第5話 ピン

 何を思ったのか、僕は博物館の売店で標本キットを買い、夕日の差す自室でそれを眺めていた。僕には昆虫採集の趣味はないし、こんなものを買っても使うことはきっと一生ない。それなのに、僕は売店の前で足を止めて、どうしてもそれを買わなければならない気持ちになった。何かに操られるように標本キットを手に取り、なけなしの小遣いをはたいて自分のものにしてしまった。そして、使いこなせるわけでもないものを目の前にして途方に暮れた。

 僕は机の引き出しを開け、蝶の代わりに入れられるものはないか探した。ペンは長すぎるから入れられない。消しゴム、付箋、ビー玉、小さな折り紙、手のひらサイズのフィギュア。――入れられるには入れられるが、どれもしっくりこない。

 キットの中には蝶を固定するピンが束になって入っていた。本当はこの針で蝶の胸を刺すのだ。だけど、僕には刺すべき蝶がない。ならば、いっそ自分の胸を刺してしまおうか。リリーが仕掛けてきた他愛ないくちづけのたわむれ。三年前の葬式では何の感情も表さなかったのに、僕と全く同じくちづけのはかりごとに巻き込まれ、見事少女の相手役を演じ、さっき僕の目の前で寂しげな微笑みを浮かべたルオ。余計な記憶がそがれ、強い印象を放つ記憶だけが頭の中に浮かんでくる。その記憶一つ一つにピンを刺し、博物館の蝶たちのように、生きることも朽ちることもない展示物として箱の中に閉じ込めてしまえばいい。

 僕は突然血の湧くような野心に打たれ、適当な厚紙を標本箱の底に敷き、束になっている大量のピンを一本ずつ厚紙に刺していった。

 これは、僕の記憶のとむらいか、それとも烙印か。

 二十本ほど適当に刺し終わると、部屋を染めていた夕日の光がふっと消え、手元が暗くなった。それと同時に野心も果て、僕は手に持っていたピンを机の上にぽとりと落とした。

 まるで墓標のように、僕の刺した細いピンは悲しく箱の中にたたずんでいた。

 僕は誰の目にも留まらない机の引き出しの奥に、その標本箱をそっと仕舞った。




(終)

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くちづけと蝶の標本 スエテナター @suetenata

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