第8話
また朝を迎えた。
昨日は視界にいた土埃は、もう既にいなかった。
さあ、今日も作業開始だ。バケツが片手となっているから、もう持ち上げる時間も作業に回せる。とても効率的な身体になってきた。今日もいつもと変わらない日常が始まった。ああ、なんて幸せなのだろう。昨日のことを考えると、皆がとても幸せ
そうに見えてくる。愛するものと行う共同作業は、なんて楽しいものなのだろう。
このスコップ男は、もはやスコップを身体の一部に取り込まんとばかりに、柄が
食い込んでいた。そこまで長い間そのスコップを愛し合っていたかと思うと、もはやこのスコップ男に尊敬の念すら覚えてきた。
きっとこの男の愛撫を観察していけば、より深くバケツと愛しあえる術がわかるであろう。
スコップ男の表情はほとんどしかめ面ではあるが、その武骨さがスコップを虜に
しているのかもしれない。彼のスコップへの扱いは様々で、足蹴にする事はしょっちゅうであり、壁へ叩きつけたりすることもよくあった。
それでも彼の元から離れまいと彼の身体へ挿入していくスコップたるや、なんと
健気なのだろう。土まみれでスコップのエッジは三角形の欠けがあるのが見えた。
赤土の色をした錆びた取手の金具は、彼と長い間繋いでいる証だ。彼女の両肩の
踏まれる部分の塗装の剥がれ、岩盤に削られた厚みの異なる掘削部分、そのどれにも彼の愛情が感じられた。ただ直向きに土を掘る彼らは、もしかするとこの作業のために来たのではないだろうか。
でなければこんなにも長い間掘り続けて、何も出ないことに僅かでも疑問を覚えるはずである。この穴はどこまで深く掘るのか、掘った先にはいったい何が見つかるのか、そんな疑問は道具との性行為の間は忘れることが出来るのだ。
彼らはもう狂っていた。そんな彼らは今日も日常を繰り返すのだった。
そして今日も作業終了のブザーが鳴った。さあ、明日が楽しみだ。
おかしい。いったいどうしたというのだ。いつもならば目は閉じ、もう既に明日を迎えているはずだというのに、今日は焚火のそばまで来てしまっている。一体どういうことだろう。まさか身体が疲労に慣れて、もう疲れを覚えないまでに鍛えられてしまったのか。
突然の事態に冷静になることは出来ず、それでも身体は勝手に焚火へと進んで
いく。自分以外の男たちは、もうその周囲に腰をおろしていた。長年疑問であった、男たちの休憩の姿をいよいよ見られるのかもしれない。
男は期待を抱くよりもそれを大きく上回る不安感に包まれていた。なぜ今更眠気がなくなるのだろうか。自分はどんな会話で参加したら良いだろうか。そもそも男たちはどんな会話をしていたのだろうか。彼らはどんな声なのだろうか。どの国の言葉を使うのだろうか。そもそも言葉を発するのだろうか。ああ、スコップの男がこちらを見ている。どんな会話をすればいいのか、ぐるぐると思考は渦を巻いているのに、一向に答えが見つからない。男が近づいていくにつれて、だんだんとこちらに背を向けていた男たちも振り返っていく。鎖。そしてツルハシ。そしてトロッコ。土埃はいなかった。無意識に空間を埋めようとして、鎖とスコップの間に腰を下ろしてしまった。今すぐにでも逃げ出したいのに、身体がいうことを聞かない。
長い沈黙が続いた。1秒経つ事に10トンの鉛がのしかかって来るようだ。男の額から脂汗は流れ、鼓動は落ち着けようとすればするほど、男の意志に背いて速まっていく。眼球が下に引っ張られるように重く、顔を上げることさえ困難だった。一体何千トンもの重さが男にのしかかっただろうか。スコップ男がゆっくりと座る姿勢を変えた。スコップ男の声は、遠のく意識と鈍重な耳鳴りにかき消された。
埋もれた世界 鍵谷 理文 @kagiya17
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