に、こないだ、マークさんから、電話がありましたけど、水穂さんは、パリ市内の病院で、治療を受けているそうですよ。」

ジョチさんに言われて、蘭はハッと我に帰る。

「病院で治療だって!」

思わずそういってしまった。

「ええ、そういいましたけど。」

ジョチさんがそういうと、

「波布に先を越されたか!」

と、蘭は、コーヒーをガブリと飲み込んだ。



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