私は花粉症

かどの かゆた

花粉症

 ある朝、ベッドの上で、私はポロポロと涙を零しておりました。私の手の甲へ、透明なビーズのようにして落ちているそれを、私は眺めます。下を向いたせいか、鼻水まで垂れてきました。きっと私の顔は今、泣きじゃくった幼い子どものように見えるでしょう。

 しかし、私は知っていたのです。何故私がこんなにも泣いているのか、その理由は明白でした。


 花粉症です。


 私は今日、うっかり窓を開けたまま寝てしまっていました。外からは、人が活動する朝の音がして、私はそれに気がついて、目が覚めたのです。そして今、私は泣いています。


 窓を閉めなくてはなりません。換気をしすぎました。目に見えないだけで、きっと部屋には花粉が入っているに違いないのです。


 私は窓を閉め、ベッドから起き上がり、棚から薬を取り出しました。市販の薬です。私は花粉症ですが、医者にかかったことはありません。病院に行く道中で、きっと私は酷く花粉にやられてしまうので、恐ろしくて行くことが出来ないのです。

ペットボトルのミネラルウォーターをマグカップに注ぎます。そうしてゆっくりと錠剤を飲み込んだ時、私はふと、昔のことを思い出しました。それは、私に花粉症というものを理解させた友人のことでした。


 その時も、私は飲み物を飲んでいたと思います。春の陽気で喉が渇いた私は、スポーツドリンクを、今では考えられない勢いで飲み込んでいたのです。そしてふと横を見て、驚きました。隣に居る友人が、突然涙を流し始めたのを見たからです。


「君、どうしたんだい? 高校生にもなってそんなに泣くなんて、余程の事があった

に違いない。どうだね、僕に相談してみるというのは。必ず力になろうじゃないか」


 私は友人へハンカチを差し出し、そう言いました。その頃の私は自信に満ちており(思い上がっていた、とも言えますが)助けを請われれば自分が何とか出来ると信じ切っていたのです。最早その自負と正義感は、教室の隅の方へ忘れて、未だに取りに行かないままですが。


 とにかく私は友人を心配したのですが、それに対し友人は、涙を流しながら私に笑顔を見せたのです。


「知らないのかい? これは、花粉症と言うんだよ」


 彼は花粉症について、私に幾つかの説明をしました。花粉症の知識が無いわけではありませんでしたが、うちの家族には誰も花粉症の人間はいませんでした。私はこれまでの人生で酷い花粉症を目の当たりにしたことがなかったのです。


「君は健康で羨ましい限りだよ」


 赤くなった鼻をすんと鳴らして、彼は僕を心底羨ましそうに見ました。その時の彼の顔を、私は今でもよく覚えています。彼は今、どうしているのでしょうか。最後に連絡がついた時は、確か名の知れた企業に入って順風満帆だと言っていたように記憶していますが、果たしてどうでしょうか。


 ゴトリ。


 テーブルに置かれていた瓶が床に落ちて、その音が私を現実に引き戻しました。瓶には『ビタミンD』の文字。花粉症に良いと聞いて買ったものです。薬といい、昨今のネットショッピングはとても便利です。


 それにしても、何故この瓶は落ちたのでしょうか。冷静に手の感覚を確かめると、それは私が手で振り払ったからだと気付きました。花粉症は頭がぼーっとするとも聞きます。きっとそのせいです。

 私は瓶を拾い上げました。しかし、滑ってもう一度瓶を床へ落としてしまいます。


 ゴン!


 さっきよりも鈍い音が部屋に響きました。花粉症とは関係ない話ですが、私は大きい音には敏感なのです。あぁ、恐ろしい。私の耳元で、昔良く聞いていた、あの大きな音が響いたような気がしました。


 バン!


 それは、上司が机を拳で殴る音でした。この音の後には決まって「お前はどうしてそうなんだ」という言葉が続きます。私は毎日それがたまらなく恐ろしかったのでした。大きな音は、恐ろしいのです。いえ、これはもう過ぎた話です。しかし、私の心は大きな音が恐ろしいままです。


「俺の鼻の悪いのは、お前のせいだ」


 春になると、上司は決まって私にこう言いました。


「お前が仕事を失敗するから、鼻水が止まらない」


 高校生の頃、友人に花粉症について理解させられた私は、その上司の症状が花粉症であることを知っていましたが、反論をすれば説教されることは目に見えていたので、黙っていました。

 そもそも上司だって自分が花粉症であることを知らない訳がありません。単に私を責めるきっかけが欲しかったのでしょう。


「申し訳ありません」


 と私が言うと


「つまらない男だなお前は」


 と上司は私を睨み、汚い音を立てて鼻をかみました。

 考えてみれば、私が辞表を出した時も、上司は鼻がむず痒そうにしていました。私は確かに無能でしたから、きっと彼は私の辞表よりも、自分の鼻の一大事の方が大切なように感じたのでしょう。辞表もすんなりと受け入れられて、上司はつぶやきました。。


「根性なしめ」


 ガシャン!


 私は、折角拾い上げたはずの瓶を床に叩きつけていました。瓶は粉々になって、足元はガラス片だらけです。

 こんなこと、思い出すんじゃありませんでした。頭がかぁっと熱くなって、熱があるようです。いや、本当に熱があるのかもしれません。花粉症には熱が出る場合もあるのですから。


 会社を辞めてすぐ、私は花粉症になったのです。外に居ると、涙が勝手に出て、止まらなくなったのです。頭がぼーっとして、体がだるくて、もやもやして、これは全て花粉症のせいです。


 今は貯金を切り崩して、ネットショッピングで暮らしています。宅配屋から荷物を受け取る時には、何重にもマスクをしてドアを開けるのです。こんな生活を、随分長いこと続けてしまっています。


 そういえば昨日、私の両親も花粉症らしいことを知りました。電話が来たのです。父も母も泣いていて、鼻声でした。まさに花粉症の症状でした。


「父さんも母さんも、花粉症なんだね。そういう時はビタミンDを取ると良いんだよ」


 そう教えると、二人は益々泣きました。

 そうです。私はその電話を切って、やけになって、窓を開けたのです。このボロマンションの五階から飛び降りれば、無事では済まないことくらい、誰にでも分かることでした。しかしどうしても踏ん切りがつかずに、私はそのまま寝てしまったのです。


 私はもう一度、閉じられた窓の方を見ました。馬鹿なことをしました。窓を開けてしまっては、こうして涙が出ることは確実のはずだというのに。もう二度と、ここを開ける勇気は出ないでしょう。


 残念ながら、私は花粉症なのです。外には花粉が溢れているのです。私の体は花粉を拒んだのです。私の肉体は紛れもなく欠陥品でした。皆が受け入れられるものに、私だけが過剰に反応しているのです。

 春夏秋冬存在するこの花粉は、一体なんの花粉なのでしょうか。


 私はガラス片が足に刺さるのも気にせず、その場にへたり込みました。窓からは春の陽射しが厭味ったらしく差し込んできます。


「もう、なにもかにも花粉症のせいだ」


 涙で滲んだ明るさの中、私は一人、呟きました。

     

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私は花粉症 かどの かゆた @kudamonogayu01

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