いつもの街の見知らぬ路地で
野森ちえこ
心はきまってる
空から地面から、ジリジリと太陽の熱に焼かれながら、ぼくはよく知っている街の見知らぬ路地をテクテクと歩いていた。
まだ朝の八時だというのに、太陽から向けられる熱視線は情熱的すぎて閉口するしかない。身体中の水分を奪われて、カラッカラのミイラになってしまいそうだ。
* * *
2020年。世界中に広がった新型肺炎ウイルスのせいで、イベントはことごとく中止になり、1964年大会以来だという東京オリンピックも延期になった。
おかげで日本全国大騒ぎだったけれど、オリンピックにもイベントごとにもたいして興味がなかったぼくは、特にショックを受けることもなく、ひとつの情報として理解しただけだった。
ただ、今こそ心をひとつにしてこの未曾有の危機を乗り越えよう――という周囲の空気には、正直まいってしまった。
いや、わかる。ウイルスを拡散させないため、感染者を増やさないために、ひとりひとりが注意しなければいけないこと、がまんしなければいけないことがあるのは当然だ。それを否定するつもりはない。ぼくだって、必要最低限の用事以外はちゃんと部屋にひきこもっていた。まあ、もともとインドア派のぼくはまったく苦にならなかったのだけど。
でも、それはべつに『ひとつ』にならなくてもいいのではないか――と、そう思ってしまうのだ。単純に、ひとりひとりが自覚を持てばすむ話だろうと。
一致団結とか、心をひとつにとか、プラスの意味でつかう人が多いのだろうけど、ぼくはもともとそういった熱いノリが苦手なのだ。
みんながおなじ方向を見ることこそ最良とされ、ことなる意見をゆるさない。そういう空気が、ぼくはとても怖い。いや、ちがうな。本来それはとても危険なことのはずなのに、まったく『異常だと思っていない』人たちが怖いのだ。
たとえばそれが破滅につながる道だとしても、とり返しがつかなくなるまで誰も気づかない。たとえ、ひとりふたり気がついて声をあげたとしても、異分子としてはじかれるだけ。
そんな『圧力』を感じてしまって、まわりが熱くなればなるほど冷めてしまう。ぼくは子どものころからそんなふうだったから、いつも集団から浮いていたような気がする。いや、むしろはじかれるまえに、自分から一歩ひいていたといったほうがいいかもしれない。
ぼくはただ、自分の頭で考えることを放棄したくないだけなのだけど、それが周囲とは馴染まないらしい。だからぼくは、たいていひとりで輪の外にいた。無理してなかにはいろうとも思わない。社会人になってからもそれは変わらなかった。
そうして迎えた2020年。社員一同心をひとつにしてこの難局を乗りきりましょうと燃えていた、ワンマン社長率いるぼくの勤務先は、夏を目前にして倒産の憂き目を見た。
熱意がなんだかおかしな方向に進みはじめたころ、それはどうかといちおう声をあげてみたものの、まばたきするまもなく係長にはたき落とされ塵と消えた。その時点で見切りをつけるべきだったのかもしれない。あるいはもっと強く声をあげつづけるべきだったのかもしれない。
でもぼくは、そのどちらもえらばなかった。ただ、なりゆきを見ていただけだ。沈むとわかっている船に、結局最後まで乗っていたわけだ。どういうつもりだったのか、自分でもよくわからない。単に行動するのが面倒くさかったのかもしれない。
いずれにしろ、崩壊に突き進んだ会社はとまることも逆転することもなく順当に崩壊し、ウイルス騒動もすこしずつ収束に向かいはじめるなか、ぼくは自由の身になった。つまりは失業してしまったわけだが、結婚はしていないし、恋人もいない。数か月働かなくても暮らしていける程度の貯金があって、失業保険だって出る。これを自由といわないでなにを自由という。
きっと、そんな解放感のせいだろう。
基本インドアなぼくが、この夏は毎日のようにちいさな冒険に出かけていた。
* * *
きっかけは猫だった。正確には、逃げた猫を探していた子どもだった。
会社がなくなった夏のはじまり。
あれはたしか、雨あがりの週末だった。
午後、食材の買いだしに行く途中、泣きそう――というか、ほとんど泣きながら誰かの名前を呼ぶ男の子に出くわした。小学校二年生か三年生か。最初は迷子かと思ったのだけど、よくよく話を聞いてみれば迷子になったのはペットの猫だという。
行きがかり上ほうっておくこともできず、横道、路地裏、ふだんは通らないような場所を、ぼくはその子とかけずりまわることになった。
しかし、どうやら猫は自力で家に戻ったらしく、男の子のキッズスマホに親から連絡がはいって一件落着となった。徒労といえば徒労におわったわけだが、これは徒労でよかった案件だろう。男の子にも笑顔が戻ってめでたしめでたしである。
そうして文字通り飛ぶように帰っていった男の子を見送り、裏通りから表通りに出る途中、ぼくはそれをみつけた。
太陽を映してきらきらと輝く水たまり。
めずらしくもない、ほんの数時間まえまで降っていた雨が道にたまっただけ。それだけだ。それだけなのに、どうしてだろう。
その一瞬、ぼくの目には、ただの水たまりが魔法の泉のように見えたのである。七色に輝く、なんでも願いを叶えてくれそうな、魔法の泉に。
……もうすぐ三十になろうという男が考えることではないと思う。自分でも気持ち悪い。たぶん、光のあたり具合とか、ぼくが見た角度とか、そういうちょっとしたことなのだと思う。けれど、どう理屈をつけようと、ほんとうにそう見えてしまったのだからしかたない。それに――
七色に輝く、魔法の泉。
それを目にしたとき、今までの人生でいつのまにかぼくにこびりついていたなにかが、パラぽろとはがれ落ちていったような気がするのだ。
この街で暮らすようになって、かれこれ十年以上になる。だが通勤にしろ買いものにしろ、通る道はいつもきまっていて、じつは知らない道のほうが多いのだということにも、このときはじめて気がついた。そして、思い出した。
ふだん暮らしている街でも、一本わき道にはいるだけで冒険になる。
子どものころは、そんなこと言葉にするまでもない、あたりまえの感覚として知っていた。より道、道草、そういわれるものはすべて『冒険』になるのだということを。
* * *
おもに朝、たまに夕方。ぼくはふらりと冒険散歩に出かけるようになった。知らない店、見たことのない花、太陽にあぶられながら歩く道には毎回なにかしら発見があって、そのたびわくわくしている自分が新鮮だった。
もちろん、毎日冒険ばかりしているわけじゃない。並行して職探しもしている。わりと急いでいる。急ぐ理由ができた。
たとえば、無職の三十男に交際を申しこまれたとしたら、女性はどう思うだろうか。真剣に受けとる気にはならないのではないだろうか。
つまり、そういうことだ。
好きな人ができたのだ。
* * *
彼女との出会いも、なかなか衝撃的だった。
ある朝の冒険散歩中、頭上から聞こえた『あっ』という女性の声にうえを向いたら、パサリと顔面になにかが落ちてきた。反射的に手にとったそれは、なんとブラジャーだった。水色のかわいらしいデザインだった。
三階建てアパートの、二階のベランダから身を乗り出すようにぼくを見た彼女は、言葉にならない悲鳴のような声をあげて、ものすごい勢いで部屋にひっこんだ。
それからおよそ数十秒。返しにいくべきか、ここに置いて立ち去るべきか。どうしたものか、判断に迷ってブラジャー片手に立ちつくしていれば、それはまあ、かんちがいもされるだろう。通りすがりのおばあちゃんにあやうく通報されるところだった。
彼女が下におりてきたことで、どうにか誤解はとけた――はずなのだが、おばあちゃんのぼくを見る目は最後まで変質者に向けるそれだった。なにも悪いことはしていないのに。理不尽である。
なんにせよ、彼女も恥ずかしかったろうが、ぼくもひたすら気まずくて、その日は挨拶もそこそこにそそくさと別れた。
だがその数日後、やはり冒険散歩中にみつけた個人経営のちいさなパン屋で、ぼくは彼女と再会したのである。
お気にいりのパン屋がおなじだという共通点もあって、何度か顔をあわせるうちに自然と立ち話をするようになり、やがてパン屋のとなりにあるカフェで一緒にコーヒーを飲むくらいには仲よくなった。
打ちとけるとよく笑う、ほがらかな彼女はぼくの二歳下で、美容師として働いているという。一緒にいるのが心地よくて、もっと近づきたいと思うようになるまでに、さほど時間はかからなかった。
だから先日、再就職できたらデートを申しこんでもいいかと思いきってたずねてみた。
彼女はパチパチとたれ気味の目をまたたかせて、それからうれしそうにうなずいてくれた。
求職活動に力がはいるのも当然だろう。
* * *
世界中がウイルスに振りまわされるなかスタートした2020年。
ぼくは夏を目前に仕事を失い、街を冒険し、好きな人をみつけた。
地上のことなどおかまいなしに、太陽は今日もさんさんと空に君臨している。
もうすぐ八月もおわるというのが信じられないようなギラギラ顔に見おろされながら、ぼくはよく知っている街の見知らぬ路地をテクテクと歩く。朝の冒険散歩。右と左のわかれ道。さて、ここからまたどちらに行こう。
今日は午後から一社、面接がある。
太陽が秋のすまし顔に変わるまえに、どうにか仕事をきめて彼女をデートに誘いたい。
とはいえ、あせっておかしな会社にはいってしまっては本末転倒である。そのへんは気をつけないといけない。大丈夫。多少時間はかかっても、思うようにいかなくても、ぼくはぼく自身の頭で考えることをやめない。
なにより、応援してくれる彼女に恥じない人間でいたい。
この先どんな道をえらんでも、ぼくの心はもうきまっている。
(おわり)
いつもの街の見知らぬ路地で 野森ちえこ @nono_chie
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