さよならの一秒前で絶叫

伽藍井 水惠

さよならの一秒前で絶叫

 旅の途中、一棟の建物に巡り会った。黄金色の枯れ草ばかりが生い茂る田舎道にぽつんと建つ建物は周りの風景から明らかに浮いており、端的に言い表すと異質だった。

 写真に収めれば「おや下手な合成だ」と笑われるであろうし、風景画にすればやはり苦笑されるであろう。そんな、世界に馴染まない建物である。


 背負ったリュックサックの重みを両の肩に感じながら、私は建物に向かって歩みはじめる。大学への通学用であったリュックサックはやはり通学用でしかなく、長旅の中でその役目を放棄しようとしていた。荷を納めて運ぶということと、持ち手に負担をなるべくかけないということを。


 今朝方、宿から町の散策に出る直前にとうとう背面のファスナーが不吉な音を立てて停止し、右にも左にも動かなくなったことを思い出し、私の顔面が怒りのパターンに変化していく。思わず舌打ち。どうしてそんなに意気地が無いんだこの野郎役目を果たせよ。一歩歩くごとに薄っぺらい肩紐がそう壮健でもない私の肩をぎゅうぎゅうみしみし圧迫するのを感じ、さらに怒りが増す。次からはなんとしても登山用か、あるいはそれに準じるものを用意すべきだ。金がなかろうとも。こんな不快な思いをしながら歩かなくてはならないとは。


 ああもうよいせ、と間の抜けたかけ声と共にリュックサックを揺すって背負い直す。右の肩に鈍く熱い痛みが走る。もう荷を背負いたくないと体の方が先に悲鳴をあげた。どこかで休憩でもしよう。どこで? あの建物とかどうだろうか。

 行き先が決まれば怒りは解けて消える。あと5分も歩けば、あの三角屋根の建物に行き着くだろう。中に入れずともいいのだ。どこかでこの岩のような荷物を一度下ろすことができれば。

 一歩一歩、幼子をあやすよりも優しく私は歩く。私をいたわるために。私の怒りを慰めるために。こんな田舎の穏やかな荒野に逃げ込んでなお怒らずにはいられない、私のたましいを哀れむために。なにがそんなにつらいの、わたし。


 建物の周りに広がる枯れ草の荒野は果てしなく、吹きすさぶ風は命のぬくもりを使い果たしたかのように乾ききっている。冷たい風が耳朶の中で喨々と啼きながら渦巻いて、私の脳に近い場所でどこにも逃げられずに漂っている。

 草も木も地面も風も、全てが乾き、全てが壊れる寸前であった。この世に生きて在る人間はよもや自分だけになってしまったのかと半ば本気で思うほどに。

 秋の風は冷たく荒んでおり、時折目も開けられない鋭さで吹き付けて、私の指先を苛んでいく。目も覚める冷たさ、厳しさに、慌ててポケットの中に指を避難させる。自分だけが荒れ果て続けやがては凍える未来が気にくわないとでも言いたげに、秋風が一層強く吹き付ける。そんなことをしても意味は無いのに。私の手はもうひび割れているのだから。

 

 建物を目の前にし、細部をまじまじと観察しても、やはり一番最初に抱いた感想は変わらなかった。異質。その一言に尽きる。

 そう感じるのは、木の色がむき出しの外壁のせいかもしれないし、人が住むにはあまりに小さすぎるせいかもしれない。それこそ休憩所と呼ぶのがふさわしいような小さな建物である。一体この建物はなんなのだろう。既に廃業して建物だけが置いて行かれた商店か、来る人も消え失せた休憩所か、はたまたがらんどうの一風変わった民家か。どれもありえそうで、そのくせどれにも当てはまらないように思える。だが、行く当てのない自堕落な旅行には丁度良い出会いだ。


 とにかく一度休もうと、くたびれたリュックサックをゆっくりと下ろすと、解放の喜びに肩と背中がはしゃぐ。遅れて脳に痛みが到達し、うう、と反射的に声が漏れる。どうやら思っていた以上に体に負担がかかっていたようだった。もう一度荷物を背負い直す気にはなれなかった。だが、目的の建物はもう目の前なのだ。ならば手で持って歩いてもそう体力を消費しないだろうと判断し、リュックサックを右手にぶら下げる。この際あの建物が何であろうとかまわない。軒先に座ってしばし休憩できればいいかと思っていたが、欲が出た。中に入って休みたい。

 そうとなれば話は早い。私は歩き通しで鉛を詰め込んだように重くなった足を引きずって、建物へと近づいた。


 秋と呼ぶにはいささか寒気の厳しい、しかし冬ほどの悪辣さはないこの時期に、二十いくつの人間が田舎道を歩いている様は異様であろうな、と、私は手にぶら下げたリュックサックをぶんぶんと前後に振りながら思う。

 大学生に良くある「自分探し」の旅などをしようと思ってこの土地を訪れたわけではない。何やらまとまった連休が暦の上で発生し、そして私は学生で、特段休みにやるべき事もなければ行くべき所もなく、ただ漫然とどこかに行きたいと願って旅行をしにきただけだった。体の空きやすい学生ならではの贅沢だろうなと思う。どこに行くわけでもなく、切羽詰まった用事もなければ目的もなく、ただ今いる場所を離れたいというだけで住処を放り出してしまうのは、社会に組み込まれた後では難しいことだろう。


 遡ること一ヶ月前、さてどこに行こうかと、旅行サイトと運賃とホテル料金と銀行口座残高とを比較しながら検討し、やがて行き先は北の大地の東部が良いだろうという結論に至った。だからいまここにいる。それだけのことだった。

 とはいえ、行き当たりばったり、予算都合で決めた旅であったので、全く目的などなかった。事前にあたったガイドブックの記事は、自然の豊かさを強調するものばかりだった。一般的に美しいとされる景色で感情を揺さぶられた記憶をほとんど持たない私は、さしたる刺激もないだろうといささか慢心しながら旅行を始めた。

 旅行先で感情をひどくかき乱されることほど苦しいことはないから、そういった意味では安心できるだろうと、そう踏んでいたというのに。

 私に浴びせられた洗礼は予想を遥かに上回り――というよりは、悪辣であったのだが――私を酷く狼狽えさせた。

 格安の飛行機で最寄りの空港に降り立った時の恐怖を、私はつい先ほどの事のように鮮明に思い出せる。思っていた以上に、私の精神だとか心だとか呼ばれる場所に刻み込まれてしまったらしい。


 初めて訪れる地の空気というのは、鮮明で素晴らしいものだと多くの旅行記などには記されているが、全てがそうだとは限らないと、私はその時実感した。

 素晴らしいものか。あの空気が素晴らしいものであってたまるか。

 飛行機から空港に入り、荷物を受け取って空港の外に一歩踏み出したときのあの感覚。いままで感じたことのない空虚。既にぬくもりを失って久しい、がらんどうになった生き物の死体の中に放り込まれたような、空疎で冷たい、だけれどもみっしりと密度の濃い空気が、私の鼻孔から体内に侵入し、肋骨の内側でわだかまって内臓を握りつぶしていくようだった。券売機で購入したバスの切符を握りしめて、背を丸めながら私はバスに乗り込んだ。耐えられなかった。

 ――なんて所だろう。

 空港から市街地を結ぶバスの中で、私の心は時化の日の海のように白波を立てながら荒れ狂っていた。

 人はいる。家もある。町もある。木々もあるし、道路もあるし、陽も空も風も土もある。なのにこのがらんどうの空気は何だ。乾いて凍えて囂々と吹きすさび、塗り込められた漆喰にも似た灰色の低い空に吸い込まれていくむなしい空気は何だ。

 気づけばバスの窓が鮮烈すぎるオレンジに染まっていた。四角い枠に囲まれた景色の中、広がる地平線の向こうに落ちる夕陽は皮肉なほどに燃えさかり、ただその光だけがそこに在った。むなしい空気全てを燃やして、今日の終わりを叫びながら、決してたどり着けない地平線の向こうに緩やかに沈んでいた。

 私はそうしてこの土地に迎え入れられ、こうして当てもなく観光という名の放浪を続けている。

 見たいモノなどないから、ただ歩き回って、出会ったモノを見ている。

 それが思ったよりも刺激的だと気づけただけでも、この地にやってきた意味があるのかもしれない。無理に意味を求めた結果、苦し紛れに見いだした架空の意味かもしれないが。


 田舎の町を当てもなく放浪――もとい観光を続けて3日目ともなれば、市街地の観光などとっくに終わっている。旅行の終わりまではまだ数日ある。このままでは暇を持て余すと予感した私は、鄙びた宿の主人に、このあたりに景色の良いところはないかと問うた。少し町から離れるけれど、という注意つきで返された答えがこの近辺だった。確かに景色は良い。見渡す限りの黄金の枯れ草の荒野は都会では目にすることができないものだ。そして、舗装の行き届かない、土煙を巻き上げて歩行者の視界を奪う田舎道も。

 何という地域で、どういった場所なのかはわからない。知らなくても良い。

 ぶら下げたリュックサックの重みを指の腹で感じながら、私の体はいよいよ建物に最接近する。

 三角屋根の建物の入口には、ご丁寧に、「引く」と書かれている。どうやら人を招き入れる意志はあるらしい。長く外を歩いたせいでかじかんだ指でノブをつかみ、勢いよく引き開けると、ふわりと暖かな空気が漏れ出してくる。どこか鉄に似た匂いのする暖気は凍えた鼻先をかすめ、私の体を柔らかく叩いて外へと逃げていった。

 そして、一泊遅れて、声が響く。


「おやまあ、珍しいねえ、こんなに若い人が」

 ひ、と喉が鳴る。まさか中に人がいようとは思いもしなかったのだ。恐怖に引き攣った私の顔を見て、建物の中にいた先客は、ほほ、と、気の抜けるような笑い声をあげた。

「驚かせたかねえ、悪かったね」

 先客は、ニット帽を被った小柄な老人だった。肋骨をたたき割らんばかりに騒ぐ心臓をなだめるために見渡した建物の中は、至って質素だった。

 壁にぴったりと寄り添うように据えられたベンチ。片隅に置かれた古びたストーブは、数十年を経たモノ特有の鈍い輝きを纏っている。壁には、煤けた額縁に入れられた時刻表が掛けられていた。発行年月日は今年のようだが、来る列車も行く列車も極端に少ないことが見て取れた。

 そして、建物の奥には、内装にそぐわない近代的な機械が一つだけ据えられている。良くある自動券売機だ。列車の切符を買うために、小銭をせこせこ投入する、あの機械である。あまりのミスマッチさに少し笑いが漏れた。まるで子供の夢の中のようだ。見知ったおうちの中に見たことのない扉が現れて、その向こうは魔法の国。そんな奇妙な可笑しさと拭いきれない現実感がどうどうと脳内に押し寄せる。相反する二つの感覚は私の神経を優しく撫でさすり、緊張をほぐしていく。


「ここ、駅ですか」

「そう、駅だよ。知らなかったかい」

老人は先ほどよりも軽快に笑った。何かを懐かしむような声だった。

「ここ、そんなに電車は来ないんですか」

 老人の座るベンチに同じように腰掛けて、私は問うてみる。どうせ元より予定のない旅なのだ。休憩がてらの寄り道くらいは許されよう。

 旅に出てから久方ぶりに他者と話すせいで、私の声は僅かに引き攣れていた。

「来ないね。昔はそれこそ、一時間に何本もここから汽車が出ていたよ。若いときはここで駅員をしていたんだ。でもここいらが寂れて本数も減ってね。昔は制服姿の学生さん達がたくさん行き来していたんだけれどねえ」

 遠い昔を懐かしむように、あるいは現在を憎むように、老人は穏やかに話す。膝の上にきちんと添えられた両の手は皺に覆われていた。指は太く、爪は厚かった。この手で、毎日何十人、何百人の人々から切符を受け取り、はさみを入れて、いまと変わらぬ穏やかな顔で返していたのだろう。そう思わせる手だった。

「良いところでしたか、ここ」

「良いところだったよ。近くに大きな工場があって、そこの工員さん達やその家族がたくさん住んでいてね。いまはもう無くなってしまったけれど、その当時は栄えていたんだよ。貨物列車も走っていたかな。でももう、なにも無いんだ」

 本当になにもなくなってね、と、老人は繰り返した。

「若い人が来てくれるなんて思わなかったなあ。ここはもうすぐ無くなるんだよ」

「無くなる・・・・・・、駅がですか」

「そう、もう乗る人も降りる人もいなくなってね。ここに駅を置いておく理由がなくなったんだ。理由がないものをただ置いておくわけにはいかないからね。使えるという理由がなければ、駅は無用の長物なんだ。来月にはここは線路だけになっているはずだよ」

 ニット帽の端をつまんでは離し、またつまんで、老人はここではないどこか遠くを見る目をする。

「もうこの駅があることを意識している人も、いないだろうね」

 いまは車でどこにでも行けるし、そもそも住んでいる人が本当に少なくなったから。

 その言葉に一つ頷いて、私は駅の中を見渡す。

 いつか、どこかに生きていた人達が、どこかへ行くために使っていた建物は、まだ僅かなぬくもりを宿しているようだった。

「おじいさんは、どうしてここに」

 私の問いに、老人はふっと目尻を緩める。細やかなしわが目元に現れ、老人の人の良さを言外に、だがしかし雄弁に物語った。

「懐かしくなってねえ。ここで働いていた時間も長かったものだから」

 でも残念だよ。こんなに寂れてしまった。

 最後にはこの駅には幽霊が出るなんて噂まで立って。


 老人の放った「幽霊」という言葉が、私の頭蓋の中でかまびすしくこだまする。

 幽霊。幽霊だって。冗談じゃあない、どういうことだ。

「あの、幽霊って、ここにですか」

「ああ、旅行者さんに言うことじゃなかったかなあ。本当に噂なんだけれどね。この駅に来れば、昔会いたかった人に会える、とかそういう噂さ。私はここに良く来るけれど、そんな人に会えたことはないから、根も葉もない噂なんだろうけれどねえ」

「それ、幽霊なんでしょうか」

「幽霊といえば幽霊じゃないかなあ。幽霊は、ほら、生きている人の前にしか現れないものだからね。かつての姿、かつての夢、かつての願望。そういったものを生きている人間が自ら見ているんだと思うよ。幽霊なんていうのは、人の祈りや思いがなければ過去の影にすぎないからね」

「ああ、幽霊を幽霊だと認識する心の裏側には、なくした者にもう一度会いたがる祈りが隠れていると。では、誰かの祈りが幽霊を生み出しているのかもしれませんね」

「きっとね、ここで幽霊を見たって言う人がいるのもわかるんだ。この駅は、迎えるよりも、送り出すことの方が多い駅だったから。こんな片田舎だからね、子供の頃は多少の不自由を飲み下して住めても、就職となると都会に行かざるを得なかったり、結婚で引っ越していったり。そんなことが多かったよ。あのプラットホーム――向こうにプラットホームがあるんだけれど、そこでいつも誰かが泣いていたよ。別れがたかったんだろうね」

 薄ぼんやりとした輪郭で、まるで生きている重みもない姿で駅の暗がりに佇む幽霊を、一体誰が一番最初に見たのだろうか。あの日別れたきり会えなかった旧友、あの列車に乗って遠くの町に行ってしまった子供達、夕焼けの向こうに吸い込まれるように消えていった列車とたいせつなひと。そういった光景の中に、どれほどの後悔があったのだろう。

 私がここで会うのならば、誰の幽霊なのだろう。

 目線を足下に落とし、一瞬考え込んでみたが、答えは出ない。私には祈るべき相手がいないし、私の事を祈ってくれる相手もいないだろうということだけがわかる。


 何故だか酷く泣きたくなって、無理に顔を上げて周りを見渡す。

 長いこと話し込んでいたつもりはなかったのだが、駅の中に差し込む光が溶け落ちたような橙色に変化していることに気づき、私はベンチに置いていたリュックサックを背負い直す。

 そろそろ帰らなくてはいけなかった。このままでは真っ暗な田舎道を歩き倒すことになる。

 だが、この駅から離れがたい思いもあった。

 蕩けた橙色に染め上げられた駅の中は、現実から隔離されているかのようで、正直に言ってしまえば居心地が良かったのだ。

 もしここからどこかに行けるのであれば、私はきっと切符を握りしめて列車に乗り込むだろう。

 行き着く先が全く見知らぬ土地であったとしても。

 だがそれは出来ない相談なのだ。私はこの社会に曲がりなりにも組み込まれていて、あと数ヶ月もすればいよいよ本格的に就職という通過儀礼を経て社会に適合しなくてはならなくなる。積み上げてきた二十数年の時間はその為にこそあるのだと信じる人間がいるほどに、その通過儀礼は重要なもののようだから、私が逃げてしまうことなどできない。大人になりなさい、と何度も両親から告げられた言葉がシナプスの狭間で揺れている。どうして。私は自分のいる場所も――帰る場所もまだ見つけていないのに。帰属する場所がわからないのに。

 ――私は逃げたかったんだなあ。

 何の目的もなく旅に出た、などと自分自身でも信じ込んでいたが、実際の所は私は逃げたがっていたのだと、今日ここに至ってようやく気づく。

 ――いまだって、逃げたいんだよなあ。

 もしこの世のどこかに、意識と無意識、モノとコトのはざまがあって、そこに落ち込むことができるのならば、私はすぐにでも荷物を放り出して駆け込むだろう。もうなにもせず、営まず、動かず、そこを帰る場所にしたい。ここにいると言いたい。

 夢想でしかない思考から苦悶と共に身を引き上げて、私は老人に問う。

 

「おじいさん、町に戻る電車があれば、それに乗って帰ろうかと思うんですが、いつ来ますか」

「ああ、その電車なら、この次来る電車の後だよ。私はそれに乗って往くから、もうすこし待っていると良い」

「この次・・・・・・」

 灰色のニット帽を被り直した老人が、ゆっくりと立ち上がる。背はそう高くもないが、背筋はぴんと伸びている。健康な老人そのままだった。

「この駅に幽霊は出ないけれど、本当は来ない列車は来るんだよ」

 ここで会ったのも、なにかの縁なのかねえ。

 そう言い、それではさようなら、と告げて、老人はプラットホームに続くガラス戸を押し開ける。

 慌ててその背を追う。いまあの老人は何を言った。本当は来ない列車? ならば一体どこから来て、どこに向かうと言うのだ。

「待って、待ってください、どこに」


 ガラス戸を押し開けると同時に歯と歯の隙間から漏れたため息のような音がして、私は反射的に身をすくませる。老人の背に食いつくようにしてまろびでたプラットホームは、燃えさかる夕陽に彩られてめろめろと輝いている。

 そして、全てが燃え上がる景色の中に、一点だけ垂らされたコールタールの様な真っ黒な影が、私の脳を左右同時に殴りつける。

「・・・・・・どこから、来たんです。この列車」

 それは、写真でしか見たことのないSLだった。黒く艶めく車体は夕陽の色に染まらず、石炭の色を保ち続けている。ぼう、と煙突から煙を吐き、さあ乗れとっとと乗れとせかし始めたSLに、老人は躊躇いなく乗り込んでしまう。

 待ってくれ。私も連れて行ってくれ。

 その一言が言えない。

 プラットホームの向こうには、すでに落葉した木々が立ち並び、私の苦悩に呼応するように身を捩りながら枝葉を天に向けて伸ばしていた。

「あなたはまだこちらに来てはいけないんだよ」

 老人の優しい声が、私の心臓をゆっくりと撫でて、やがて鼓動を怒りに変えていく。こめかみの血管に憤った怒りが熱を帯びて流れていくのがわかる。

「どうしてですか。その列車、どこに往くのか知りませんけれど、ここではないどこかでしょう。どうして乗ってはいけないんです」

「私はもう死にゆくだけだからねえ。どこに往こうとも、私に対して祈る人もいない。この駅と同じで」

「そんなの私だって同じです。私だって」

 老人の瞳に微笑みとも憐憫ともつかぬ色が浮かび、すぐにかき消える。

 濃霧の向こうに消える人影の様に。

「あなたの帰る先は、この列車の行き着く涯てではないんです」

 嘘だ嘘だ、私には何の価値もない。そこにあってもなくても同じようなものだ。この先人間を巧くやっていく気力もないんだ帰属する所もないんだ早く連れて行ってくれ頼むから。

 旅に出たのは、帰る場所を擬似的に見つけたかったからだ。逃げた後、それでも帰る場所があると実感したかったからだ。

 だけれども、いくら歩き回って自分の生活とかけ離れたモノを見ても、帰る場所を思い浮かべることはできなかった。人間は故郷を持つ生き物だ。なのに私に故郷と呼べるイメージはない。少なくとも、この骨と血と肉と皮の間には。吐き出す息と流れる涙の粒子には。

 帰る場所も寄る辺も上手くいく未来も、人として巧く自らを操作することも、何一つ、私にできることはない。

 ならばもういいじゃないか。

 思考が行動を呼び、行動が決意を生んだ。

「連れて行ってください、私も」

 老人はいよいよ哀れみを顔に浮かべ、それでも首を振る。

「駄目なんだよ、君はまだ」

 ――まだ、停止してはいけないんだよ。


 ――――――!!!

 精神だとか魂だとかといった言葉で表される、私の肉体と外界の隙間にみっしりと詰まっている何かが、ことばも持たない絶叫を発した。

 ぼう、と、また汽笛が鳴る。なぜ停止してはいけないの、と聞き返すのは憚られた。私がその答えを一生をかけてでも見つけなくてはならないというのは、脳ではなくどこか別の場所で理解した。

 私とSLとの間に、薄い薄い不可視の膜が張られていく。冷たい紅茶の中に無遠慮に落とすシロップのように、その膜はずるずると天から落ちてくる。私の足下でわだかまり、一瞬の後に伸びきって、私と向こう側とを完全に断絶してしまう。

 指先で引っ掻けば、すぐにでもやぶれそうな膜だった。だけれども、私の指は伸びなかった。ただ、微笑む老人を見つめていた。

「それでは、本当にさようなら」

 老人が灰色のニット帽を脱いで、私に向かって手を振る。私も呆然と手を振る。

 往ってしまうんだね。何もかも置いて、往ってしまうんだね。

 ゆっくりと振る手、その指先に、淡い光が宿っていた。全てが夢のようにかき消えて、汽笛の音も聞こえなくなった頃、私は一人、無人のプラットホームにうずくまる。どうしようもないほど目が熱く、唇から漏れる嗚咽は止まらなかった。

 私が帰るべき場所はどこだろう。私の故郷はどこにあるのだろう。

 人は故郷から離れることで、つまり故郷に対しての異邦人になることで、自身の故郷を初めて知る。ならば、私はまだどこにも行けていないということなのだろうか。

 夕陽の向こうから見慣れた列車がやってきて、私はそれに乗るべきなのだと知る。

 どこへ行こうか。

 どこへでも良いような気がする。

 

 それからどうやって宿まで帰り着いたのか、私は覚えていない。

 眼球の裏側に焼き付いた橙色の駅舎の記憶だけが、私があのとき老人に出会ったことを証明していた。

 宿の主人に尋ねたところ、確かにあの場所には三角屋根の駅舎があって、長いこと人々に利用されていたのだという。中でも頻繁に利用していたのは、かつて駅員であったニット帽を被った老人で、若い人に駅の事を覚えていてほしいと常々話していたが、つい先日亡くなったそうだった。

 ああ、往くべき場所に愛すべきものと向かったんだね。

 薄っぺらな宿の布団の中で、せめて安らいで眠れる姿勢を探しながら、私は老人の幽霊に――駅舎に焼き付いていた過去の影に向かって祈る。

 あなたの帰るべき場所がありますように。

 私の帰るべき場所が、どうか見つかりますように。

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