麦茶、チューハイ、貴女の手首

椎名ロビン

麦茶、チューハイ、貴女の手首


「ねえ、私がこのまま目覚めなかったら、麗ちゃんは私の体を冷蔵庫のどこに保管する?」

「そもそも保管せぇへんわ。サイコパスか私は」


顔だけこちらへと向け、返答を聞いた伊武梨紗がぷくっと膨れてみせる。

その膨れた頬を指でつついてやろうかと思ったが、しかし今日はやめておいた。


彼女は今、無数の管で繋がれたベッドに横たわっている。

下手に触れて、雑菌がどうこうと後ろに控える医療関係者に言われても面倒臭い。

それに、彼女を死なせてしまうのは、当然ながら私の本意ではなかった。


「もー、どうしてそう冷たいの。冷たくなるのは私の体の方なのに」

「迂闊に触れられないボケやめーや」


六年前程、イタリアだかイギリスだかで、とある病が発見された。

未知の病であったそれは、未だ治療法が見つかっておらず、致死率はほぼ100%という。


いつどこの国で発見されたか覚えていない程度には、それは他人事の病だった。

発症例も少なく、たまにニュースで取り上げられる発症者の数をぼんやり聞き流す、その程度のお話だった。

恋人である梨紗が罹り、どこか遠い国の話などではなく、身近なものだと思い知らされるまでは。


「でも実際、私の死体を保管するとしたらどうする? 実際にあのお家に保管するとしてね」

「こいつ、マジでこの話題ゴリ押してくつもりなんか……」


梨紗が病に打ち勝って、二人で一緒にあの家に帰る。

そして、一人暮らしをする際に買ったため二人で使うには小さい冷蔵庫を開けて、私は大好きな桃の味のチューハイを取り出し、祝杯をあげる。

それが私――増子麗の願いである。あまり、こんな不吉な話題を広げたくはない。


「やっぱりバラバラにはするよね。そうじゃないと、冷蔵庫、入らないし」

「……まあ、うちの冷蔵庫、そんな大きないもんな。仕切り全部取れば入るやろうけど……」


だが、しかし――諦めて、この馬鹿丸出しの話題に乗っかることにした。

話したいなと思った話題を気が済むまで喋り倒す、それが伊武梨紗という女だ。

当然これまで何度も興味のない会話に付き合わされてきたので、抵抗は無駄だと分かっている。

無理矢理話題を変えようとしても結局いつも押し負けるし、聞き流してると不貞腐れる。

どうせ相手をするしかないと分かっているなら、無駄な時間を使いたくはない。

残された時間は僅かなのだから。


「あ、それは駄目。毎日外食するほどお金ないんだし、ちゃんと自炊しなくっちゃ。冷蔵庫には食材とか、多めに作って次の日に取っておくご飯を入れておくこと」

「いやいやいや、そないなこと言われましてもね、調理は梨紗の担当やし、私の腕ではとてもとても」

「……お掃除も私がやってるよね?」


うっ、と思わず呻いた。

一緒に暮らした当初こそ、家事は当番制だったのだが、料理の腕に圧倒的な差があったため、いつしか梨紗が毎日作るようになっていた。

掃除にしても、定期的にやりはするものの、毎回「雑」と酷評され、結局梨紗がやり直している。


「……でもほら、私はよ~~ぉ、なんちゅーか、ゴミ出しとか、いつもやっとるし」


思わず「夜はこっちが頑張ってる」と言いかけたが、直前で正気に戻った。

視界にこそ映っていないが、振り返れば医療関係者が誰かしらいるはずである。

それに、“そういう話題”に繋げて無理矢理“そういう空気”にしても、相手は病人。

まだ強引に押し倒せていたあの頃とは事情が違う。

どちらかというと、そんな空気になっても気まずいし、辛いだけだ。


「それも、仕事の飲み会帰りに泥酔して、お部屋をぐちゃぐちゃにしたから罰としてやってるだけだよね」

「ま、まあそうやけど、でももう一年越えるし、そろそろアレはチャラになっとるやろ。今はほら、罰ではなく善意というかそういうね」


酒は好きだが、強くはない。

それにどうやら、酔うと意味が分からないことをするらしい。

レンジに靴を突っ込んだり、脱いだ下着を冷蔵庫に突っ込んだり、飲んだ記憶のない空の酒瓶に食器用洗剤を詰めて冷凍したりしていたそうだ。


「ま、そういうことにしてあげる」

「はい、ありがとうございます……」


あれ以来反省し、外では酒を控えるようになったので褒めてほしい。

呆れた梨紗に捨てられたくはないので、自宅でも飲むのはチューハイ一杯だけと決めている。


「それより……色んなレシピ、ちゃんとノートに書いてあるから。楽なやつには付箋貼ってるし、ちゃんと作って、冷蔵庫に入れておくんだよ」

「……ん、分かっとるて」


そうは言ったが、きっとやらないだろうなと思う。

あの美味しかった手料理は、梨紗が作って、二人で食べるから美味しかったのだ。

一人で作って、一人ぼっちで食べて、美味しいのかは疑問である。

それに、そもそも調理スキルが足りなくて梨紗の料理を再現しきれず、大幅に劣化したものが出来上がる恐れもある。

思い出を汚してまで食費を浮かせるくらいなら、二度と口に出来ない味に想いを馳せながらエンゲル係数を跳ね上げさせた方が幸せではないだろうか。


――それに、もし私に完全に再現できてしまい、一人ぼっちで食べても遜色がなかったら、それはそれで、きっととても辛いから。


「あ、でも死体入れてたら、臭いがご飯に移っちゃうかなあ」

「まだ続けるんか……」

「当ー然っ」


ふんす、と梨紗が鼻を鳴らす。

このどうしようもないほど子供っぽい表情が、またたまらなく愛おしい。


「だってさ……聞いておきたいじゃん」


そして、時折見せる、どこか淋しげで大人びた表情に、どうしようもなく惹かれるのだ。


「無理矢理体全部を放り込んだら臭いが移っちゃうだろうし、切断して一部分だけを冷蔵庫に保管するとしてさ」


思わず見惚れる私の目を、梨紗がじっと見つめてくる。

そして、梨紗が言葉の刃を突き刺した。


「麗ちゃんは、私のどこを、手元に残してくれる?」


返事に窮した。

「え」だの「ん」だの間抜けな声に曖昧な笑顔を添えて誤魔化そうかと思ったが、しかしながら、その真剣な眼差しを前に、そんなことはできなかった。


「…………手、かな」


少しだけ考えて、口を開く。

思わず目をそらしそうになるが、梨紗の想いに応えるべく、動きそうになる首を気合で固定した。

今だけは、心の底からの想いを、拙いなりに自分の言葉で、真っ直ぐ伝えなくてはならない。


「私さ、梨紗の顔ごっつ好きやし、うなじフェチやし、あとまぁ胸だって人並みに好きやし、見た目全体的にどストライクなうえ勿論性格も好きなんやけど、どこか一つって言われたら、手や」


そう言って、自分の手を梨紗へと差し出す。

うん、と小さく呟いて、梨紗はその手へ視線をやった。


「ずうっと寂しくて、ぶらぶらしとったこの手を優しく握ってくれた。そのあたたかな手に、私は惚れてもうたんや」


辛い想いをしてた私を、優しく包み込んでくれた梨紗の手。

愛情がたっぷり詰まった掌は私の心の氷を溶かしてくれた。

あの日私は恋に落ち、抱えていた様々な傷や辛い想いも体から抜け落ちたのだ。


「だから私は――どこか一つを遺しておくなら、手を選ぶかな」


そう言って、梨紗の手を取る。

医療関係者の目線が怖いので、後ろは振り返らないことにした。


「よかった。麗ちゃんはネコだから手だけは絶対残しておくって理由じゃなくて」

「そうそう、形見のパーツで文字通り自分を慰めるのなら必要なのはそのお手々――って馬鹿野郎」


梨紗は小柄で可愛らしく、無垢な小学生のような笑顔を常に浮かべているが、ベッドの中では私の数倍“オトナ”だった。

特に中指の使い方に関してはそれはもう上等なピアニストも顔負けであったのだが、そういう赤裸々な話はこんな所で語るものではないので割愛したいと思う。


「あはは……まあでも、手首から先だけなら、扉の所にしまえるかもね」


そう言って、梨紗がクスリと笑う。

つられて私も笑みがこぼれた。


「そうやなあ、どうせあそこ、空くやろうしな。梨紗がおらんくなったら、チューハイくらいしかあそこ置かれないやろうし」

「もう、駄目だって。ちゃんと料理もして、麦茶も作らないと。紙パックのお茶を買うのとじゃ、結構馬鹿にならない差が出るんだよ」


冷蔵庫のドアポケットには、いつも梨紗が作った麦茶が入っていた。

その横には、いつもチューハイが入っている。

私より先に帰宅する梨紗が、私では閉店に間に合わない近所の酒場で、安いチューハイを買ってきては、冷やしていてくれるのだ。

私が一番好きなのは桃だと知ってはいるが、毎日同じは飽きるという我儘を一度言って以降、味は日替わりとなっている。

今日は何味だろうとワクワクしながら冷蔵庫を開け、寝る前に一杯やるのが、私のささやかな楽しみだった。


「麺つゆとかは横に倒してもいいんだから、移動させたらいいんじゃないかな。野菜室とか、そこまで使わなさそうだし。そしたら扉のとこに、私の手首、入るんじゃない」

「手首と言わず、肘から先なら全部入るかもな」


元々小柄だったというのに、病が発覚してから、梨紗は更にやせ細っていった。

少々無駄なお肉がついていた二の腕も、すっかり骨と皮だけになってしまっている。

もう長くないと、とうとう医者に言われたばかりだ。


「……それでも、私はやっぱり保管なんてせえへんよ。冷蔵庫になんて入れてもうたら、私の大好きな温もり、感じられへんくなるやんか」

「ええ、ひどい、常温放置じゃ腐っちゃう」

「……死ぬなっちゅーとるねん、阿呆」


ぎゅう、と梨紗の手を握りしめる。

視界が滲んできてしまったので、梨紗の表情を確かめる事はできなかった。


「……うん。善処する」


ぽん、と肩を叩かれた。

いやいやと首を小さく横に振ったが、握っていた手を離される。


目元を拭うと、変わらない笑顔で、梨紗が微笑んでいた。


「おやすみなさい」


何と返せばいいか分からなかった。

明確な返事も出来ぬままに、彼女を横たえたベッドに蓋が下りきってしまう。

後ろで医療関係者が何かを言っている。


――――嗚呼、梨紗、ほんまはな、一緒に死ぬのもありかなって、思ってたんよ。


不治の病と判明した日、漠然と、後追いする準備を進めようかと思った。

だけど、事態は思いもよらぬ方向に転がって。

治療法が見つかるまでコールドスリープさせることが可能になっていることを知ったのも、梨紗がコールドスリープを選んだと聞かされた後だった。


――――なあ、梨紗。逆の立場だったら、梨紗は、私のどこを、冷蔵庫に保管してくれたんやろうな。


私には、梨紗しかいない。

梨紗がいない世界なんて考えられない。

梨紗なしで、上手くやっていくことなんて不可能だ。


だけどきっと、梨紗はそうではない。

梨紗は強いし、私の代わりもすぐに見つけるだろう。

きっと知り合いが皆死んだ後に起きたとしても、すぐに適応するのだろう。

不安な気持ちも、きっと今だけだ。


――――多分、どこを保存してても、いつの日か邪魔になって、私は捨てられてたんやろうな。


冷蔵庫の中に放置された賞味期限切れの食材のように、きっといつかは捨てられる。

それでも、捨ててもらうことすらできなくなった今の私より、幾分かはマシかもしれない。

別れを言われることもなく、最後の時まで恋人として扱われたせいで、腐り続けるしかできない今の私と比べれば。


「…………おやすみ」


梨紗の眠るコールドスリープのカプセルに呟いて、センターを後にする。

運良く早めに治療法が見つかって、そして梨紗が帰ってくることを願って、冷蔵庫には下着やアイロン、瓶いっぱいの砂でも詰め込んでおこう。

そして、謝罪として掃除も毎日やれるように、掃除だけは、ちゃんと練習しよう。


そんなことを思いながら、コンビニで桃の味のチューハイと、ペットボトルの麦茶を買った。

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