第18話 20×0年。ニ月十九日。スーパー・スプレッダー。
「国内での治験は無理でしょうね」
黒木の問いに、藤田はあっさりと答える。
だが藤田は特に悔しがっている様子はない。むしろ隣の中島の方が膝の上に置いた手を固く握りしめている。
「何か秘策でもあるのかね?」
黒木が、もったいぶらずにさっさと言えとばかりにテーブルの上を指で叩くと、藤田はまるで悪役のように、ニヤリと口の端を上げる。
「実は、武国からアティオズの治験を行いたいという要望がきており、既に承諾しています」
「そんなの聞いてないですよ」
驚いたように中島が隣の藤田を見る。
藤田は肩をすくめて飄々とした口調で言った。
「そりゃ、言ってないからな」
「だからチームの解散を止めたんですね」
中島が主任のアティオズ開発のチームはこの春で解散が決まっていた。中島も新しいチームに移ると言われていたが、具体的な名前は出てこなかった。
これはいよいよ、研究チームではなくて事務方か営業に左遷だろうかと戦々恐々としていたが、まだやるべき事が残っているらしい。
「武国での患者数は、発表されているよりもはるかに多いと推察されます。もちろん封鎖されている湖西市の患者が一番多いでしょうが、それだけの症状の段階に応じた患者のデータが取れれば、日本人の治療にも役立つでしょう」
藤田は中島らが集めたデータを鞄から取り出した。このデータは一部だけしか作っておらず、この場では見せるだけの資料だ。
「湖西市では新型インフルエンザを発病した疑いのある者は、アパートごと隔離しています。ですが隔離して他の住民と接触をしていないにも関わらず、アパートの違う階に住む住民の感染が認められる事から、空気感染をする可能性があります。もし空気感染をするならば、換気を十分に行えないクルーズ内部であれほどの患者が現れたという事にも納得はできます」
藤田の言葉に呼応するように、窓の外から汽笛の音が聞こえた。
汽笛を鳴らすというのは、船が非常時だということをアピールするものだが、横浜港の場合は博物館船として係留してある氷川丸が毎日正午の汽笛を鳴らす。
戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、国の重要文化財でもある氷川丸は横浜港のシンボルだ。
「もしくは腸チフスのメアリーがいた可能性もありますがねぇ」
腸チフスのメアリーと呼ばれるメアリー・マローンは、世界で初めて臨床報告されたチフス菌の健康保菌者だ。メアリー自身に感染の症状は一切なかった為、接触した多くの人に腸チフスを感染させてしまった。
それまでは腸チフスのような毒素の強い細菌に感染して症状の出ないまま普通に生活を送る事のできる患者がいるとは考えられていなかった。だが死後の病理解剖によるとメアリーの胆のうに、腸チフス菌の感染巣があったことが判明した。
便に混じって排出されつづけたチフス菌は、目に見えないもののメアリーの手指などに付着しており、本人に自覚がなかったために手洗いを油断した際に食事に混じり、周囲の人間に感染したのだと考えられている。
SARSの時にも同じように感染源となった患者がいた。
アメリカ疾病予防管理センターの調査によると、シンガポールの事例で一人の患者から172例もの感染が広がっている。
彼らのように10人以上への感染拡大の感染源となった患者は、スーパー・スプレッダーと呼ばれる。
おそらくクルーズ船での感染の広がりは、空気感染かスーパー・スプレッダーの存在か、あるいはその両方の原因が考えられるだろう。
「どちらにしても詳しい症例は武国が隠蔽するでしょう。感染が世界中に広がりつつある今、国際社会の非難をかわそうと必死ですからね。ただ治験となると別です。そこには詳しいデータが求められ、治験を行うルートが既にできています。知っていますか、知事? 人権意識の低い武国は、今やメガファーマの実験場と呼ばれているんです」
ファティマの聖母 彩戸ゆめ @ayayume
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