第4話 縫い痕
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コタール症候群、というものがある。
自分がすでに死んでいて、死体だと感じてしまうという症状だ。
私が私の正体を知るまでは――魔術師になる前、人間だった頃、そうだと診断されていた。生きていないという実感が巣食っていた。
とんでもないオチとしては、私が本当に死体だったということ。
残念ながら症例でもなければ気のせいでもなく、魔物の死骸を人の形に縫い合わせて魔力で動いているだけの死体人形らしかった。
知ってからは、私は自分が何のために生かされた死体だったのかを探り続けていた。目的を得た死体は、それで満足していた。なんであれ、自分が必要とされて生きていると実感していた。
皮肉なことに死体だと知って初めて、生きていると思えた。
酷い矛盾だと思う。
生きていると感じることができれば、それでよかった。手首を切ってみせたり飛び降りたりする度胸もなかった私は、戦場を選んだ。綺麗な言い方をすれば死に場所を求めるために魔術師になった。役に立って死ねるならいいや、と蓮っ葉なことをいいつつ、生の実感を覚えてしまった死体はいつの間にか死なないための技術を身に付けようと必死に努力するようになった。誰かを守って感謝されることが嬉しかった。魔術師になった目的はこれだったのかもしれない、と勘違いした。
いつか死ぬことも。誰かを守ることも。
最初からそうデザインされていたことも知らないで。
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私の首は繋がっていた。
……てっきり斬り飛ばされたものかと思ったが。
きつく閉じていた目を恐る恐る開く。ぐるりと一周した喉元の傷跡の真上に、魔力で編まれた刃が容赦なく突きつけられている。熱量を放つ刃で、皮膚がひりつく。私か天が身じろぎ一つすれば、閉じた傷から再び鮮血を噴き出すことだろう。
首の傷は、数年前に付いたものだ。この傷が、協会に魔女が見つかる決定打になった。
つまりは、私の裏切りのきっかけになった傷痕だった。
天は私の顔――というよりは中身を覗きこむようにして尋ねた。
「せんぱい、ですよね」
遠慮や容赦のない厳しい口調だった。当然だ。この期に及んで同じ関係性でいられるとでも? ……ひょっとして、私はショックを受けている?
自問を押し込んで私はこたえた。
「あんたの知ってる私だよ」
「本当ですよね」
……そんなに差し迫った声を出さないでくれ。
「嘘を言ってるようにみえる?」
「せんぱい、嘘つきなのでわかんないんですよね」
「オオカミ少年ってこうやって死んでいったんだな。ああ、自業自得だ」
「殺すの躊躇っちゃうようなことを平気な顔して言うんですから、まったく」
天は魔術を展開したまま、嘆息した。侮蔑の色こそないが視線も口調同様、厳しい。それでも、数ミリほど刃が首から遠のいた。
私は腰をついてへたり込んだまま、喉笛を晒していた。とりあえず両手は頭の位置まで上げておく。
「目が醒めた」
とだけ、私は告げた。
自分が、魔女の作った入れ物だと思い出した。そのことを伝えるのには十分だったろう。
言葉に対して天は露骨に眉をひそめた。
「自覚したせんぱいは、今まさに死んだようなものですけどね」
「今まさに殺されかかってるしな。それに、元から死んでる」
「状態としては生きているでしょう。呼吸も脈拍も意識もある。あなたの、意識が」
「それらの全てが疑似的なものであっても?」
自嘲のつもりはない。事実を言っただけなのだが、天の気に入るものではなかったようだ。首元に突き付けられた燐光が僅かに揺らいだ。……優しいやつだ。まったくもって。
「私は、魔女の入れ物だということを思い出した。これが正解。さ、出してくれるんだろう」
「ええ。そういう約束です」
天から焦りが感じられる。目は泳いでいるが、呼吸は落ち着いている。――想定外はあったがこの状況には慣れている、とった風体だ。
私はそれを冷静に観察している。自分のこういう部分があまり好きではないのだが、仕方がない。おまけに生き延びるのには今まで役立っている。
しかし……どうやら見落としがあるようだ。
天は私を殺そうと思えばいつでも殺せた。だから私を協会に売りたくてここに閉じ込めてたわけでもない。そして自分が魔女の器だという事実を切り飛ばされた私は何度忘却しようと真実には辿り着いていた。
私は真実に至るたびに、天にここから出さないよう懇願したらしい。そうしてここでの時間を切り飛ばされるのを繰り返していたようだったが、今の私はこれまでのループにはないことをしているらしい。
なぜ、わざわざ私がここから出すなと頼んだのか。
ここから出たとして、協会の包囲網が敷かれていたら、私は死ぬ。ほぼ確実に死ぬ。ならばここに捕らえておいてくれと頼みこむのは不自然ではない。昔馴染みのよしみにしても罠でない方が不自然だった。
「あんたの独断でこれを?」
「チームのみんなが賛同すると思いますか?」
「いや……賛成しないだろうな。特に、ヤクあたりは絶対に嫌がる」
「でしょうね。せんぱいのことを今でも信じている、健気な方ですから」
「私が裏切ったのに?」
「ええ。あなたが、裏切ったのにも関わらず」
「その……ヤクは、元気にしてる?」
尋ねる資格がないにせよ、訊かずにはいられなかった。
「新しい研究をされていますよ。魔女を見つけ出すためにノース議長は新しい策に打って出たようで。技術提供を求められていますが、どう考えても倫理的にアウトな路線なのでヤクさんは渋っています。前線にはもう出ていません。逃走した時にせんぱいが脚につけた傷がたたったのでしょう」
そう。と私は返す。
「知っての通りヤクさんはあまり戦いが好きな方ではないので、ご本人はこれでよかったと仰っています」
これで喜べるほど私の性根は腐っていない。
「それと――上には隠れてずっとせんぱいを探していらっしゃいます。新方策に反対するからにはせんぱいを売れと言われているようですが、そちらの命令にも従う気はないようです」
新方策、ねえ。
またぞろ碌なことを考えていないのだろう。あの男は。
ここにロイドがいなくてよかった、とちょっと安心した。ノースの名前が出ただけで機嫌が悪くなってしまう。あいつにはそれだけの因縁があった。
「ああ。……それじゃあ、ヤクの立場が危うくもなるな。私のせいで前線を引いて、技術も提供しない、捜索はしても情報は出さない。直接的に処罰する理由はないが時間の問題だろう。……だから、おとなしく殺されに帰って来いと? 協会の指示で私を?」
「違います」
天はきっぱりと首を横に振った。
「手配が外れたわけではありませんが……議長に頼まれたってこんなことはしませんよ」
「じゃあ、なんでこんな手間のかかることを? 私を殺すつもりじゃないなら、なぜ?」
「あなたに帰ってきてほしかった。だって、あなたは魔女じゃない。入れ物だってことだけ。いわば殺人鬼の使った凶器のようなものです。悪いのは殺人鬼だけでしょう?」
「罪を憎んで人を憎まず、ってか? だけどずっと私が所持していたようなもんだ。入れ物だからな。どこからどこまでが私なのかもわかっていないのに、私がやっていないことを証明するのは難しい。私もあいつも同じように嘘を吐く」
「今、あなたの中に、魔女はいますか?」
「……どうかな。いるような気もするし……いない気もする」
わかっていて私ははぐらかした。
いない。ここに、
私がいなければ困るのはあいつで。
私はあいつがいなければ、ただの死体に戻ってしまう。
天は、知らないだろうな。多分ここまでやるの、相当苦労しただろうし。結果、私が死ぬリスクが現在進行形で倍々ゲーム方式で増えていることは、できれば隠し通しておこう。
「どうする? もうちょいボコってみたら出てくるかもよ。そういうの、よくあるだろ。命の危機に瀕してーってやつだよ。あいつはそれに応じてくれるだけの気前のいい奴でもないけど」
そして今ボコられても普通に死ぬだけなんだけれど。
「そんなことしませんよ。会いたくなんかない。せんぱいの顔をして、まるで違うことを喋るせんぱいなんてわたしは嫌です」
「……魔女は嫌い、だもんな」
以前、きっと、天はロイドと会話したのだろう。想像に難くない。天はロイドを説き伏せようとし、あいつは天をぞんざいにあしらったことだろう。
天は嫌悪感を隠すことなく、
「わたしからあなたを奪った魔女が憎い。あなたを返して欲しい」
「私はここにいるよ」
と呟いた。ぞっとするぐらい、虚しい響きだったが。それでもここには、天と、私だけだ。
変わらなかった天と、変わっていないと思っていた私。
「……私は、あんたが思うほど変わった?」
喉まで出かかった言葉を形にしようと天はしばらく考えているようだった。まるで酸素が馴染まないかのように苦しげで、楽にしてあげたいと思った。……楽にされたいのは私だろうに。
「自力で自分の正体にたどり着くことがなければ、せんぱいはきっとここにいることを選んでくれると思っていたですよ」
天は短く息を置いた。憂いを帯びた溜息だった。
「だけど、あなたは毎回毎回必ず答えに行きついて、『殺してくれ』と懇願する。今が叶わなければ、いつか必ず殺してくれと」
言ってしまったことを悔いるように天は唇を噛んだ。
言葉に、衝撃を受ける。
殺してくれ。だって?
ああ。そんな。
なんて、理想的なお願いなんだろう。
天になら――殺されてもいい。
「っ、はは―――」
私の口から笑い声が漏れ出た。
議会にもロイドにも殺されず、天に殺される。
それは結構、魅力的な話だ。
囚われていようといまいと、私の思考回路はどうしようもなく閉じている。
天は私の頼みを実行する気がなかったから、私のした要求が捕縛だったのかという問いに対して否定したのだろう。今まで、何度も、何度も。
いつかの私が、殺してくれと言わなくなるまで。
「……何度忘れようと私の結論は変わらなかった。私が変わらないのに結論が変わるわけがない。それでもあんたは、信じたのか。いつか、あんたの干渉なしに私が『死にたくない』と言うのを。……あんたになら殺されていいと思っている私を、信じたのか」
それこそ、お優しい話だ。
いっそ一思いに殺してくれた方が、どれだけよかっただろうか。
「入れ物である私の魔力のバランスが崩れている今か、外の世界からの干渉で、状況は変わってしまったが。ここまで状況を整えた。ほぼ完全に私から魔女を引きはがして、入れ物の私が上手く死ねば、魔女を殺せた。だが、あんたが綺麗に切ってくれた魔女を私が手繰り寄せてしまう。そういう風に作られた入れものだからな。私は、因果を引き寄せる」
そういう能力だ。斯く在れと書き上げられたプログラムのように。
天は深く唇を噛んだ。
「あなたは、わたしに『ここで殺してくれ』だなんて頼む人じゃなかった。……あなたは、生きているくせに。……やっと生きてるって思えたのに、そんなことを言う人じゃありません」
生きている気がしない、と。
とっくに死んでいるから、と。
「……私が魔術師になったばかりのことなんて、まだ覚えてたのかよ」
もう、忘れてくれていいのに。
「諦めちゃったですか。自分が、魔女を生かすためだけに創られたと知ったから」
「逆だ。生きることを諦めきれなかったからだよ」
天はどこまでも真摯だった。その真摯さが、多分、ずっと、私には重荷だったのだろう。
受け止めきれない。自分が入れ物だったことよりも――。
入れ物でもいいからいて欲しいという言葉を望んでいないわけではなかった。お前はお前だという、月並みな言葉でもよかった。
――それ以上に、私が。『ここにいることを望まれてはいけない』と思っている。
「死に場所が欲しくて魔術師になった。力をつけていって、チームが協会の中で頼られるようになっていって、ここにいていいんだと思っていた。感謝してくれる人がいるから、その人のためにありたいと」
「だったら、その通りに生きればいいです!」
「今は違うだろう。魔女は死ねという声の方が、ずっと大きい」
「そんなの従わなくっていいんです。あなたに死ねという人のために、あなたが死ぬ必要なんてない。そのために、ここにせんぱいを呼び戻して、わたしは……!」
「魔女は、死ななくちゃいけない。私が、死ぬ必要がなくても」
天は大きく息を呑んだ。
「私が、そう思ってるんだよ。大多数の魔術師や観測者連中が『魔女は死ぬべきだ』と思っているからじゃない。その上で殺されるのなら、あんたが良いと思ったんだ」
死にたくはないけれど、安心して死ねる。
そう思った。
だから、天に、殺してくれと懇願した。
「ばかじゃないですか」
「うん」
「素直にうなずく人がいますか。大体、あんな滅茶苦茶な力を、あなた一人で受け止められるわけがない」
「あー。それは、まあ、でもほら。我慢、できるわけだし。耐えられるようにできてるし?」
「……せんぱい、怖くはないですか。それで、あなたの意識が帰ってこなくなったら」
「未だに怖い。あんなの、何回もやって慣れるわけない。毎回気絶しそうなくらい痛いし、慣れていいもんでもないし、慣れたくないからそういう感覚だけは残してもらった」
誰に、と尋ねられる。
「今の雇い主」
露骨に天の顔が引きつった。
「取引して助けてもらった」
「利用されているだけです。せんぱいも魔女も。きっと使い捨てる気でいる」
「うん。本人もそうだと言った。でも、だから任せられる。もしものときの後処理も引き受けてくれたし」
「っ、なんで」
「ん?」
「なんで、せんぱいは、そんなに気軽なんですか」
なんで、って。
答えに困って私は首を傾げた。燐光にあたりそうになって、慌てて天が腕を少しずらした。
自分が殺されかかっていることも、私は忘れていた。
「死にたくない消えたくないと思っていながら、せんぱいは自分の命が軽すぎます。私があなたを呪ったのは、あなたが自ら死にゆく運命を否定したかったから、なのに、」
言葉は続かなかった。
最初の雫が、天の目からあふれ出た。快晴の空と同じ色の瞳から。
次いで、ぽろぽろと大粒の涙が零れる。部屋の外と、同じように。
涙を留めようと、天の白い指が拭ったところで、とめどなく溢れる。
嗚咽が漏れて、天は、ついに刃をとき、顔を覆って膝を落とした。
燐光は崩れ去った。薄暗い部屋に、散らばった欠片が残り火となって舞った。蛍のような火の粉のような淡い光はしばらく部屋の中を漂っていた。
「……ごめんな」
私は何度も天に残酷なお願いをしてきた。
「迷惑、かけたくなかったんだ」
それだけだよ。
私は私が魔女の入れ物であることを知ってしまったから、止まれなくなった。自分の中身が、抱えて飛べなくなるほどの重荷だということは、嫌というほど知らされていた。
「ほんっとうに、ばかな人」
それで、と。天は囁く。
「今回も『ここで殺してくれ』ですか?」
「いや。今は待ってほしい」
机の上に目を遣る。再確認できてよかった。この点は天に感謝したい。
「魔女の痕跡、全部。……全部潰した後になら、あんたに殺されたい」
「は?」
天はぽかんと口を開けて、目を丸くしている。
「官舎を出る前に必死に叩きこんだ。魔女の魔力パターン、工房、協力者、そしてバラバラにされた本体の肉片の場所。別に私がいようがいまいが、復活リスクなんてどこにでもある。それ、全部私の手で潰すから。そしたら最後に残るのは、私とあいつだけ。そこをあんたが始末して、この件は綺麗さっぱり片が付く」
「ご自分が何を仰っているか理解されてます? 痕跡も肉片も協力者も。いくつあると思ってるんですか。それを、ひとりで潰しに行く? 協会が血眼になってやって、何百年も終わっていないことですよ?」
「協会がやってくれそうなとこは放っておくよ。それ以外は、
「だったらここで、魔女を私が切って、殺してみせます。それができなくても、私も、せんぱいと一緒に、……そうです。戻って、せめてチームに説明すれば皆わかってくれます」
「今は待ってくれと言っただろ。まだ私にはあいつが必要だ。情報源として、な。魔女が、必要なんだ。だから、そんな私の手助けをしてみろ。……あんたら全員が査問にかけられて、処刑される」
こんなの言いたくなかったのだが。
「……私は、それが嫌なんだよ」
「……だから、せんぱいはチームを、抜けて」
「内緒で頼むからな」
「だとしても! どうして言わなかったですか! 黙って逃げ出したですか!」
天の追及はもっともだった。小さな指で、私の両肩をしっかりつかんで、尋ねる。巻いたばかりの絆創膏に血が滲み始めていた。
そんなにつかむと、傷が痛むだろうに。
「止めてくれるってわかってたから」
私の返答に、天は息を呑む。
「止められたく、なかったから。……私には、勿体ないチームだったんだよ」
星の海を見た。硝子の街を歩いた。鉱石の洞窟を抜け、最果ての海を見た。色鮮やかな果物を摘みに、月明かりの森を歩いた。原初の火を囲んで野営をした。
旅の記憶。綺麗な思い出だけではない。たくさん死にかけた。もちろん、私は動く死体で、ただの入れ物であることに変わりはなかったけれど、死体だった私を生かしてくれたのは、かつての仲間だった。居場所をくれた。役割をくれた。感情も、ぬくもりも、全部あった。
「……もらったものを分不相応だなんて、もう思ってないよ」
貰った愛情が怖くて逃げだしたのに。
それに応えられないことが分かってしまったから、逃げ出したくせに。
ずるいことを言っている自覚はあった。
「なんだ。せんぱい、それなら、もっと早く言ってくださいよ」
その時。
大きな音を立てて、壁に、床に、亀裂が入る。ぐらついた衝撃でバランスを崩し、私は天から離れてしまう。
亀裂を挟んで、対峙する。
「限界ですか……。髪、結んでもらいたかったんですけど。……やっぱり、今回も無理でしたね」
眉を下げて、人懐っこく笑った彼女の顔が、私は多分、大嫌いで、すきだった。何度見ても、憎みきれないから。その笑顔ひとつで、なにもかもを許してしまいそうになるから。
亀裂は壁を這い、窓が砕けた。雨音が飛び込んでくる。割れるような喝采を浴びたように。
魔女の再臨を、祝福するように。
あるいは、魔女を屠るものの誕生を、祝福するように。
「せんぱい。わたしは、あなたの居場所を、守っていたかったですよ」
ずっと、ずっと。と、彼女の唇が、かたどる。
「わたしは、あなたがいて、あなたのいるチームのみんなが、だいすきでした」
10年来の、告白をするように。
「わたしが望んだのは、別れの日の続きです。痛みも、その原因もなくならない、もう治らないのなら、その結果がなくなってしまえばいい。永遠に痛みながら、生きていましょう? せんぱい」
すべてを、とかしてしまいそうな笑みで。暴力的な慈愛を。
「あなたを死に追いやる魔女になんて、あなたを渡したりはしません」
腕を一振りするだけで、周囲の時間だけが止まる。部屋の崩壊は停止する。窓ガラスは宙を舞ったまま凍りつく。
「過程はなくなります。全部、私が奪ってみせます。そうすれば、結末は永遠に訪れない。悪因悪果があったとすれば、魔女がいたこと。そして、わたしがあなたを繋ぎ止められなかったこと。……あなた以外が、悪かったんです」
私は間髪入れず反駁した。
「そんなわけが、あるか。言った通り、裏切ったのは私だ。原因も結果もこんなに絡まっているのが、今の私だ。痛みという結果に原因があると言ったのは、あんただろう。初めたら、終わらなければならない。永遠なんて来ない。それがルールだろう。変えられない。変わらない。けれど、そのための過程で費やしたものを奪ってしまえば、どこまでいっても空っぽだ。どこにも、行けないままだ」
魔術師だった私が知るのは。
例えば、摩耗する記憶を抱えて愛を誓った転生少女と転生少年で。
例えば、悪性の澱の中、消滅することしか選べなかった少年で。
例えば――、ひとりぼっちで戦うしかなくなった、魔女のことで。
過程で抗ってきた者たちばかりだから。変性した結果の後をもがいてきたことだけが鮮明に爪痕を残している。
私の記憶に。
心や魂があると仮定すれば、その根幹まで。
「理由がいるから魔術で怪我を治さないんだろう。痛みの理由が要るから。理由があって痛いから。あんた、そう言ったよな。痛いのは結果だ。けれど、いつか癒える。癒えた途端に痛みの経験を失くしてしまえば、私たちはまた同じことを繰り返す」
天の笑顔が、みるみるうちに消えていく。
天が私の運命を否定したように、私は、天の紡いできた過程を否定しなければならない。
「変わってしまった結果の中で足掻くしかない。痛みも過程だ。過程は、あくまで原因の連続で、そして、始まりの原因だって何かの結果でしかない。切り取ることも、結ぶことも、できはしない。仮に強大な力があって過去に戻れても、そこで生きるのはその時点での私だ。だとしたら、同じことを繰り返すか、気付けないまま過ちを続けるばかりだ」
大きく息を吸った。少し、鼻の奥がつんとした。
「終わりの結末で、死ぬわけじゃない。結末の後を生きなくちゃ、私たちはどこへも行けない」
共に歩むことが、もう叶わないとしても。
傷だらけのまま、痛みを消さないで往くしかない。
「帰る場所もいらないとおっしゃるんですか」
「うん」
「わたしや皆を置いて?」
「そうだよ」
「そんなの、あんまりじゃないですか」
「あんたが勝手に始めたように、私も勝手に始めるだけだ。全部が全部叶えられないって、あんたも知ってるだろうに」
「……欲を出したのが、間違いでしたかね」
「かもな」
「冷たい人」
「だろうよ」
「全部あなたのためにやったことなんです、って恩着せがましく泣きついたらどうします?」
「全部自分のためにやったことだろって言う」
「もう言っちゃってるじゃないですか」
悲しいなあ、と。天は眉を下げた。
「これじゃあ、ただ、別れの日に言えなかったさよならを言うためだけに、こんな茶番を仕込んだようなものですよ?」
「あー。いや、それだけじゃあ、ないと思うよ」
よいしょ、と亀裂をまたごうとする。止まった時間の中では容易だろうと、そう、思っていた。
「あれ」
視界が大きく揺らいだ。
べしゃりと私はすっ転ぶ。いや、転んだのではない。
またぎ越して、体重を乗せた脚が、ぐずぐずに崩れている。
腿の付け根から、取れてしまっている。
「せんぱい!」
天は叫んで屈みこんだ。すぐさま、治癒魔術をかけようとする。
「これは直んないからいいよ。それより、時間を、進めてくれないか。……戻らないと」
「でも……!」
身をよじろうとして、ぶちぶちと腹から嫌な音がした。ああ、さすがにこれはまずい。
「動いちゃ駄目です!」
「身体、もたないみたいだからさ。急いで」
天は腐った私の身体と、崩壊し始めた部屋を見比べて、僅かに躊躇ってから、時間停止を解除した。
雨が、わたしたちに降り注ぐ。次いで、裂け目から、泥のようなものが入り込んでくる。それは、何かを探しているように這いまわっている。
時間が無い。
「櫛、拾ってくれないか。それと、リボン貸して」
私は言った。
「え……?」
天は、目にいっぱいの涙を溜めて尋ね返す。
「髪。……結ぶから。早く。最後になるだろうから、早く」
驚きに目を見開いて、滲む涙をぐっとこらえ、苦しそうに、天は口角をあげた。
「……あなたという人は、本当に救いようのない大ばかです」
「馬鹿で結構」
天は水がたまり始めた床から櫛を拾い上げ、半ば押し付けるようにして、リボンと一緒に手渡してくれた。しゃがんだまま私に背を向けた。
体を起こす。自重で肩から腕が外れそうになる。
うなじから髪を持ち上げる。手首を返し、すっかり濡れそぼった髪を分けてやる。軽やかさもない。水を含んだずしりとした重み。指の間を天の髪が滑る。捉え纏め、捉え、纏めを何度か行った後で、リボンを通した。解けにくいように、けれど、痛まないように。ゆったりとした形を持たせて結ぶ。
途中、指が何本かとれた。最後にリボンをぎゅっと引き結ぶと、左の手首から先が捥げた。
それでも、構わなかった。
「できたよ」
言うなり、天は振り返ってしっかりと私を抱き留めた。きつく、きつく。絆創膏だらけの指先にまで力が込められていた。天の全身が、重みと圧を伴って私に刻まれる。
「……天、痛い」
ばらばらになりそうなほど、深い抱擁だった。
しかし、天がその腕をの力を緩めることはなかった。
私は諦めて、ぼろぼろに崩れていく空間を眺めていた。書類や稠度が粉々になっていく。天井が吹き飛び、空に呑み込まれていく。緩やかに胎動する陽光が雲間からもれはじめたが、その空でさえもテクスチャを剥がすように遠景までもが伸びて、千切れていく。千々になり消えていく端から、泥が溢れてくる。
「どうして、せんぱいは、助かろうとしないんですか」
「助かっちゃいけないから、なのかな」
「あなたが、魔女の入れ物だから?」
それには、答えなかった。否定も肯定もできなかった。魔女に創られた意識でなかったとしても、私の中身に魔女がいようといまいと。選択してきたこれまでが私であるのなら、天を置いて来たのは私なんだから。天以外にも、蔑ろにしてきたのは私だ。
「救いようのない馬鹿だからかな」
「……手の施しようのない人。助かろうとしなければ、助からないのに。あなたは全部全部振りほどいて、どこかへ行っちゃう」
ねぇ、せんぱい。と。擦れた嗚咽。
足場はわずかだ。周りは真っ暗闇になり、もう、私と天しかいない。二人分の輪郭だけが浮かび上がっている。私の輪郭だけがはっきりしている。繰り返されてきた時間の中で、明確に異物として認識されたのだろう。
雨滴の落ちなくなった世界で、ぽたりぽたりと、天だけが、涙を落としていた。
「あなたを繋ぎとめることができないのなら、せめて、えにしだけでも信じていいですか。ほどかないでください。あなたが負い目を感じることなんて、僅かでもなかったはずなんです。その日まで、あなたが役目を終えるその日まで、わたし、待ってますから」
できれば、精一杯殴って欲しかった。なぜこうも優しさを受け取ることができないのかと。痛みなら、簡単に受け取ることができるのに。
「待たなくていいよ。だけど……どこかで会えるといいな」
約束は口にしない。できないことにこれ以上、期待をかけるべきでない。
「その時はやっぱり敵同士ですか」
「容赦なく、手段を選ばない、あんたで来てくれ」
「……いつもの天ちゃんで、会いに行けばいいですね」
「うん。だから今日の日は、忘れて」
最後に一度、残った右手で、天の手をさする。傷だらけの手を。
「私以外の人を掬い上げてくれ。あんたの優しさも、救いも、全部、私以外の誰かにあげてくれ。私もどこかで、誰かの力になれるように、頑張るから。全部終わったら、あんたの手で、馬鹿な私を止めてくれ」
それでいいだろう。と、言うと、天は、私の手をきつく握り返した。
「お断りします」
泣きはらした目をくっと眇め、嗚咽の零れる唇に嗜虐の笑みを浮かべる。
「今日のことも、忘れません。えにしもきっと、切れませんとも。ほどいた数だけ、繋ぎ直します。そして、あなたにとどめを刺しに必ず向かいますから」
「……簡単に、言ってくれるなぁ」
つい、緊張が解けてしまう。
容易く言葉にして、そして天ならば現実に成し遂げるだろうという、安心感があった。
「ええ。できることしか言いませんとも。天ちゃん、優秀なこうはいなので」
得意げに天は胸を張った。
ああ。
味方でいられた時間に。この勝ち気で怖いもの知らずな顔をもう一度見られて、本当に良かった。
「……よかった、いつものあんただ」
妙に穏やかな心地がしていた。
言葉は、自然と零れでた。
天はほんの少し驚きに目を見開いて、そして、天の自信たっぷりな笑みが、
「せんぱい、わたしに変わって欲しくないんでしょ。あなたは――随分、変わってしまったけれど。でもね、せんぱい」
表情が、屈託のない笑みに変わった。
「わたしは、あなたの笑った顔が見られて、よかった」
私を支える足場が、崩れる。
天が、掴んだ手をより強く握ろうと逡巡し――離した。
じゃあね、と。唇でかたどった。声にはださなかった。
私は空へ向かわず、重力に従って落下する。
すぐに、天の姿は見えなくなった。
ともがらも、同様に報いを受けるべきものもなく。私は、自ら蜘蛛の糸を切り、ただ一人暗闇の底へ転落する。底で蠢く者の気配を感じ、圧し砕かれる姿を想像した。
以前こうして何かを選択した時には、必ず、戻る場所があった。仲間と言える人がいた。
それを捨て去ってでも誰かを助けなければ、どこかへ行かなければならないと思うのは、この身体かこの意識によって創られたものだとも思えなかった。私であったためにそうした選択をした。痛烈で、苛烈な道を歩いて行かなければならないと思っていたのに。
最後に私は、笑っていたのだと、天は言った。
なら、いいか、と私は風圧で剥がれた瞼で目を閉じようとする。
真っ暗な海で、私の手を取る者があった。強引に掴まれる。形のない、泥のような塊だ。すぐに、それが何かわかった。
「……ずいぶん遅いお迎えで」
私の憎まれ口には何も言わず、泥は私を吸いこむ。
ぎゅっと全身が圧縮される感覚。視界が明滅する。引き延ばされ、ばらばらに寸断され、そうしてまた圧し固められたような感覚が一瞬で過ぎ去ると、私は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
フラッシュを焚いたように白い視野に目がくらむ。徐々に色が戻って来る。
薄荷に似た香草と埃と土を混ぜたような匂いが鼻腔をくすぐる。
息を、している。
私は一度瞬きをした。目尻から、ぬるりと涙に似た液体が零れた。
「やあ、おはよう。
滑らかな低音に顔をあげると、雇い主――もとい、
「まだ身体は起こさない方がいいよ。今起きると、おなかの辺りから裂けちゃうからね。いやあ、ここまで死にかけてるキミを見たのはいつぶりかなあ。初めて会ったときぐらい?」
いたく上機嫌なようで、懐から煙草を取り出すなり火を灯す。
「ここは……」
ごぽごぽと、大きなガラス瓶の中で何かの植物が煮出され、蒸留されている。瓶詰にされた薬草類が棚いっぱいに並んでいる他にも、何かしらの魔道具が所狭しと置かれていた。魔道具はどれも型がかなり古い。壁は石造りで、床は粘度を固めたものにびっしりと呪文が刻まれている。光源になっている魔鉱石が幾つか天井からぶら下がっており、うっすらと橙色の燐光を放っていた。
私は部屋の端に置かれたベッドの上で、点滴に繋がれていた。薬液の色はどす黒い。
「
「あいつが回向に、ここを教えたのか……」
「背に腹は代えられぬ、ってやつ? 出入り口を今だけ店と繋いでいてね。ほとんど死体に戻りかけてたキミの身体を戻せるくらいだから、隠れて素体作るぐらいのことはできるだけの道具も素材の備蓄もあったし、ほら、不完全だけどスペアも」
勢いよくドアが開いて、向こうから見慣れた仏頂面が現れた。
赤い髪をした、私と同じ顔をした人物。回向とは正反対に機嫌が悪そうだった。
「……隠してあったみたいだし? 契約の仕様上まともに運用できるのは弥月くんの身体だけだから、錯夜くんも長持ちしないけどね。あ、スペアの入れ物は弥月くんの修復が終わったら石化処分しまーす」
回向をぎろりと一瞥すると、錯夜は運んできた何かの乾燥した肉塊を蒸留中のガラス瓶に放り込んでいく。瓶の中身は見る間にドブのような濁った色に変わっていった。……点滴の薬液とよく似た色をしている。
「キミは戻ってきたし、ついでに隠し工房をひとつ暴けたし、これでまた世界は平和に近づいたわけだ。どこの誰だかしらないけど、感謝しなきゃね。弥月くん、相手に心当たりはある?」
「ない。知らないやつだった」
「……そ。やっぱりキミも素直じゃないなあ」
まあそういうキミらが大好きなんだけどね、と回向は紫煙をくゆらせた。端から私が嘘を吐いていることなどお見通しらしい。なんなら一部始終を見ていた可能性もあるけど。
「……安心しなよー? 弥月くん。うっかり入れ物のキミだけが死んで、その身体を構成している素材そのままの怪物になったら。最初に契約した通り、ちゃあんとボクが殺してあげるから」
気楽な調子で回向は続ける。
「ま、それでも……ヒトとして、死ねたらいいね」
ひらひらと背を向けて手をふり、回向は部屋を去った。ばたん、と木戸が音を立てて閉まる。
……錯夜と残されてしまった。
実体のある姿を見るのは、随分久しぶりだった。回向の店に雇われて、制限付きとはいえ入れ物である私を自由に使えるようになってからは、特に顔を突き合わせることもなかったのだから。
「なあ、錯……」
「動くな。死ぬぞ」
蒸留装置やそこに接続している魔道具を調整しながら、こちらも見ないで言う。
「ついでに黙ってろ。おれは今めちゃくちゃ機嫌が悪い」
「ごめん。助けてくれてありがとう」
「………………」
錯夜は露骨に嘆息すると、手に持っていたレンチを勢いよく作業台にたたきつけた。……レンチって机に刺さる物だったか?
黙れって言ってるのがわかんねえかなあこいつ、できれば死んでくれ、あのままどっかの空間に放り込んでおけばよかった、などなど、ぶつぶつと呪詛のように呟いている。
「だから、ごめんって」
彼女は私をぎゅっと睨みつけると、吐き捨てるように宣言した。
「おれは、おまえなんかと心中しないからな」
それから、と私を指さす。
「背中の手形みたいな痣、取れないからな」
最後に天に抱きしめられた時の、あれか。かなり強く締められていると思っていたが、痕になっていたのか。
「……いい目印になる」
獲物のマーキングか、キスマークみたいだ、と私は呟く。
「……おれが言いたくなかったこと全部言うのな」
蒸留器に接続された装置から、気の抜けた音と共に蒸気が噴き出す。
心底嫌そうに錯夜は首を振った。
「あいつに愛されたとでも?」
「さあ。大体、愛されることと呪われるってそんなに大差あることなのか?」
私は尋ねた。
「おれにそれを訊くなよ」
案の定、一層不機嫌そうに錯夜は言う。
「あれは愛を振りまくようなもんじゃねえし、おまえはあのクソガキの執着心に呪われただけだ」
殺気のこもった、獣の唸り声のようだった。
錯夜の言う『あれ』とはおそらく『大いなる意思』のことだろう。
「……私がそう思いたいのかもな」
「じゃあ、尚のこと、おれに言わせるな」
ぴしゃりと錯夜は問答を打ち切り、装置の中間部にあるバルブを緩めた。どす黒い粘液が管から顔を出す。コールタールに似た臭気がここまで伝わる。そういった童話があった気がするなあ、いやあれはチョコレートだったかと思い始めたあたりで私の脳味噌は現実逃避を始めていた。やけに早々と回向が部屋を去ったと思ったが、この臭いを避けただけなのかもしれない。
錯夜は粘液を耐熱ボウルに雑に受け止めた後、こちらへ向かってくる。
……ふとベッドサイドに目を遣ると、口径の大きい漏斗が転がっていた。意識を失っていた間に何があったか大体想像がついた。
「さっさと直すぞ。口開けろ」
「もう少し穏便な方法で」
「そんなもんはねえ。贅沢言うな」
「これだから魔術第一主義者は嫌なんだ。発想が柔軟じゃない」
「ヘムロックみてーなこと言うな。屑肉に戻すぞ入れ物」
「成仏させるぞ亡霊」
しばらく睨み合った後、先に折れたのは錯夜だった。
いや、違う。有無を言わさず漏斗を手に取って来る。うっかり動いてバラバラになるのは私だ。
せめてもの反抗で指で口を塞ぐと、錯夜が声を荒げる。
「おまえは、おれに、直されるしかねえんだよ、観念し、……あ?」
漏斗をボウルに突っ込むと、何か見つけたのか、私の指の上で何かを摘まむ。糸のようなものだ。
絡まってた何かは、しばらく私の指に引っ掛かって抵抗していたが、ややあってほどける。
それは、金色の、細い、髪の毛だった。
「ここまで絡まるとはな」
苦虫を噛み潰したような顔つきで、錯夜が小さく手を振ると、血のように赤い炎が舐めるように髪を焼いた。蛋白質の焼け焦げる、厭な臭いがした。
光を受け、細いきらめきとなって灰になる。
彼女は改めてそれを眺め、忌々しそうに呟いた。
「……辿っていけば、必ず
「もしくは、私が
「そんな日が来るとでも?」
「来るよ。必ず。……何せ私は諦めが悪くできている」
長い長い迷宮を、ヒトとしてさまようのが私ならば、
霜乃天は、いつかの旅の終わりの日への、アリアドネの糸なのだから。
終端のアリアドネ 日由 了 @ryoh_144
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