第4話 兄さん

 週末、昆虫博物館のレポートの宿題が出た。僕はもう一度蝶たちに会いたくて昆虫博物館へ来た。課外授業のときとは違い、蝶の標本部屋には数人の客がいた。ふと遠くに視線を向けると、どこか見覚えのある背中があって、僕はどきりとした。標本部屋の奥で展示ケースの棚に視線を落としているのはルオだった。今、僕が一番会いたくない天敵だった。腰を曲げて展示ケースに顔を寄せている。気付かれないうちに適当な場所に身を隠して逃げてしまえばよかったのに、僕の足は泥にはまったように動かず、うつろにルオの背中を見ていた。そうやって立ち尽くしているうちにルオは顔を上げてこちらを見た。僕の姿を認めると、特に驚きもせず、ふっと寂しげな微笑みを浮かべた。

「君も来たんだね、ロロット。僕も兄さんの蝶に会いに来たんだよ」

 ルオは展示ケースの中の小さな箱を指差した。横長の漆黒の翅に金の縦縞模様が入った蝶が一匹、その小さな箱に納められていた。

「これ、兄さんが作った標本なんだ。珍しい蝶だから寄付して展示してもらってる」

 ルオは思いもよらず瞳をうるおし、翅の脈をなぞるようにそっと展示ケースのガラスに触れた。

「色々作っていたけれど、結局上手く作れたのはほんの数匹だけだった。あとは手足や触覚が取れてしまったり翅が破れたりして上手くいかなかった。手練れになる前に兄さんは死んでしまった」

 ルオは触覚のように細長い指をすっと上着のポケットに仕舞い込んだ。

「僕たちはいつ死んでしまうかなんて分からない。僕の人生なんてちっぽけなものだけれど、この標本箱に飾られた蝶を見ると、そんな人生も泡のような感情も、ほんの少し愛しく感じるんだ。僕は決して明るい人生を歩いているわけではないのだけれど、人間らしい柔らかい感情だけはまだなくしたわけではないらしい。不思議だよね。普段は自分のことも他人のこともどうでもいいと思うのに、ふとした瞬間にあたたかな良心が戻ってくる。本当に、不思議だよ」

 僕は今までに感じたことのない電気のような刺激を感じた。導線と電池で灯された小さな電球が激しい熱を持ち、僕の心の皮膚をちりちりと焼く。

 ルオはポケットに手を突っ込んだまま無駄な動きなく身をひるがえし、「じゃあね」と囁くように言って僕の前から立ち去った。

 僕は今、一体誰と会い、誰と会話をしたんだろうか。

 僕の手はびりびりとしびれたままだった。

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