第17話 20×0年。ニ月十九日。医務技監。

 医務技監とは、日本における国家公務員の官職および役職の一つで、厚生労働省に所属し、定員は一名。事務次官級の役職で、医師の資格を持つ医系技官が就任する。


 保健医療分野の重要施策を一元的に推進するための統括的役割として、2007年に創設された。


「今の医務技監は誰だったかね」


 黒木は神奈川県知事として、厚生労働省の事務次官の名前は知っているが、保健医療分野の重要施策を一元的に推進するための統括的役割である医務技監の名前は知らなかった。


 黒木の質問に、望月は最新版の職員録を本棚から取り出した。深緑の表紙の職員録には、中央官庁・独立行政法人・国立大学法人・大学共同利用機関法人・特殊法人等の名簿が載っていてずっしりと重い。


「田中康之氏ですね。慶應義塾大学医学部卒業後、厚生省に入省しています。その後、世界保健機関派遣を経て、厚生労働省保険局医療課長、厚生労働省保険局長を務めた後、厚生労働省医務技監に就任されています」

「厚労省の生え抜きか」


 黒木自身は芦屋の裕福な家庭に生まれ、灘校から早稲田の政治経済学部政治学科を卒業した。その後、新聞記者として活躍し、政治家へ転身した。


 新聞記者だった頃は社会の様々な問題に取り組み、その時の経験が今になって非常に役立っていると自負している。


 だが全員ではないのだが、官庁から政治家へ転身した知事の中には、どうも頭が固いというか融通が利かない人がいる。そういった人は、新しい知識や技術に対して、アレルギーに近い反応を示す。常に慣例を意識し、そこからはずれるのを極端に嫌うのだ。


 おそらく田中医務技監もそういったタイプの人間なのだろう。


「アティオズがこの新型肺炎に効くどうかはともかくとして、インフルエンザに有効なのは明らかだ。耐性菌が問題になりつつある今、抗インフルエンザ治療薬としての発売を認めないのは腑に落ちんな」


 黒木の率直な意見に、藤田は太い指で鼻をかいた。


「まあ、あちらさんの気持ちも分からないではないんですけどね。サリドマイド薬害事件をご存知ですか?」

「もちろん知っている」

「睡眠薬や神経性胃炎の薬として妊婦にも調剤されたサリドマイドの薬害で、胎児の奇形が現れました。この他にも色々な薬害はありますけど、薬害の被害患者の外見的なインパクトから、まあ特に我々の年代には特に有名な薬害でしょう。それもあって、胎児の奇形には殊更に過敏に反応するようですな」


 サリドマイドの薬害は特に四肢に対して顕著に表れる。身体的に障害がある人の社会参画を力強く訴えたドキュメンタリー映画の主役を務めた患者は、両腕がない状態で生まれ右目の視力もほとんどなかった。


 日本における被害者は309人。全世界で約3900人。約30%が死産だったとされているので、総数はおよそ5800人とされている。


「ですがその後、サリドマイドのハンセン病や多発性骨髄腫、つまり骨髄がんに対しての効果が認められて、薬剤管理と妊婦及び妊娠回避の徹底を定めたサリドマイド製剤安全管理手順を守っての使用が許可されました。といってもこれは海外で効果があるってことで個人輸入が増えて問題になったから制定したもので、厚生労働省としても本音では許可したくはなかったんじゃないかと思いますねぇ」

「では新型肺炎に対しての治験も許可されない可能性が高いというわけかね」


 薬害というものに対して慎重になるであろう厚生労働省の許可を得るのはかなり難しいだろうと予想できる。


 だが黒木はこの新型肺炎がクルーズ船の内部だけで収まるとは思えなかった。


 春節の武国民の大移動によって、既にウイルスは全世界にばらまかれている。


 このアティオズが特効薬となりうる可能性を秘めているのであれば、何としても厚生労働省に認めさせなくてはならない。


 黒木はそう、決意を新たにした。



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