手垢のついた愛が呑みこめない

池華まどか

SS

わたしの知らない誰かに愛された記憶が、微熱のように残っている肌に触れるのが好きだった。この人は少し前まで誰かのものだったと指先から知る瞬間を、わたしは何よりも愛しいと感じていた。それは記憶を上書きしていくことへの優越感がもたらす感情なのか、愛していると囁きながらわたしを抱くこの男が、少し前には同じように誰かを抱いていたことが何だか滑稽に思えるからなのか。

わたし自身もさっぱり正体を掴めないけれど、とにかくわたしは“誰かの元カレ”という肩書きをもった男が好きだった。


選ぶのはいつだって、以前の彼女の影を纏う男。


だからいまわたしの目の前にいる男は、“誰かの元カレ”という意味では最高の男だった。ただこれまでの男と決定的に違うのは、誰かのではなく、わたしの元カレということ。ただ、それだけ。


「でもホント、久しぶりだよね。4年ぶりだっけ」


オフィスビルのエレベーターホールで再会してから、ずっと繰り返しているセリフを口にしながら、晴斗はジョッキを傾ける。

わたしは、そうだねって笑いながらシャンディガフを喉に流し込んだ。


「わたしも驚いたよ。いつこっちに帰ってきたの?」

「んー、正確に言うとまだ帰ってきたわけじゃないんだ。異動は来月。今日はこっちに出張の予定があったから、ついでに新しい部署の人たちに顔覚えてもらおうと思って、ちょっと本社に立ち寄っただけ」

「そうなんだ。引き継ぎとか大変でしょ」

「あー、もー、すげー大変。最近は休日出勤しないと追い付かないぐらい。でも早めに異動の内示出してくれたから、これでも余裕をもって出来てるんだけどね」


うちの会社は優しい方だからと晴斗は付け加えるけれど、4年前、広島への転勤を命じてわたしたちの仲を自然消滅させたのは、紛れもなくあなたの会社じゃない。

晴斗の転勤が決まった日、互いに勤める会社が同じビルに入っている現実を心から恨めしく思ったことなんて、目の前にいる男はきっと知らない。


「奈緒子はどうなの。仕事の方は」

「わたしは…大きなプロジェクトに関わらせてもらったり、あとは新人教育を任されてるぐらいかな」

「え、奈緒子が新人教育?外でコーヒー買うのも苦戦して、半泣きで会社とショップを往復してたあの奈緒子が?」

「ちょっと、もうっ!そんな昔の話はやめてってば…!」


テーブルの下で軽く足を蹴ってやったけれど、晴斗はケラケラ笑うだけだった。


「奈緒子も大人になったんだなぁ」


晴斗は目を細めて、噛み締めるように言葉をこぼす。でも大人になったのは、わたしだけじゃない。

4年の間に社会人としての処世術を積み重ね、三十路の境界線に立っているわたしたちは、互いに大人になりすぎたのだと思う。

こうして居酒屋で向き合っているというのに、久しぶりという言葉の先にあるものを巧妙に避けているのだから。


「あ、そうだ。明日って空いてる?」


食事が載っていたお皿はどれも空っぽで、テーブル上の風景が随分寂しくなってきた頃。ビールから焼酎に乗り換えた晴斗が、グラスの縁を指でなぞりながら首を傾けた。


「え、うん、まぁ…何もないけど」

「よっしゃ。じゃあ明日さ、新居探しでいくつか見て回るんだけど、一緒に来てくれない?」


予想していなかった誘いに、わたしの口からは間の抜けた声がこぼれ落ちる。

一体何を言い出すんだろうと、目の前の男をまじまじと見つめてしまうけれど、当の本人は何でもないことのように話を続ける。


「いやだって奈緒子、部屋見に行ったら、家具を置くイメージとか生活するイメージつけるの上手いだろ。そういうセンスは俺にないから、ちょっと頼みたいんだよ」


晴斗はヤドカリみたいな人だったから頻繁に引越しをして、そのたびに不動産屋さんと一緒に引っ張り回されていたけれど、この人は覚えているのだろうか。

その中には、2人で暮らすために見て回った部屋があったこと。

2人で笑い合いながら、何もない真っ白な部屋に新しい生活を描いていたことを。


「あ、もちろんタダでとは言わない。昼と夜のご飯は奢ります」

「…夜まで引っ張り回す気なんだ」

「明日の最終の新幹線で帰るから、それまで付き合ってよ。こっちは4年ぶりの東京で、独りぼっちなんですー」


付き合ってよ、なんて平坦な言葉にドキッとした自分が、何だかひどく哀れだった。学生じゃあるまいし、バカみたい。


「あー、もー、しょうがないなぁ」


乱れた心の内を覆い隠すように、勿体つけて応えた。

そんなわたしの心情なんて知らないまま、晴斗は柔らかく目を細めながら言う。やっぱり奈緒子は優しいな、って。

その言葉が持つ意味なんて、きっと辺りに転がっているお世辞と大して変わらないんだろうけれど、無意識に自分だけに向けられた特別な色を探している。



今夜の食事代は出すつもりでいたのに財布を出した手はやんわりと押し戻され、ごちそうさまとどういたしましてを交わしながら店を出た。

行き交う人と店先から漏れる光が混ざり合う道を歩き出せば、身も心も一瞬で風景に溶け込んでいってしまう。


「タクシー止めようか?」

「ううん、ここから歩いて帰れるから大丈夫。晴斗は今夜どうするの?」

「カプセルホテルか…、あれば漫喫かな。日帰り出張の予定だったから、宿泊費は自腹なんだよね」

「じゃあ、ウチに泊まったら?」


考えるより先に、言葉がするりとこぼれ落ちた。自分でもびっくりしたけれど、晴斗の方が顔中に驚きの色を散らして、目を丸くさせている。

家探しのお供を頼まれたときのわたしも、きっとこんな表情をしていたに違いない。


「えっと…奈緒子はそういうつもりじゃなくても、いまの彼氏に勘違いされるよ」

「大丈夫、わたしいま彼氏いないから。あー…晴斗の方が彼女に顔向けできなくなる?」

「ははっ、平気。俺もフリーなんで」


再会してから意図的に避けていた互いの恋愛の現在地をようやく明かすと、どちらともなく笑みがこぼれた。


「じゃあお言葉に甘えて、一晩お世話になろうかな」


そう言ってはにかむ晴斗の向こう側に、使い古された展開を期待しなかったと言えばウソになる。でも結局いまここにいるわたしは、晴斗にとっては過去で、その肌に残る記憶の幻影でしかない。

自宅までの道のりに佇むコンビニ2軒をするりと抜けたとき、わたしはその事実を否が応でも直視しなければいけなかった。

これまで、過去の女の残り香がわたしを惹き付けてやまなかったはずなのに、いまはその香りが“ここにいるわたし”の存在を掻き消していく。手を伸ばせば簡単に触れられる距離にいるのに、上書きできない“4年前の奈緒子”を纏うこの男が、いまはどうしようもなく遠い。


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手垢のついた愛が呑みこめない 池華まどか @ike87Madoka

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