第16話 20×0年。ニ月十九日。抵抗勢力。

巨大製薬会社メガファーマか」


 現在日本で販売されている抗インフルエンザ治療薬は、スイスとイギリスの巨大製薬会社、そして日本の製薬会社二社の開発した薬となる。


 日本の製薬会社はメガファーマと呼ばれる規模ではないものの、国内の製薬メーカー五社の内に入る会社だ。


 秘書の望月はおそらくそこからの圧力がかかって販売できなかったのだろうと推測していた。黒木もそれに同意している。


 国内の製薬会社だけならばともかく、メガファーマの資金力は莫大で、藤田化学のような小さな会社が太刀打ちできる相手ではない。


「現在、国内で流通している抗インフルエンザ治療薬は、こちらの四種類となっております」


 黒木の言葉を受け流した中島は、そのまま何事もなかったかのように説明を続ける。

 黒木もまたそれに言及はしなかった。


「この三種類は、一般にノイラミニダーゼ阻害薬と呼ばれています。インフルエンザウイルス表面にあるノイラミニダーゼという酵素は、複製されたウイルスの感染細胞からの遊離や、ウイルスが気道、つまり呼吸のための空気の通路の上皮細胞に接近するためにも必要だと知られています。このノイラミニダーゼにアプローチすることによって、ウイルスの増殖を抑えています。しかし先ほども申し上げたように、ノイラミニダーゼ阻害薬はウイルスが出て行くことを阻害するのを目的としておりますので、投与時期が遅いと回復させるどころか死期を早める恐れがあります。しかしパンデミック予防の観点からは、個を犠牲にしても、大流行を防ぐことができる点が注目され開発が行われました」

「なんだと、ではこの薬はインフルエンザに罹った人ではなく、他人を感染させない為の薬なのか」


 ウイルスが外へ排出するのを防ぐという事は、罹った本人の体内ではウイルスが増殖していっているという事になってしまう。


 中島の言う薬は黒木にも聞き覚えのあるよく知られた薬だ。一つは十代に投与すると異常行動を起こす可能性があるので投薬を禁止したと話題になっていたが、今はどうなっているのだろう。


「いえ。感染初期であれば有効です。発症から48時間以内に投与すれば、患者の体内で細胞から細胞へとウイルスが増殖するのを抑えられます。ただそれ以降の投与ですと、個体治癒効果はほとんどありません」


 中島は黒木の誤解に気がついて、さりげなく説明を加えた。


 製薬会社の研究者となると、研究一筋でそういった心の機微に詳しい者は多くない。

 藤田は、中島のこうした心配りのできる所も気にいって、研究チームのリーダーに抜擢したのだ。


「そしてこちらの新薬は、ノイラミニダーゼではなく、インフルエンザウイルス特有の酵素であるキャップ依存性エンドヌクレアーゼに作用します。それによってRNAの複製を阻害します」

「アティオズと同じ作用ということかね?」


 その薬の名前も黒木は知っている。一回だけ飲めばインフルエンザが治ると、年末辺りに話題になった薬だ。


「いえ。ウイルスが人の細胞の中に入り、RNAを使って複製するのを阻害するという点では同じですが、作用機序が異なります。この新薬はRNAを使って複製されたウイルスがこれ以上複製できないようにする薬です。つまり複製の際にエラーを起こして、それ以上ウイルスが増えないようにします。ですからウイルスの数自体は増えるし、複製を起こす際に異なるエラーを起こして耐性菌が現れるという欠点があるのです」


 そこで中島は資料の図を黒木に見せる。


 そこにはそれぞれの抗インフルエンザ治療薬がどのように作用するかが図解してあって、素人の黒木にも分かりやすい。


 この図は、図解した資料を分かりやすく作るのが得意な松山紗季が作ったものだ。


「しかし、このように、アティオズは新薬より更に手前の段階でウイルスが増殖するのを遮断します。ウイルス自体が複写されないので、理論上、耐性菌も現れません」

「説明を聞けば聞くほど画期的な薬だな」


 黒木はそう感嘆する。


 だがなぜ新薬の流通は許可されてアティオズは許可されなかったのだろう。


 新薬を発売しているのは、国内大手の製薬会社とはいえ、メガファーマの傘下ではない。


 もしアティオズの販売に対してメガファーマが圧力をかけているのだとすれば、この新薬に対しても圧力をかけているのではないだろうか。


 その疑問には藤田が答える。


「新薬の発売時にはもう物質特許が切れていたんですよ。ですからまあ、そちらからの邪魔は入らなかったんでしょう」


 藤田は、言外にアティオズの時にはメガファーマからの邪魔が入ったのだと含みを持たせる。だがアティオズが今もなお世に出せないのは、それだけが原因ではない。


「では今ならば発売できるんじゃないのかね? どうしてそうしないんだ」

「知事。しないんじゃなくて、できないんですよ」

「なぜだ?」

「アティオズの販売に関して、厚生労働省の医務技監から猛烈な反対を受けてるんです」


 藤田は苦々しい顔で手に取った資料を太い指ではじいた。



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