小説家の一生

山川佳人

小説家の一生

長い間、夢を見ていた気がした。


目が覚めるとそこは、私の寝室だった。


いつも通りの、物の少ない質素な部屋。


いつも通りの、見慣れた部屋。


リビングから、味噌汁の良い匂いが漂ってくる。


「パパ―!」


小学二年生の娘・美奈が部屋のドアを開け、私の上に跨った。


「もう少し寝かせてくれよ」


「朝ごはんできたって!ママが起こしてきてって!」


私はだるい体を起こし、美奈に手を引かれてリビングに向かった。


「いただきます」


妻の料理が世界で一番だと思っていた。


簡単な味噌汁も、炊飯器で炊いただけのご飯も、妻にしか作れない味だと信じていた。


「体調でも悪いの?」


娘にご飯を食べさせていた妻が心配そうに言った。


「いや、そんなことないよ。ただ、夢の中でどこか遠くに行っていた気がするんだ」


「・・・執筆で疲れてるんじゃないの?」


「何も心配するな。大丈夫だから」


大丈夫。


私は自分に言い聞かせるように、何度も心の中で唱えた。


今度こそは・・・受賞できるはず。


私の作品は日本小説界の栄誉である、高褒賞の候補作に残っていた。現代生活で問題となっている、孤独死を扱った小説であった。人生をかけた、一世一代の力作を書き上げたつもりだった。


「受賞したら、なんでも買ってあげるからな」


私は美奈を見つめて言った。


「お人形さんもー?」


「ああ、好きなだけ買えばいい」


美奈は誰から譲ってもらったかもわからない、古いクマの人形を今も大事そうに抱えている。


「いいのよそんな。今の生活でも、十分幸せだもの」


妻は私の不安定な収入を補うために、毎日清掃とスーパーのアルバイトをしていた。私が小説に集中できるように、決して働いてほしいとは言わなかった。客に怒鳴られて惨めな気持ちになる時もあるだろう。そんな時でも妻はいつだって笑顔だった。


私はこらえるように箸を握りしめる。


「・・・続き、書いてくるよ」


「あんまり無理しないでね」


「パパ―、お出かけは?」


「美奈だめよ、パパはやらなくちゃいけないことがあるの」


夫として、父として何も責務が果たせていない。


窓から入ってくる光が、やけに鬱陶しかった。私は後ろめたい気持ちで席を立った。




自分の小説が受賞できないことくらい、本当は分かっていた。私の人生は、いつだってそうなんだ。


貧乏な家庭に生まれ、小学校の時からいじめられていた。コンプレックスだった吃音をなじられ、成長するにつれて悪化していった。


何か優れている点が一つでも欲しいと、中学校からバドミントンを始めた。張り切って始めた部活も一番弱く、試合に出ることができなかった。


だから部活後の誰もいなくなった体育館で、人一倍練習した。レギュラーとして部活に出たいと願い、どんなに辛くても三年間努力し続けたのだ。それを見ていたコーチは、最後の大会で私を公式試合に出場させてくれた。


嬉しかった。やっと自分の努力が認められたのだ。努力は裏切らない、それを証明してこようと思った。


蒸し暑い体育館の中で、私の最初で最後の大会が始まった。


審判が合図をし、試合が始まる。


必死で羽を追いかけた。


ああ、みんなの前で試合をするって、こんなに怖くて、こんなにも楽しいことだったんだ。


私は自然と笑顔になっていた。


次こそ、次こそ、点を取る。


緊張で震える足を必死で動かした。


次こそ、次こそ。


最後の羽が、床に落ちた。


荒い呼吸の音だけが聞こえる。


審判が終了の笛を吹いた。私の夏が、終わったんだ。


「君、三年間何してたの?」


相手選手が冷やかすように言った。私は試合が終わった後も、コート上で立ち尽くしていた。


観客席に戻ると、負けた選手たちが泣いていた。


もっと上に行きたかった。


もっと試合をしたかった。


もっと、練習をすればよかった。


ありきたりな言葉で騒ぐ友人たちを横に、私は言葉を反芻していた。


「三年間何してたの?」


俺より、努力しなかった奴が。


俺の努力を、何も知らなかった奴が。


馬鹿やろう、三年間、努力してきたんだよ。


私は力いっぱい叫んでいた。


周りの観客たちが、化け物を見る目で私を見ていた。


「なんのために!なんのために!」


なんのために努力したんだ。


さっきの相手選手がこっちを見て笑っていた。


私は叫ぶのを止めなかった。みじめさと、憤怒と、やるせなさが、溢れ出て止まらなかったのだ。そしていつの間にか、叫びは泣き声に変わっていた。


「どうでもいいんだ・・・もうどうでもいいんだ」


一つも、優れた才能なんてなかった。自分が生きる理由が欲しかった。


唯一、人より才能が有った小説で賞を取ってデビューしたが、そこからは鳴かず飛ばず。プロと言えるかどうかも分からないところで、今も小説を書き続けている。


私はパソコンに向き合い、書き上げた文章を消した。


「こんなのじゃ、だめなんだ」


妻も美奈も、幸せにできないんだ。


私はまたパソコンの画面を睨みつけていた。






次の日の午後、私は打ち合わせのために、出版社に来ていた。机で私の原稿を確認していた担当が、茶封筒に原稿を乱雑に突っ込んだ。


「じゃあ預かっときます」


「よろしくお願いします」


「そう言えば、高褒賞の発表今週ですね」


「受賞できると、いいのですが・・・」


高褒賞では賞金1000万、そして増刷が確定となる。その賞により、生活を一変させた小説家を何人も見てきた。


「あまり期待していませんが。受賞した場合はこちらからきちんと連絡しますよ。先生もそんなに構えない方がいいですよ」


担当は欠伸をしながら、ドアに向かう。


「あの!」


担当は歩みを止め、感情のない目で私を見た。


「・・・こ、今回の小説は売れると思いますか?」


緊張すると、いまだに吃音が出てしまう。


担当は一瞬の沈黙の後、言った。


「うーん・・・なんていうかね斎藤さんの作品、つまらないんですよね」


「・・・つまらない?」


「担当の僕が言うのもなんですけど、ちゃんと努力してます?ストーリーも微妙だし、もう少し考えて書けないですか?」


「そ、そりゃもちろん努力して!」


「努力してこれ?」


担当は鼻で笑った。


「だったらもう辞めた方がいいですよ。僕も斎藤先生の原稿見る気ないですし」


「辞められるわけ、ないですよ・・・」


「次売れなかったら、もう出版できないと思ってください」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


私は冷や汗をかきながら、担当にしがみついた。担当は私を無理やり倒した。


「もうこっちもうんざりしてんだよ!なんであんたみたいな、才能のない小説家の担当しなくちゃならないんだ」


「・・・」


「原稿返します。その頭で、もう少しましなの書いてくださいよ」


担当は床に投げた原稿を踏みつけた。


「あんたもう頑張っても意味ないって」


頑張っても意味ない。


私はまた担当の襟首を掴んでいた。


「が、頑張っても意味ないって、どういうことですか!私だってね!努力してるんです!いつだって!努力してきたんですよ!それでこれなんですよ!あんたに何が分かるんだよ!」


担当は私を押し倒した。


「も、もういい加減にしてくださいよ!」


担当は私の原稿を踏んづけて出ていった。


背中の汗腺が痛いほどに刺激され、冷や汗がシャツにシミを作っていた。


私はぐしゃぐしゃになった原稿を、一枚一枚大事に拾った。


「何が分かるんだ・・・何が分かるんだ・・・」






「美奈!行儀よく食べなさい!」


出版社から帰ってきた私は、家族と夕飯を食べていた。美奈は何やら楽しい様子で笑っている。


笑い声が絶えない食卓。


いいんだ、私はこれだけで幸せなんだから。


私には可愛い娘とよくできた妻がいるんだ。


「あ、そうそう。明日授業参観なのよ。申し訳ないんだけど、あなた行ってきてくれない?」


「ああ別にいいよ。美奈、頑張ろうね」


「・・・うん!」


なんだろう。美奈が不安な顔つきをした気がした。


「美奈、これ明日着ていきな?」


妻は食事の後、美奈に買ってきたワンピースを渡していた。美奈はとても気に入ったようで、ひしと抱きしめたまま、離さなかった。


「高い服じゃなくて、ごめんね」


「ううん!明日も、明後日も着てくの!」


「着すぎだよ」


久しぶりに買ってもらった服を見て、美奈は嬉しそうに笑っていた。




「じゃあこの問題分かる人いるかな」


美奈の担任・山田がチョークを黒板に置いた。


親が教室の後ろに並び、授業参観が始まっていた。親が来ているためか、生徒たちは張り切って手を上げている。美奈は皆から一呼吸遅れて手を挙げた。


指された男の子は、問題に正解すると満足そうに親を見た。


「次は問23、誰かできる人ー?」


また美奈は皆に遅れて、ゆっくりと手を挙げた。


「そうだな・・・じゃあ美奈ちゃん!この問題は黒板に書いてもらおうかな」


美奈はびくっと体を震わせ、おどおどしながら立ち上がる。


教室の雰囲気が変わった。さっきまで騒いでいた生徒達が、こそこそ話を始めた。美奈は教室の前にある黒板に行き、ゆっくりと答えを書き始めた。


「できました・・・」


消え入りそうな声で、美奈は言った。


教室が静寂に包まれる。


「ちげーだろ!」


どこかに座っていた男子の声が響く。


「分からないのに手上げるなよ!お前、バカなんだから!」


それを発端に生徒達が騒ぎ始める。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


美奈は昨日嬉しそうに抱きしめていたワンピースを、小さな手でぎゅっと握っていた。


美奈のきれいな涙がぽつりぽつりと、埃っぽい床を濡らす。


「ちょ、ちょっとみんな、静かにしようね!」


先生が慌てて教室をなだめた。


「また始まったよ」


「なにあのダサい服」


収まらない笑い声。


美奈はワンピースを握り締めたまま、まだ黒板の前に立っていた。


自分の体が、脈打つのを感じる。


男子生徒が美奈を突き飛ばした。


「どけよ!俺が答え書くから!」


美奈は転び、机に頭を思い切りぶつけた。


「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」


それを見て笑う生徒達。


「ださ!」


目の前が、頭の中が、真っ赤に染まっていく。


「笑うなよ!」


私はいつの間にか叫んでいた。


教室の視線が、一斉に私に注がれる。


気づくと、私は男の子の胸を掴み、拳を振り上げていた。


「パパ!」


そこでようやく、私は教室の静寂に気付いた。


思い切り、歯を食いしばる。


「次やったら許さないぞ」


男の子は泣きだしてしまった。


「美奈、行くぞ」


「あ、ちょっと斎藤さん!」


私は美奈の歩幅も考えずに、強引に美奈を連れて、教室を出た。






家のマンションまで来ると、美奈が泣き声で言った。


「私、もうこの服いらない」


「・・・お気に入りだったじゃないか」


「お気に入りだけど・・・」


その時、マンションの管理人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


「斎藤さん。奥さんは?」


管理人が卑しい目で美奈を見た気がした。


私は美奈をかばうように後ろに隠す。


「今日はいないんですよ。何か?」


管理人は下品に笑った。


「・・・どういうことですか」


「分かってるだろうに。家賃滞納してるんだから、仕方ないだろ」


60を過ぎるはずの管理人が見下した目で言う。


「奥さん、エロい体しとるよなあ」


管理人の口の端にはよだれが溜まっていた。


「・・・何を言ってるんですか。ふざけないでくださいよ」


「それはこっちのセリフだよ。もし奥さんを止めるなら出てってもらうからな?」


「・・・」


「美奈ちゃんも一緒においでね?待ってるから」


管理人は汚い手で美奈の頭をなでた。私は管理人の手を思い切り振り払い、構わず歩きだした。


「・・・お手て痛い」


子供の手を握る強さではない力で、握り締めていた。






「聞いたわよ?学校で問題起こしちゃったんだって?」


家に帰ってきた妻は、ふざけるように笑った。


「美奈、よく頑張ったね」


美奈も母に抱きしめられて安心したようで、やっと笑顔を見せた。


「昨日の夜、どこ行ってたんだよ」


「・・・どこも行ってないよ」


「嘘つくなよ!管理人のところ行ってたんだろ!なんで言ってくれなかったんだ!」


「・・・何を言われたか知らないけど、何もしてないよ。ちゃんと、逃げてきたから」


私は力なく、椅子に腰かけた。


「俺、小説家やめるよ・・・」


「どうして?」


「今日身に沁みて分かった。どれだけ俺がお前らに迷惑をかけていたか。どれだけ自分勝手だったか、分かったんだ」


「今頃気づいたの?」


「・・・」


「そんなの承知であなたと結婚したのよ?だから気にしなくていいの」


「いやもういいんだよ。俺には才能なんてなかったんだ・・・。なんの取柄もない俺が、小説ならみんなに勝てるんじゃないかって、馬鹿な夢だよな・・・。ちょっとだけ信じてみたかっただけなのに・・・」


私は静かに笑っていた。


すると妻は包装紙で包まれた箱を目の前に置いた。


「なんだよこれ」


「開けてみて?」


包装紙を開けると、そこには私には似つかわしくないネクタイが入っていた。


「あなたが高褒賞を取ったら、皆の前でインタビューされるでしょ?その時くらいきちんとしておかないとね」


妻は笑いながら言った。


なんとか、こらえる。


私は持っていた包装紙を、震えるほど握り締めていた。


「・・・だよ」


涙が、一滴机の上に落ちる。


「え?」


「なんで俺を信じられるんだよ!・・・お前が何させられたか、知ってるんだぞ!美奈だって俺のせいでいじめられてるんだぞ!それなのに平気で好きなことしてるんだ!もういいんだ・・・。いいんだよ・・どんなに努力しても、認められないんだ。誰も見てくれないんだ・・・」


ぐしゃぐしゃな顔で、ぐしゃぐしゃな言葉を叫んでいた。鼻水も、涙も、小さい頃から溜め込んでいた分が流れ出していた。


「いつだってそうだ!みんな俺を馬鹿にするんだ・・・」


いつも笑顔の妻が、泣いていた。


「何言ってるのよ。馬鹿にされたって構うもんですか!どんなに蔑まれたって構うもんですか!それであなたの価値が、決まるわけじゃないでしょう!」


涙を止めようとしても、止まらない。


「私は、あなたの優しさが好きなの。あなたの小説が好きなの。だからあなたといるのよ?誰がなんて言ったって、あなたは一番の小説家よ!それとも私の言うことが信じられないの?」


妻は震える声で、私を抱きしめる。


「私はあなたと美奈といれて幸せなの。だから笑っているのよ」


「ごめん・・・ごめん・・・」


妻の胸の中で目が腫れるほどに泣いていた。


その時、電話が鳴った。


妻が声を気にしながら電話を取る。


「はい・・・今代わります。出版社の方だって」


平常心を装って電話を替わると、興奮したように担当が言う。


「先生!受賞したんですよ!あなたの作品が!」


「へ・・・?」


「だから!高褒賞ですよ!あなたの小説が世間に認められたんですよ!」


「何言って・・・」


「何寝ぼけたこと言ってんですか!今すぐ来てください!あなたの夢でしょ!あなたの努力が!才能が!やっと認められたんですよ!俺は信じてましたよ・・・よかったですねえ・・・」


「才能が・・・認められた・・・?」


「早く来てください!待ってますからね!」


私はその場に座り込んでしまった。


「なんてこった・・・」


「何かあったの?」


「じゅ、受賞した・・・高褒賞を受賞したんだ・・・」


私はほとんど声にならない声で言った。


「うそでしょ・・・」


「パパ嬉しいことあったの?」


私は思い切り妻と美奈を抱きしめた。


「・・・やっと、やっと幸せにしてやれるんだよ・・・」


さっきとは違う涙を流していた。


「あなた!よかったわねえ!」


妻もそれを見て笑顔のまま涙を流す。


「パパもママもなんでたくさん泣くの?」


「嬉しいんだ・・・嬉しいんだよ・・・」


「よかったねえ・・・」


妻は私の腕の中でいつまでも泣いていた。






次の日私は大きなホテルの会場で会見をしていた。無数のカメラと取材陣が私を取り囲む。


「第70回高褒賞を受賞されましたが、今のお気持ちは?」


「こんなに大きな賞は初めてですから、恥ずかしいような・・・」


「先生は苦労されたと聞いております。賞金が出たら、何をされますか?」


「そうですね。迷惑をかけた妻と娘に、お返しをしたいです」


無数にたかれるシャッターの中で、私は会場の隅で立つ妻を見た。


妻が私を見て笑いながら手を振った。


だから、私も笑い返した。


いつもありがとう。


「全て私を支えてくれた妻と娘のおかげです。この場を借りてお礼を言わせて頂きます」


きっと今私は、世界一幸せな人間だろう。


どうしようもない人生の中で、ようやく光を掴んだんだ。


夜遅くに帰ってきた私を、起きていた妻と美奈が迎えてくれた。


「今度の休みは買い物に行こうか。おしゃれで高いものを買ってやるから」


「いいよそんなの。罰が当たっちゃう」


そう言いながらも妻は嬉しそうだった。


「パパ絶対だよー?」


可愛い娘と、支えてくれた妻をやっと幸せにすることができる。


男としての喜びを噛みしめていた。






次の日目を覚ますと、やけに頭が痛かった。


室内が荒らされ、異様な腐臭が立ち込めていた。


私は驚いて飛び起き、妻と美奈の姿を探した。


「美奈!お前!どこにいる!」


リビングも寝室と同様に、荒らされている。


ずっとカーテンが開けられていないのか、埃っぽさが鼻につく。


違う。荒らされているんじゃない。


これは・・・。


ごみが放置され、至るところに虫がいた。


どこからか異臭がする。肉が腐ったような、嗅ぐだけで吐き気がするような臭いが。


腐臭の元をたどると、窓際にごみ袋と一緒に肉がついた大きな骨と小さな骨が並んでいた。無数のハエとうじ虫が、これでもかとばかりにたかっていた。


「なんだよ・・・これ」


私は鼻をつまみながら近づいた。


小さな骨の近くに、美奈のお気に入りのワンピースが置いてある。


なんなんだよ・・・俺の部屋なのに・・・。いや、まさか。


「美奈―!お前―!どこにいるんだー?」


そうだ、そうだよ。夢でも見てるんだ。お金を狙った強盗が入ってきただけだ。誰かが悪戯しただけに決まっている。そうに決まってる。


私は室内を探し始めた。


「おい、いくらなんでも遊びすぎだぞ?さあ怒る前に出てきなさい」


そうだよ。昨日俺は高褒賞を受賞したんだ。明るい未来が待っているんだ。週末には買い物に行って、高い服を買ってやるんだ。妻と美奈を幸せにしてやるんだ・・・。


そうして私は洗面所に行き、何気なく鏡をのぞいた。


窪んだ眼、痩せこけた頬、ひげが好き放題生えた不潔な男。


「・・・」


思い出した。


「違う・・・」


思い出してしまった。


「違う違う・・・」


そうだ、そうだったんだ!


「そんなの嘘だ!俺は高褒賞を受賞して・・・」


そんなの、受賞していない。


「ああ・・・ああ・・・!」


走馬燈が駆け巡る。


落選を知らせる一か月前の電話。


自暴自棄になり、私は・・・。


「ああ・・・ああああああ!」


幻想だったんだ、ただの願望だったんだ・・・。


「ああああああああ!」


涙を流しながら奇声を発し続けていた。


「俺は!俺はあああ!」


美奈と妻を殺したんだ。


心中をしようとしたんだ。




「次のニュースです。東京都八王子市のマンションで男性の首つり遺体と死後数十日経過した死体が発見されました。男性の遺体は、小説家の斎藤史典さんだと・・・」


出版社でそのニュースを二人の編集員が見ていた。


「斎藤先生だ・・・どうして・・・この前の小説だって、本当に面白かったのに」


「斎藤先生、ずっと変でしたもんね・・・気づいてあげられれば良かった・・・」


「あの人には何が見えて、何が見えていなかったんだろうな」


斎藤の担当は、茶封筒に丁寧に入れられた原稿を取り出して言った。

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