男装の美術史
木谷日向子
第1話
漫画やアニメには男装ヒロインは数多いますが、日本美術史で研究はされているのかと考え、上村松園という近代の美人画家の描いた、義経の愛人・静を中心に比較研究しました。
美術史から漫画までまとめ、女性が男装して舞うことの意義を示した形に仕上がりました。
拙い論文ですが、美術史普及、ジェンダー研究に繋がればと思い、懸命に書きました。
読んだ方に、美術史に興味を持っていただけるきっかけとなれば幸いです。
序章 〈上村松園能楽画を研究することの目的〉
はじめに
私が上村松園の存在を知ったのは、中高時代に好んで読んでいた小説家、宮尾登美子の著作である「序の舞」(中公文庫、1985年)を読んだことがきっかけであった。松園をモデルとした津也(松園の本名津禰をもじったもの)というヒロインが主人公で、その激しい人生と、画業一筋に生きる姿勢に圧倒され、モデルとなった女性画家である松園自身の絵画にも興味を抱いた。そして実際に目にした《焔》【図版一】をはじめとする芸能を題材とした松園の美人画に惹かれ、研究してみたいと考えた。
本論文では、松園の画業の中で、重要な題材であった能楽との関係をはじめに置きながら、能の最小限の身振りに最大限の感情を込める特性から学んだと思われる《静》【図版二】を他の能を描いた絵画と比較しながら、松園ならではの「舞」の表現に注目して執筆をしていきたいと考えている。
そして、今まで先行研究がほとんど見られなかった、松園が描いた《静》をはじめとする白拍子の表現について書きたいと考える。《男舞》【図版三】や松園が描いた他の白拍子のディスクリプションや比較から分かったこと、他の画家が描いた静御前や白拍子を描いた絵画と表現の比較を行いながら、男装する女性と舞う女性の絵画について考察し、男装している白拍子を描いた松園が男装させることで生み出したかった女性らしさが何であったか、についてを論点の帰結とすることを目的としたい。
第一章〈上村松園と芸能〉
第一節 女性として、画家として生きた松園
松園を中心に、息子である松篁、そして淳之の他、松園にゆかりのある人々の随筆を収録した「青帛の仙女」(同朋舎出版、1996年)の中で、新村出氏は松園についてこう語っている。
日本画壇の最高峰に位し、芸術院の会員であったと共に、とりわけ京都の学芸界にあっては、文化院の一員として、われらが平素景仰し来たった上村松園女史を亡しなったことは、殊にかけがえのない女流画人として、痛惜この上なかった。文化院の一大損失、美人画界の無比な損失、今さら申す要もない。この小山居にも二十年前に一度見えたことがある。今度その訃音に接するや否や取り出して床の間に飾りつけた女史が大作をうつした二枚の大写真を、まだ片付けずにおいた昨今では、朝な夕なに、不意にそれをべっけんし、時に注目し、感嘆と景仰とに打たれざるを得ない。
また、同じく「青帛の仙女」の中で、源豊宗氏は松園についてこう語っている。
松園ほど徹底した美人画家はまれである。ほとんど風景も花鳥も描かなかった。そして美人画もマゲの風俗に限られていたし、描かれる婦人の性格も温良貞しゅくのタイプに限られていた。松園は生涯唯一の女を描いていた。その女の若き日、年老いたる日、花の日、雨の日等の様々な姿態をあく事なく描いておられたのだといって差支えないであろう。それが外ならぬ松園の内なる「松園」であったともいえよう。松園の古風な身だしなみも、あのいかにもしとやかな姿も、まさしく松園の芸術モデルを感じさせる。
源豊宗氏、新村氏の随筆から、松園がいかに日本画壇にとってかけがえのない女流画家であったか、温かい眼差しを持ちながら、時を超えてその時代を生きた女性達を描いていた美人画家であったかがわかる。そんな松園が生まれたのは京都の葉茶屋、ちきり屋であった。本節では、松園の生涯とそこに交差する能楽、そして画業において一筋に人物画を描き続けてきた松園その人について簡略にしながらも迫りたいと思う。
松園は一八七五年(明治八)年四月二三日、京都市四条通御幸町西入ル奈良物町に、上村家の次女(本名津禰)として生まれる。父は太兵衛、母仲子は葉茶屋「ちきり屋」を営んでいたが、松園が生まれる二か月前に父は死去した。以降、母は葉茶屋を自ら切り盛りしながら二人の娘を育てる。また、松園が生まれた明治八年は明治維新の混乱期により、衰退していた能楽界が再起の兆しを見せ始めた時期でもある。(註一)
幼い頃から絵を描くのが好きであり、「ちきり屋」で働く母の傍らで半紙に絵を描いていた松園には桜の研究家である桜戸玉緒、南画家の甲斐虎山など画学生も混じり、松園に絵て本を持ってきてやるなど、目をかけた。そんな松園は小学校の次に京都府画学校へ進む。
同校は一八八〇(明治一三年)に開校し、日本初の画学校として大和絵などを教える東宗、西洋画の西宗、文人画の南宗、狩野派系の北宗の四つの学科を備えていた。(註二)松園は北宗の学科に入り、鈴木松年(一八四八―一九一八)に師事した。二十三年、第三回内国勧業博覧会に出品した《四季美人図》【図版四】が褒状を受け、来日中のイギリスの皇子・ジンノート公に買い上げられたことが話題となり、松園の評価が高まっていく。明治二十五年(一八九二)年に、再び別の《四季美人図》を展覧会に出品すると、農商務省の下命により、翌年四月のシカゴ・コロンブス万国博覧会の女性館に出品されることとなった。このようにまだ十代の松園は画家として順調なスタートを切る事になった。
同年、幸野楳嶺(一八四四―九五)に入門し、幸野楳嶺没後は竹内栖鳳の画塾に入門した。松園は「私も女ながら男の方には負けてはならぬ、と大勢の男の方に交じって泊りがけの写生旅行について行」き、画技に磨きをかけていく。三十五年、二十七歳の松園は長男・信太郎(一九〇二―二〇〇一、号は松篁)を出産するが、家事や育児を全て担った母・仲子の全面的なバックアップによって絵画制作に専念した。しかし、若くして画家としての名声を高めていく松園には世間の嫉妬もあったようである。三十七年四月、第九回新古美術展に出品した《遊女亀遊》【図版五】の顔を汚された事件が起きている。松園はその時のことを「女の私の名声をねたむ人があって、ある日看守の隙を狙って(中略)亀遊の顔を鉛筆でめちゃくちゃに汚してしまった。」と述べていて、自分が「女」であったから起きた事件と考えていた。
昭和十二(一九三七)年、のちの日本芸術院の前身となる帝国芸術院が創設される。それまであった帝国美術院を改組し、美術だけでなく音楽、演劇などの分野を拡充した。松園は十六年、初の女性画家として帝国芸術院会員に任命されている。それから三年後十九年七月、松園は六九歳で、女性としては二人目の帝室技芸院に任命された。同月、帝国芸術院会員による陸軍献納展に《牡丹雪》【図版六】が出品される。二十三年十一月、七十三歳の松園は女性初の文化勲章を受章する。「元来美人画が好きでありまして、ただもうこう出てこなければならないという道を選んだ」という松園は、最後まで美人画家として画家人生を全うしたとされる。(註三)このように、当時女性として生きるのが難しかった画業の世界で一流の画家として他の男性画家と共に並んでいる。また、松園の息子、松篁は師である松年との私生児であるとされている。美人画は鏑木清方等男性画家も描いている主題ではあるが、女性として生き、同じ性である、それも様々な時代の女性を描き続けた松園ならではの美人画は、男性画家の美人画に勝る力を持っているのではないだろうか。
第二節 松園と能楽の関係
画業一筋の人生と見られるかと思われる松園の生涯であるが、松園が習っていた芸事の中でも最も熱心に取り組んだものに謡曲がある。謡曲とは能の中で謡われるものである。能楽とは、能と狂言を併せていう用語で、明治以降一般に用いられるようになった。能楽は日本の古典的楽劇の一つで、登場人物の所作は細かく様式化され、言葉や節回しは室町時代の様式を残している。能は、幽玄美が描かれた「謡と舞」を中心に展開する物語である。物語の題材は平家物語、源氏物語、伊勢物語や土地にまつわる伝わる伝説などがある。実在した人物が幽霊となって現れ、生きていた頃の恋物語や戦物語を空想するなど、「神・愛・情念」の空想世界を描いている。このような幽玄な世界を描くため台詞は全て口語と離れた文章形式がとられている。演者(主人公=シテ)は現実離れした登場人物を演じる為、面(おもて=能面)を付ける。謡曲は人間の感情に富んだ物語が高い気品をともなって演じられるものであり、松園の気質と合い、能を題材とした作品を多数残す。彼女の制作を大きく助けるものとなる。日中部屋にこもりきりとなり、声を出さない画家という職業にとって、能楽は謡うことですっきりとした新たな気持ちになれ、また日中家族以外の人間と接しない閉塞した状態からも一時的に脱却でき、松園にとっての気分転換ともなっていた。最小限の身振りに最大限の感情を込めるという手法は、松園の能を題材とした作品以外にも影響を受けている。能を題材として描いた主な作品は、松園が能を習ってから初めて描いた《花がたみ》【図版六】や、《草紙洗小町》【図版七】、《砧》【図版八】、《焔》、《序の舞》【図版九】、《舞仕度》【図版十】などが挙げられる。能楽の師である金剛流二四世宗家金剛巌が松園について語った興味深い文章が残っているので紹介したい。
二十年! もっと以前になりますか、私が松園さんを稽古していたのは。近頃私は素人には稽古をしないので、松園さんの直接の御稽古は門中の廣田が行っています。近頃の謡もよく存じてますが、素質の良い方ではあるし、熱心で、なかなか上手です。私が松園さんを御稽古したり、又その方面から観まして感じた事は、ああいう風に今日画壇で女性として第一流の画家になるには並大抵の苦労ではなかったであろうと思う事です。それは謡曲を稽古していましても、素質がいいのですから直ぐ憶えて又解っていられるのですが、早呑込みを仕無いで得心の行くところまで訊きもし、又稽古をする方です。芸能というものは種別は変っても、その心掛けなり、態度なりはその人はその人としての同じものがあるから、その推定から松園さんは絵にも同じものがあるであろうと思っています。(中略)
能や謡曲は絵に関係ある事柄が多いが、能を絵にしたりする人が沢山あって松園さんもやってますが、色々の観方や行き方があるものです。(中略)
松園さんが未だ無鑑査にならない、前の頃だと記憶していますが、出品画などには随分婦人の顔について研究していたらしいので、お能の面についても色々と訪ねられたり、又自身で大分研究していた様子でした。(註四)
このように、金剛巌自身も師として一松園の絵画の鑑賞者として、松園に温かい気持ちであったことがわかり、師弟関係は大変良好であり、巌の発言からも、松園が能から自身の本業である絵画制作への意欲をさらに燃やしていたことがわかる。また、巌は下村観山が彫刻を絵にして成功したことを話し、松園も能の女面でそれを行ったと言っている。
特に美人画家だけに女の面について研究されたので《花がたみ》という絵には増阿弥の十寸神という面を写生して、それを人間の顔に戻して松園さんが再び創作して出しています。元来この「花形見」の能には小面、孫次郎を使うので、観世では若女、宝生では増という面を使うのが普通だが、松園さんは十寸神を取り出して描かれた。その面を嵌めて創造したところにあの人の優れた凡庸でなかったところが窺える。(中略)
昔からあるという物も世の批評の喧しかったり、世間の思惑を心配したりして突っ切ってやれないもので、それを貫いてやるところに松園さんの性格の強さがあると思う。一時が万事で他の事にも矢張りそうであろうと想われる。そういう点と、近頃でも能を観に来られても常に写生をつづけていられる様ですが、その熱心さ、又良い素質が松園さんを今日あらしめたものの一部分をなしていると思う。
つまり松園は能を本業である絵画制作の息抜きとして楽しんでいただけではなく、自分の中で消化すると共に、能面や所作から吸収したことをその後の自身の絵画に生かしていたのだ。松園が能と出会わなければ、能を題材とした絵画はもちろん、松園の美人画の身振りや顔の表現は生まれていないことになる。次節では松園が能と出会ったことで生まれた能を題材とした絵画について述べたいと思う。
第四節松園の能楽を題材とした美人画―物語と舞う女性―
本節では松園が残した能の代表的な絵画について年代順にディスクリプションと解説を行い、自分の意見を述べる。
《舞仕度》 一九一四年(大正三年)京都国立近代美術館
第八回文展に出品され、二等賞を受賞した作品であり、松園が当時苦心していた品位を保ちながら感情表現を行うことを消化し、研究したあとの進歩がうかがえる作品とされている。また、本作を発表したころから松園は金剛巌に謡曲を師事するようになり、最初は余技的な気持ちであったが、次第にその魅力に取りつかれ、どんなに忙しい時でも休まずに稽古に通うようになったという。
二曲一双の画面に、若い華やかな娘が仕舞を始める直前の光景を色鮮やかに描く。結い上げた黒髪に白いバラを挿し、纏った薄紫の振袖の袂に、濃い緑の葉で覆われた白と薄青と薄桃色の菊をまだらに咲かせている。髪型は江戸後期に結われていた奴島田(高島田)【図版十一】ではないかと考えている。白いバラと左右対称の位置にある髪飾りは濃い桃色の三ツ輪の形をしたものである。すっくと立ち、帯に挟んでいた扇を取り出し、いざ舞おうとしている姿だが、少し俯き加減で、緊張している様子が伺える。その薄紫の振袖の舞う女性の右手側には、緋の毛氈に座した三人の年長の女性が描かれている。三人共髪型は舞う女性と同じく奴島田だが、舞う女性よりはシンプルな簪である。画面から見切れている茶に黒の帯を締めた女性と青に竹模様が描かれた白の帯を締めている談笑している。青の着物の女性は茶の着物女性と会話をするために後ろを向いている。その右手には白い扇が軽く握られている。その二人の隣に座している、緑に薄茶の帯を締めた女性は、両手に持っている鼓の青い糸の張り具合の様子を確かめるように、伏し目がちに見ている。三人の女性の視線が誰も舞う女性にいっていないのが、逆に舞う女性の緊張感を表している。そして背景に屏風が描かれているのも、舞の発表であるという場面設定をより強調しているように考える。この《舞仕度》に私が感じるのは、舞う女性には謡曲を始めたばかりの松園の緊張が、三人の女性には能を習い始めたばかりの松園が周りの眼を気にしている心情が現れているのではないかと考えている。
《花がたみ》一九一五年(大正四年)松柏美術館
世阿弥原作の謡曲「花形見(花筐)」に登場する照日の前をモティーフにした美人画である。「松園は岩倉の精神病院での取材をもとに、精神のバランスを崩すと無表情になることを発見し、能面を写生するとともに、師の栖鳳からもらった『腕をこう、にゅっと突然に出したらどうどすやろ』(註五)をというアドヴァイスをもとに、恋しい人への思いが溢れすぎた故に錯乱した女性像をリアルに品良く仕上げているとされる。また、美人画家としての松園にとっては、狂気の持つ妖しい美しさが主眼だったとも言われている。
薄緑に白く草花が描かれた衣を着崩し、平安装束の白絹の小袖の右肩をのぞかせ、裾を余らせ、緋の袴を引きずり歩むしどけた髪を下した女性。左袖の下には、薄茶の背景に紅い楓の降り落ちた群の中に、金を下地とし青で水、墨で文字が描かれた扇が落ちている。振り上げた右手には白い小菊の「花筐」を持っている。その花筐には、白い紙片が今にも落ちそうに垂れ下がっている。この紙片は照日の前がにゅっと振り上げている右手に触れて、落ちそうになっているのではないかと考えられる。表情は少し開いた口元からお歯黒がのぞき、はにかんだ柔らかさを感じさせるが、乱れた髪と白く長い右手の、にゅっと顔の方角に伸びた左手からは狂気を感じさせる。また、絵画のストーリーは以下の通りである。「去る春、武烈天皇崩御により急遽皇位を継ぐべく都に上がることとなり、別れ別れとなった応神天皇の五世の孫の男大迹部王子(のちの継体天皇)への募る想いを、前漢の武帝と李夫人の反魂香
はんごうこう
の故事になぞらえて、狂い舞う姿を描く。片手に持つのは、王子出立の折に里帰りしていた照日の前に、王子が挨拶代わりに送った大切な花筐(花籠)で、足元に落ちた扇には、別れの文に引用されていた『忘るなよ程は雲居になりぬとも空行く月のめぐり逢ふまで』の歌が描かれている。」
松園は照日の前の新庄描写より狂気の様を描写することに重きを置き、描いている。岩倉の精神病院での取材をもとに、精神のバランスを崩すと無表情になることを発見し、この照日の前を描いた。
また、孫・上村敦之氏の解説を紹介する。
この作品を制作するときに松園が栖鳳先生に相談したら、ちょっと前かがみに描いたらどうやというヒントをいただいたそうです。現在、この作品の構想図がたくさん遺されています。【図版s一~図版s七】それらを見ると、人物が、シルエットみたいに真っ黒くガッガッと描いてある。それが面白い。研究の仕方が面白いな、と。表情までは描きこんでいない。シルエットだけで、狂気を描けるかということを研究していたのでしょうね。
この作品を描くときには、精神病院へ行って、患者さんの表情を研究したという話ですね。そして、富勇
とみゆう
という芸妓さんの顔も参考として写してたんです。
松園は制作の参考として、実在の人の姿を写すこともしばしばあったようだが、写実性を意識して実際のモデルに何分か止まってもらって描くことがあったのではなく、実際に動いている人の、一番美しい「型」を意識して絵に写そうとしている。《花がたみ》で精神病院の患者をモデルにした際もそのままを写実的に写し取るのではなく、松園の中で消化したその患者の狂気の「型」を写し取ったのではないか。
また、《花がたみ》の着物に注目してみると、打掛の二層目の着物が薄桃色を下地に、白く雪輪文が描かれているのは、降り注ぐ紅葉の秋と雪の冬の季節感の対比、そして、赤と白という色彩の対比を表現したのではないかと考えている。
《焔》一九一八(大正七年) 東京国立博物館
源氏物語を題材にした謡曲の「葵の上」を取材した作品である。「葵の上」は、光源氏の恋人であった六条御息所は、光源氏の正妻である葵上に対して激しい嫉妬心を抱くあまり、生霊となってしまうというストーリーである。本作はその生霊を描き、女性の嫉妬心が焔のように燃え上がってしまう姿を描いている。はじめ題名を「生き霊」にしようとしたが、あまりに露骨なので「焔」としたという。「腰をかがめ、首をかしげながらぬっと振り返るという姿勢、凄絶な顔の表情、霊の消え入りそうなさまを思い起こさせる精緻な頭髪の表現、画面左端にわずかに見える曲がった指先、嫉妬の対象をからめ取るかのような着物の蜘蛛の巣文様という具合に、細部にわたって女性の執拗な念が視覚化されている。嫉妬する女の美しさを描くにあたり、松園は自身の謡曲の師である金剛巌の助言を得て、眼の部分に絵絹の裏から金泥をほどこした。こうして完成した本作は、唯一の凄絶な絵と松園自身も述べるとおり、その感情表現の激しさの点で、松園芸術において頂点を示していると言えよう。」と評されている。髪型は安土・桃山時代に結われていた下げ髪【図版十二】だと思われる。この下げ髪の表現についての考察は二章で述べている。松園は本作以外にも《蜃気楼》【図版十三】などで足元が消え入るように女性の姿を描いているが、《蜃気楼》は蛤が女性に変化するさまを描いている絵画で、幻想的なおとぎ話を現したものであるので、本作とは違った意味合いである。また、能面の女面の中に泥眼【図版十四】という面があるが、本来白目の部分が金で描かれており、他の女面と比べて狂気を感じさせる面であることから、松園はこの能面を参考に《焔》の眼に裏から金泥を用いることを考えたのではないだろうか。
《草紙洗小町》 一九三七(昭和十二)年 東京藝術大学
謡曲の「草紙洗小町」を題材とした作品である。ストーリーは以下である。歌合せの会の相手が小野小町だと知った大伴黒主は、小町が会で詠む予定の歌を盗み聞きし、万葉集の草紙を書き入れる。会の当日、その草紙をもって歌が盗作だと黒主に主張された小町は、その草紙を水で洗い流したところ、やはり歌はきれいに流れ去り、かけられた疑いは無事晴らされる。というのが本作の物語である。絶世の美女と言われた小野小町は歌才にも恵まれ、『古今和歌集』仮名序で「あはれなるようにて、強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と紀貫之に評されたが、閲歴は未詳で、不幸な生涯を終えたと推定されている。そのためさまざまな伝説が付会されている。松園は《草紙洗小町》の他にも《小町の図》【図版十五】を歌仙的に描いている。松園は舞台鑑賞だけでなく稽古によって自ら実践することで、最小限の動作に最大限の心情を込めるという能の特質を理解し、さまざまな手法で画の制作を生かしていく。その中でも本作は、舞舞台姿のうち顔だけを能の面から生身の人間の顔に置き換えて表したもので、舞台芸術としての能と直接的な関連が強いとされる。(註お)
本作のディスクリプションは、《花がたみ》、《焔》と同じく、二章で《静》との比較の際に詳しく書いているので、本節では省略する。
《砧》一九三八年(昭和十三)年 山種美術館
世阿弥の名作として知られる謡曲「砧」を題材にしたものである。謡曲の中で女主人公とした物語で、主なストーリーは以下である。
「九州芦屋の男が京都へ上がって三年、ひとり侘しく待つ妻のもとに侍女が遣わされ、男は暮れまで帰らないと伝える。どこからともなく聞こえてきた砧を打つ音に、妻は、中国唐の蘇武が匈奴との戦いで胡国にある時、国で待つ妻の打つ砧の音がはるか彼方の蘇武に届いたという故事を思い出す。同じように砧を打って心を慰めようとするが、寂しさは募るばかり。謡曲ではこの後、妻は我が身をはかなんで亡くなり、後段は我執に苦しむ妻の亡霊の成仏の物語となる。」
愛しい夫をけなげに待ち続ける女性の静かな気品と切なさを、その直前まで打っていたであろう砧を前にすっと立っている下し髪の女性に感じられる。趣向として、古来より描かれてきた「縁先美人図」の系譜に近いとされている。松園はそこに「尊い日本女性の優しい姿」を託したと記す。だが時代を考慮すれば、その姿に銃後を守る気概も重ねたとも考えられている。たっぷりとした布をあまらせた浅葱色の打掛の袷を紫の帯の中心で両手で抱くように結んでいる。打掛には金銀の落ち葉が描かれ、内に覗いている紅と薄茶色の着物と対比して更に上品な色合いが際立っている。そして足の指先と手の指先、視線を遠くに見やっている女性の耳たぶが桃色に染まっている。そして砧のさらに前方にはひとつの蝋燭が灯されている。「砧」は秋の曲であり、これは落ち葉の模様も相まって、冬に近づく秋の深まった寒い時期に、夜遅くまで砧を打っていた女性の時間が描かれているのだと考えている。そしてストーリーが、帰らぬ夫に恨みを抱いた妻がなぐさめに打っていた砧によって救われ成仏するというものなので、砧を打つことで心が浄化された女性のすっきりとした様子を描いた場面ではないかと考えている。
「明治の能楽評論家に、この最後の〈キリ〉『法華読誦の力にて』、そして砧の音によって幽霊が成仏するというくだりを、とってつけたようだと評して、劇的情緒を御破算にしたといっている人があります(観世流謡曲曲本解説)。しかし、それは近代的芸術至上主義の解釈だと思います。『怨みの砧』は地獄の呵責の苔になるのですが、一方で、かりそめに打った砧の音と秋月を愛でて心を晴らしていったことが、全編をつらぬいて、救いとなっているのですから、これを外すことはありえないのです。(「砧‐不実をなじる妻」『』」と言っているように、鑑賞者を汚れない気持ちにさせることを目指し画業を続けていた松園にとって、「砧」の女性の姿として選んだのは、砧によって浄化された女性なのではないかと考えている。怨みから清らかな気持ちになった女性の静謐さが絵画からは感じられる。
また、孫・上村敦之氏の《砧》に関する見解があるので引用する。
六十四歳の《砧》は詩情を重んじて静かな情緒を出しているが、能面を写しながらだんだん人間の顔に近ずける如きデッサンを試みているのは、我々が見て甚だ興味深いものである。
(「母の筆あと」『青伯の仙女』同朋舎出版、一九九六年より)
敦之氏の発言からもわかるように、「砧」では題材である能で用いられる能面を人間の顔にだんだんと近づけていった松園の能画に見られる技術が用いられているのである。この能面を用いた松園ならではの美人画の手法については二章で他の作品の顔の表現と《静》の顔の表現を比較した研究を行ったので、二章で述べたいと思う。
《古代汐くみ》 一九四四(昭和十九)年【図版十一】
謡曲「松風」をもとにした舞踊「汐くみ」の一場面を描く。ストーリーは以下である。「在原行平が須磨に流されていた時に親しんだ、地元の海女の姉妹である松風と村雨の墓標に参った旅僧が一夜を過ごすため、海女の塩屋に立ち寄る。すると、月夜の浜を、二人の海女が塩汲車を引きながら塩屋に戻ってくる。出家の身であることから一夜の宿を許された僧が、松風村雨の話をすると二人は泣き出し、自分達はその霊であると名乗って、松風が行平の形見の水干と烏帽子を着けて舞い始め、やがて松を行平に見立てて狂い舞う。それを村雨が止め、僧に、行平への妄執故に成仏できなかった自分達の霊の回向を頼み、消えていく。」
松園はこの舞踊を好み、その他に《汐くみ》(一九三五(昭和十)年頃 大阪市立近代美術館建設準備室)【図版十六】など多くの作例を遺している。
描かれているのは行平を想い舞う松風の姿だと思われる。籠の中に入っている塩の乗った小さな車を薄紫の糸で左手で軽く引きながら、右手には黄土色の扇を少し開きながら顔の前で振り切るようにかざしている。透けた衣の下に着ている笹模様の描かれた真紅の着物と、金色の線で模様が描かれた濃い青の帯が印象的である。髪型は《砧》と同じく髱の部分を下した髪型である。
以上、松園の能の謡曲を題材に描いた主な作品をディスクリプションしてわかったことは
①松園は、能の場面の中でも、女性が悲観的になる場面というよりは、女性の感情が主体的に動く場面を描いている。
②能面を徐々に人間の顔に近づける手法を技術として身につけ応用している。
③謡曲の中でも女性が主人公となる物語の場面を選んで描いている。
④扇を手にして舞っている女性が多く描かれている。
ということであった。能面をモデルとし、人間の顔を描いているのは、普段感情の無い能面に場面ごとでの描いた女性の感情を表現したかったからだろう。金剛巌氏が能面に対して述べている事を引用する。
能面は不思議な芸術である。それは単なる彫刻ではない。言わば動く彫刻である。壁間に掲げて鑑賞すべきものではない。能舞台に於て演者によって用いられる時初めてその真価を表すものである。一度舞台に上るとき秀でた面は秀れた芸の力によって、演者の肉体の一部となり、生きて血が通うのである。能面の真の美はかかる時にこそ見られるのであって、このような面こそ我々に能の精神を教えてくれるものである。
(金剛巌『能と能面』創元社)
金剛氏の発言を考えると、松園は能面を肉体の一部のように考えていたのではないだろうか。肉体の一部である能面を人間の顔に近づけながら描くことにより、松園の能を題材とした美人画にとって、能面は最早肉体の一部、つまり顔そのものとして描かれているのであろう。
扇を登場させているのは、単に謡曲の物語中の登場人物の女性を描いているのではなく、これが能の舞であるということを表したかったからだと思われる。松園は能の中で舞っている女性の姿を物語としてだけではなく、能の中の舞であるとしたかったのだろう。また、扇はそれ以外にも時間や舞の身振りを表現するために用いられていると考えられる。
そして、松園の目指す美人画について 氏が述べている事を引用すると
ある時神崎氏が「日本の女性で描いてみたいのは誰ですか?」とたずねた時、松園が即座に「朝顔日記の深雪と太閤記の淀君です。一人はいじらしい程に内気な女心を胸に秘めて一生を過すという型、私は嘗て夫れを描いた事がありますが、淀君のあの思う事の総てを実現させないでは措かないとでも云う様な意志の強い淀君、それを描いてみたいと思います。」と返事したことを指すもので、松園の美人にはこれまたこうした幅があるということであるが、やはり松園は、こうした両端の総合というようなことをめざして進んでいたと考えられるものである。(註
神崎氏とは京都の評論家の神崎憲一氏のことである。これは淀君型・深雪型と言われている。松園の描く女性達は、おしとやかな女性と強気な女性の二種に大まかにわかれているとされているが私もこの論には賛成である。では、これまで解説して来た絵画たちはどちらに属されるのだろうか。
私が考えるのは以下である。
淀君型
《花がたみ》
《焔》
《草紙洗小町》
深雪型
《舞仕度》
《砧》
《古代汐くみ》
《花がたみ》は降りしきる紅葉の中を髪と着物を崩しながら狂気を帯びて歩いているさまが、《焔》は愛しい光源氏の事を想うあまり、生き霊にまでなって源氏の妻である葵の上を殺めようとするさまが、《草紙洗小町》は、大伴黒主の策略にも屈せずに自身の機転により状況を一変させ、逆に相手を打ち負かしてしまうさまが淀君型の意志の強く、自分の思ったことを実現させようとする女性像に当てはまる。
《舞仕度》はこれからいざ人前で舞おうとする若い女性の恥じらいが、《砧》は愛しい夫をじっと待ち続ける女性の健気さと切なさが、《古代汐くみ》は行平を想うあまり成仏できず霊になっても舞を舞うさまが、深雪型だと考えられる。しかし《古代汐くみ》に関しては、行平への妄執というところを考えると淀君型かとも思われるが、霊になって何かをしでかそうという強気な野望の気持ちは感じられないので、深雪型としたい。
第二章 《静》の表現について
第一節 静御前と《静》の描かれた場面について
この節では松園の「静」【図版 】を最初に取り上げ、白拍子である静御前の舞の描写が「男舞」をはじめ、その他の松園の「舞」を描いた作品とどのように違いがあるかディスクリプションを通じて比較をしながら、「静」について論じたい。その為、先に静御前に関する史実と伝承と、また、鎌倉時代に平家物語と同時代を生きた白拍子の中には、静御前の他に、仏御前、祇王・祇女姉妹の絵画を見つける事が出来たので、平家物語に登場する白拍子を描いた絵画についてもディスクリプションし、「静」との美術史的な比較、そして静御前の白拍子とどのように違うかを比較していきたい。
松園は歴史上の人物を題材として扱いはしたものの、その頻度は決して多い方ではない。そのなかでも静は繰り返し描かれた題材である。さまざまな画題で、情熱や芯の強さが画興をそそったことは想像にかたくない。
本作品は手に扇を持ち、舞を舞わんとする静の様子が描かれている。その表情は平静であり、湧き上がる感情を内にこらえ、あくまでも頼朝の命令に従うまでとする静の意地が表されている。(註六)
二〇一〇年に東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で開催された『上村松園展』の中では以上のように語られている。「静」で描かれるのは、平家物語でその名を轟かす源義経の愛妾である白拍子の静御前である。歴史的背景について森本繁氏の「白拍子 静御前」(新人物往来社、二〇〇五年)を参考にしながら書きたいと考える。一般的に知られていることは、彼女が磯禅師という高名な白拍子の娘で、一五歳で京都神泉苑の降雨祇願会で白拍子を舞い、後白河法皇から日本一という称号を貰ったこと。義経に見初められて妾として六条堀川館に入ったこと。義経が長門壇ノ浦で平家を滅ぼしたあと頼朝と仲違いをして追われる身になると一緒に都落ちしたこと。大物浦で遭難したあと義経に従って吉野山に入ったが、ここで義経と別れて吉野法師に捕らえられ、京都の六波羅へ送られたこと。そして最後は鎌倉に護送されて訊問を受け、鶴岡八幡宮で義経を追慕する白拍子を舞ったあと、出産した男子を殺されて京都へ帰されたことなどである。
『義経記』では、静御前はその後、磯禅師とともに洛西の嵯峨野に隠棲して二十歳で亡くなったとしているが、史書である『吾妻鏡』は沈黙して何も語っていない。
したがって、その後の静御前については、さまざまな民間伝承があり、彼女の墓が嵯峨野にないこともあって、その墳墓と称するものが各地に存在するのである。
あるいは静が義経のあとを慕って東北各地を流浪して、途中で行き倒れたとし、あるいは母磯の故郷である伊勢・丹後・大和高田・淡路島・讃岐に帰って遁世出家したとするなどがある。
また、木田郡三木町井戸中代の静薬師庵に掲示してある明治三十一年(一八九八)付の由緒書である。静御前の位碑を祀った薬師堂内右側の木板に次のように書かれている。
静御前の母磯の禅師は七七五年前大内町丹生小磯の長町家に生れ、一二歳にして都に出て芸能の道に励み、一二年間苦難の末禅師の格式を得て宮中出入となる。平治の乱に後白河法皇の御幽居に伺候しているうちに、仁安三年(一一六八年)女児を生む。静と名づく。ここに貞列慈悲の歴史がはじまる。静長じて一五歳にして神泉苑の雨乞踊のとき、源義経に見初められ室となる。義経平家討滅の大功直後、兄頼朝に追わる。一時のがれて静を連れて吉野に入る。女人禁制のため、あかぬ別れをする。蔵王執行に送られて、母禅師が元にかえる。つかれを休む間もなく、鎌倉幕府の召となり、鶴岡八幡の舞で頼朝の怒りにふれ、手討になるところを政子に助けられ、義経形見の男子を産むや、頼朝の命令で直ちに由比ヶ浜辺に投げ捨てられる。悲涙も枯るる思いにて、都の旧居に帰りつく。
ふる里恋しさに母禅師に伴れ、生家小磯に帰り住むこと一年、仏道に帰依して、ぼんのうを払わんと手を携えて信仰に旅立つ。四国霊場八十七番の礼所長尾寺にて 意和尚に悟され得度する。安居の地をこの静庵に定め、念仏三昧、安らぎの日が続く。都の花やかなころの下女琴柱は、主人さぬきに住むと聞き、苦難の末おとずれて再会となり、和やか日常となる。
三年後の建久三(二)年(一一九一)霜月二十日母禅師は六十九歳を一期として忽然として入寂する。翌年三月十四日、静も病状悪化し、二十四歳の時、琴柱の膝に永眠する。 二人の主人に先立たれ、もはやこの世に望みなしとて、一七日の夜陰、しとふ主人の後を追ふて、花の蕾の十九歳にて池の渚に身を沈め、はかなく散った。嗚呼淑貞忠の三女性云々
以上のことが静御前について記されている事柄である。松園の描いた静では、白拍子の装束を纏った姿で描かれている。松園は上記にも挙げた通り、静については【図版二】の一九九四年、東京国立博物館所蔵の《静》以外にも繰り返し静を題材として描いている。白拍子は能楽の歴史と連なるもので、能楽の歴史は奈良時代から始まっている。奈良時代に古代ギリシャの仮面劇がシルクロードを通って中国の芸能と混ざり合い、仏教と共に猿楽が鎌倉時代に白拍子を取り込み、松園がその他に白拍子、静を描いたものとして、《男舞白拍子》(昭和初期)【図版十七】、《古代白拍子》(昭和十五年頃)【図版十八】、《白拍子図》(昭和十五年頃)【図版十九】、そして《静御前》【図版二十】が挙げられる。白拍子の説明とその他の白拍子を描いた絵画については第二節で述べたいと考える。
《静》では、他の白拍子の絵画と違い、両手を腰に据え、立膝を着きしゃがんでいるが、背筋はすっと真っすぐ伸ばしている。そして、左脇には太刀を構え、右手には少し開いた扇を掴み、立てた右ひざの横に添えている。同じ舞う女性を題材とした《序の舞》を見比べてみたい。《序の舞》は、一九三六(昭和十一)年の文展招待展に出品されて政府の買い上げ作品となった作品である。
無地の背景に、彩雲の裾模様をもつ朱色の着物に豪華な桐鳳凰紋の帯を締め、下げた左手をしっかりと握り、舞扇を逆手に持った右腕を水平に差し出したまま、真っ直ぐ前を強い眼差しで見つめて口元に微笑を浮かべた令嬢が、一分の隙もない様子で立っている。十分にとられているはずの周囲の余白が足りなく感じるほどの充実した画面である。しかし、じっと見ているうちに、足元の、明るく澄んだ神々しいような彩雲が、我々とこの令嬢の間を仕切っていて、恰も天上で舞う天女のように感じられてくる。彼女はこの世の者の姿を借りた何か尊い者の化身なのだろうか。極く単純な姿勢、道具立てで観る者にここまでの感懐を抱かせる《序の舞》は、一九三六(昭和十一)年の文展招待展に出品されて政府の買い上げ作品となった。そして現在では重要文化財に指定され、上村松園の代表作として広く知られている。(註七)
と京都国立近代美術館の小倉京子氏は述べている。《序の舞》も、激しい動きを感じない
美人画ではあるが、よく見ると大振袖の右袖が扇を持った右腕にくるりと弧を描いたよう
に絡んでおり、その描写から、この女性が、描かれる瞬間の姿の直前まで激しい舞を舞って、
それが収束へと向かい、立ち止まった姿を描いたと推測できる。はじめは中年の令夫人とし
て仕上げるつもりであったが、能の舞台で長絹を翻す姿を再現するためには、大振袖にしな
くてはならないため、若い令嬢姿が採用された。(註p)能の中でも最も品位があると言わ
れる序の舞の二段下しの場面が舞い手がゆっくりとした動きから次の一歩を踏み出す瞬間
の緊張感が描かれている。手の指先だけ桃色に染まっているのは緊張感を指先だけで表現
するためだと考えられる。松園は内に秘めた静かな動を、モデルを使って表現したのである。
《序の舞》は舞い終わった直後の女性を描いた物であるが、《静》は《序の舞》と同じよう
に、舞を舞っている最中の女性ではないが、舞を舞う直前に気を高めている女性の瞬間を描
いたのではないかと考える。静が最後に舞ったと言われている場所は、である。松園は歴史
に造詣が深いので、静御前の史実を踏まえた上で《静》を描いたと考えられる。なので、《静》
の白拍子の正装した姿を描いた本作は、静御前の人生の中でも最も重要な舞の場面であっ
た義経と別れた後、頼朝の元に囚われた時に、頼朝の前で舞った場面を描いたのではないか
と考えられ、憎き宿敵の前で静が最愛の人への思いを込めた舞を舞う前の決意の瞬間を描
いた絵画だと筆者は考える。後白河法皇から反逆者義経・行家追討の院宣を受けた頼朝が、
畿内近国の国司に両人の逮捕を命じた。この時義経は静や武蔵坊弁慶と吉水院に居を構え
ていた。それまで義経の無二の後援者であった法皇は、義経が京都を出て、四日目の十一月
七日には早くも義経の見任を(伊予守・検非違使尉)を解却している。
義経はこれにより再び無位無官に落とされる。こうなれば吉水院の住僧たちがいかに義経に好意を持っていたとしても、どうしようもない。吉水院を追われた義経主従は大峰山目指して分け入った。だが静が義経と行動を共に出来たのは、吉野山上千本の金峰神社内までで、ここより奥は女人禁制の霊地であったから、静の入山は許されなかったので、義経と涙の別れをする。その後吹雪の中を吉野山中でさまよっていた静は、紆余曲折を経て母である磯禅師の京都北白川の家に辿り着く。頼朝の眼を恐れる左京区岡崎にある法勝寺に匿われるも、義経の子を身ごもっているという噂を六波羅で京都守護職を務めていた北条時政より聞きつけた頼朝により、鎌倉へ召喚される。身ごもった子が男子であれば、頼朝自身と同じように成長して仇敵を討つ可能性があるので、出産まで鎌倉に留め置かれる事となる。こうして母磯禅師と共に鎌倉へ留め置かれた静であるが、そんな中京で名高い白拍子静御前の舞を観覧しようという御家人たちが現れる。最初にこれを言い出したのは頼朝の妻、北条政子で、それが頼朝を経て工藤佑経や畠山重忠以下の御家人に及ぶ。そこで頼朝は、腹心の梶原景時に命じて鶴岡八幡宮の春の大祭で、静に白拍子を舞わせようとする。初めは頑なに断っていた静であったが、頼朝と政子の再三の強制によって、八幡宮社頭の舞台に立つことになる。この日の静の舞姿は、「白き小袖一重に唐綾を上に重ね、白き袴踏みしだき、割菱縫ひたる水干に丈なす髪を高らかに結びなしてぞ見えたりける。この程の歎きに面いと痩せたれど、眉細やかに薄化粧したるは実に天女とまがふばかりなり」とある。静は真紅の扇を開いて正面簾中に向かって一礼したが、簾内外の武士たちにはこれが唐土の楊貴妃、漢朝の李夫人に勝るとも劣らぬと見え、頼朝もこのときばかりは義経の愛人であることも忘れてその一挙一動を見守ったという。だが、歌っているうちに、静は次第に感情が激していき、頼朝の義経に対する理不尽な仕打ちを考えると、その感情が抑えきれなくなっていく。そして静は
よしの山 みねの白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ 賤のをだまき くりかえし
昔を今に なすよしもがな
と、なんと吉野山で別れた愛しい義経を恋い慕う恋歌を歌ってしまうのである。子の歌は静のオリジナルではなく、昔からの古歌をもじって義経を慕う歌に改作したものである。頼朝はこれを聞いて激怒するが、妻政子の惻隠の情により、静が罪されることはなく、そればかりか母娘の居宅に御家人が憩を求めて遊びに来るようになるのである。筆者は、松園の描いた《静》はこの舞の場面を描いたものではないかと考えている。それは松園は女性のたおやかさだけではなく、《焔》でも見られるように、女の激した感情を描いた絵画も見受けられるからだ。静御前の人生の中で最大と言っていいほど重要な舞の場面、宿敵の前で愛しい義経という愛人を想って舞うという場面を《静》の射るような眼差しや構えのポーズから表現したのではないだろうか。日本一の能と言われた静の真剣な瞬間がそこにある。
そして、松園が頼朝の前で舞う静を描いたのではないかと考える上村敦之氏による《静》の興味深い解説があるので紹介したい。
膝をちょっと崩して少し色っぽく描いているものなんかもあります。静御前はもともと白拍子だった。こうした作品は、いわゆる白拍子としての静御前を描いているんですね。ところがそれをだんだん象徴化して生きている。毅然たる女性として表したのが今回出品される《静》です。
松園は、謡曲や故事に取材して人物を描くときに、この人はこんな性格であっただろうとか、自分でもイメージしながら描いています。松園の作品には、品の悪い女性は出てきませんよね。毅然として生きている。毅然として生きている。毅然として生きるということ自体が松園の理想であって、それが松園の絵の軸になっているのでしょう。(「祖母松園を語る」『上村松園展』東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、二〇一〇年より)
この解説から私が感じたのは、敦之氏の祖母松園に対する画家としての客観的な視線と祖母という肉親としての感情移入した愛情の視線である。そしてこの敦之氏の発言から、毅然とした女性の象徴として《静》を松園は描いたことがわかる。静御前の生涯を考えると義経や義経との間の子との悲劇的な別れや、白拍子という職業、決して一般的に言って完全に幸福だったとは言い難いものである。しかし、女性の毅然の象徴として選んだのが静御前であり、白拍子であったのだ。なぜ毅然さを静に見出したのかと考えると、やはり宿敵頼朝の前で舞を舞うという毅然とした行為を静御前が行ったからではないだろうか。松園は静の生涯を調べる中で、静のそういった毅然とした行為に自身の描きたい毅然した女性像を見出し重ねたと考えたい。
そして余談ながら、私も高校時代に少しだけ能をかじり、人前で舞った経験があるが、舞を舞う時は、最中よりも、舞う直前の方が緊張することが分かった。なので、⦅静》も舞を舞う直前のあの緊張感を表しているのではないか、と感じ取る。《静》は、体は構えの姿勢だが、視線はまっすぐに前を射るように見つめている。これは精神を集中しながらも、下を向かず前を見射貫き、自分の舞に一点の汚れも無いこと、観賞者たちに対する威圧の意味を含めた視線であると考える。
第二節 《静》と《草紙洗小町》との顔と髪の表現の比較
本節では、松園が描いた舞う女性の絵画の比較として、《草紙洗小町》と《静》の顔と髪の表現の比較について考えたことを述べたいと思う。
松園が描いた人間の顔の写生には、描かれた人物の顔立ちの特徴や性格が見て取れるほか、頬の柔らかさ、唇のみずみずしさといった、生身の人間の皮膚感までもが描写されている。しかし、それら写生が本画へと姿を変える時には、もとの写生にあった人物の個性等の要素はその時々の必要に応じて取捨選択される。その取捨選択のしかたは時期によって異なり、その違いが松園の画風の変化に深く結びついている。たとえば明治期の本画には、写生でつかみ取ったと思われる人物のさりげない表情が生かされている。大正期のものでは、皮膚や唇のなまめかしさが直接的に本画に受け継がれているが、昭和初期の作品ではこうした生々しさは影をひそめてしまう。(中略)
一方、対象の内にいかに感情を込めるかを研究する過程で、生身の人間のものではないものに、関心を寄せて写生することもあった。たとえば能面はその代表的なもので、生身の人間が表す感情を凝縮して抑えて画面に表すための参考となった。(註八)
と述べられているように、松園の遺した実物写生の中には能面を描いたものが多数見受けられる。(【図版二十一】、【図版二十二】、【図版二十三】、【図版二十四】など。)
能面を顔の造形のモデルとしたとわかっているものは《花がたみ》と《草紙洗小町》など、能楽の謡曲を題材にしたものが挙げられるが、私は《静》も能面の女面の造形を顔のモデルとしたのではないかと考えている。松園の実物写生の中の能面の図版と《花がたみ》、《草紙洗小町》との顔の比較から明らかにしたい。
照日の前の顔の表情に注目したい。薄く大きな楕円を描くような眉、厚ぼったい瞼と切れ長の目、通った鼻筋、赤い唇と少し開いた唇から除くお歯黒の歯は、まさに松園の写生した能面とそっくりである。能の面は演者が様々な感情を舞台で表現しやすいようにあえて感情を限定しない造りになっている。この《花がたみ》で能面が用いられたのは、謡曲ということもあるが、狂気に走った女性の感情の読み取れない表情を、能面の女面で表したのではないだろうか。《花がたみ》の面は微笑を浮かべ、瞳は三白眼で視線が定まっていないように感じるが、《静》はどうであろうか。《静》も女面の特徴と同様、薄墨を刷いたような楕円を描いた眉に、通った鼻筋、少し開いたお歯黒覗く赤い唇で描かれている。しかし、《花がたみ》と違うのは、その定まった意志のある視線と、引いた顎、静謐さを感じさせる白い面ではないだろうか。日本画を描く時、経験として白く絵画を塗りたい時は、胡粉を使う。《花がたみ》の面は《静》に比べると眉の下や小鼻、顎の下など、肌の影となる部分が完全な白ではなく、桃色がかって見える。しかし、《静》の面は顔の凹凸の部分も全て均等に白く描かれている。これは他の松園作品の美人の肌を見ても感じるように、下地にある薄茶の色が、重ねて描かれた胡粉の量の違いによって薄く見えているからだと感じる。《花がたみ》が胡粉の量の違いを顔面で表現したのに対し、《静》は均一に胡粉が塗られていることがわかる。緋袴の塗りも、《花がたみ》が濃い赤と橙がかった赤で濃淡と影を表現しているのに対し、《静》では均一に朱色が静の背後まで描かれている。続いて髪の表現について《花がたみ》と《静》を比較してみたい。《花がたみ》の照日の前が、狂乱した女性の様子を描くためか、着崩した左肩の薄緑色の着物に髪の束が振りほどけて絡みついている。前髪から頬にかかり、耳の横を流れる髪も髪の毛の一本一本が見える程ほどけて見られる。そして照日の前の後方を流れる、画面からはみ出すほど長い後ろ髪も、髪の束がまとまらず、光琳図の流水文のように婉曲しながら流れている。一方、《静》は、烏帽子を頂点として流れる前髪から背中までを一つに流れる黒髪は乱れることなく、まとまりを感じさせる開かれ方をしながら後方まで流れている。ただ、左肩に《花がたみ》同様に一房、髪の線が背中に向けて婉曲して流れている。後方を流れる髪も画面をはみ出すように描かれ、二山の円を描き流れている。乱れた髪の表現は同様ではないが、画面をはみ出すように後方に流れている髪の表現は同様と言える。そして、静の下した左腕の袖の下には、一回転した髪の細い束が描かれている。この髪束は左肩にかかる細い髪束と量と細さが同等であるので、続きのものだと考える。髪の表現、顔の表現を比較してわかったことは、《花がたみ》が狂乱した舞う女性を描いたのに対し、《静》は落ち着いた心境でこれから人前で舞おうと意気込む女性の覚悟の姿だということだ。
続いて、《草紙洗小町》と《静》の髪と顔の表現を比較したい。《草紙洗小町》も《花がたみ》同様に謡曲を題材とした舞う女性を描いた美人画である。本作品は、松園の能の師である金剛巌による「草紙洗小町」の舞台から発想を得ている。
歌合せの会の相手が小野小町だと知った大伴黒主は、小町が会で読む予定の歌を盗み聞きし、万葉集の草紙に書き入れた。会の当日、その草紙を持って歌が盗作だと黒主に主張された小町は、その草紙を水で洗い流したところ、やはり歌はきれいに流れ去り、かけられた疑いは無事に晴らされた。(註九)
というのが本作の物語である。絶世の美女と言われた小野小町は歌才にも恵まれ、『古今和歌集』仮名序で「あはれなるようにて、強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と紀貫之に評されたが、閲歴は未詳で、不幸な生涯を終えたと推定されている。そのためさまざまな伝説が付会されている。(註十)松園は《草紙洗小町》の他にも《小町の図》【図版二十五】を歌仙的に描いている。松園は舞台鑑賞だけでなく稽古によって自ら実践することで、最小限の動作に最大限の心情を込めるという能の特質を理解し、さまざまな手法で画の制作を生かしていく。その中でも本作は、舞舞台姿のうち顔だけを能の面から生身の人間の顔に置き換えて表したもので、舞台芸術としての能と直接的な関連が強いとされる。私は、《草紙洗小町》の顔も人間の顔に置き換えたとされているが、基調は能の女面を参考にしたのではないかと考えている。松園の写生帖の女面と《草紙洗小町》を比較してみると、女面の方が感情の表現が乏しく、実物を正確に描写したように見えるが、《草紙洗小町》はその能面の女面に人の顔の持つ柔らかさと表たおやかな表情を上から重ねて描いたのではないかと感じる。それは、実物写生しただけの能面の表情では、かけられた無実の罪をも清らかさで洗い流してしまう小町の清廉さを表情をつけて表したかったからではないかと感じるからだ。《静》と《草紙洗小町》の顔の描き方を比較してみたい。まず《静》は先の《花がたみ》との比較でも述べた通り、《花がたみ》よりは二作の顔の描かれ方は似通っていると考える。瞳の視線の向きを見ていくと、《静》が舞の構えを取りながら、前方を見据えているのに対し、《草紙洗小町》は舞の最中ではあるが、やや前方に屈めた体を中心に、顔の位置は扇を持った右手と草紙を持った左手と三角形の頂点に位置するような位置に存在する。扇の右手と草紙を両点とした延長線上を射貫くように前方を見据えているような視線が描かれている。そして眉と唇も、薄墨を楕円に描き、赤い紅を差したように同様に描かれている。次に髪の描き方の比較を行う。《草紙洗小町》も後方に長い黒髪を流した髪型が描かれているが、左側の首の付け根から左袖まで一筋の髪が流れ、左袖下に一回りの弧を描いて地に着いている。《草紙洗小町》は舞っている小町を、《静》は舞の構えの静を描いたものだが、似通った描かれ方から、《静》も《草紙洗小町》と同じように能面の女面をモデルに描いた美人画であると考えられる。余談だが、三作品を見て扇のある位置が全て違うのに気づき、扇が時間の位置を表しているのではないかと考えたので舞う女性の扇については別節で比較してみたい。以上、能を題材とした二作の美人画と比較した結果、《静》も松園が実物写生していた能面の女面をモデルとして顔面が描かれていることがわかる。
第三節 白拍子を描いた絵画について
その他に松園が描いた白拍子の絵画は第一節で述べたように、《男舞白拍子》(昭和初期)、《古代白拍子》(昭和十五年頃)、《白拍子図》(昭和十五年頃)、《白拍子》、《男舞》、《静御前》が挙げられる。白拍子及び静の題材は松園の絵画の中では繰り返し描かれたテーマであった。
《男舞白拍子》は《静》と同様水干に緋袴を穿き、太刀を左側の腰に備え、白い水干を黄色と水色の桜模様が描かれた濃い緑色の着物の上に羽織っている。背には大御幣が指されている。そして《静》同様右片膝を着き、腰を地面に降ろしている。しかし、静と異なる点として右手を顎の下に当て、物憂げな視線を前方に投げかけている。また、左袖側に一房の髪が弧を描いて落ち、左袖の頂点から折り返すように緋袴から地面に降りている。そして、右足の緋袴の足元には、手にしていたであろう扇が少し開かれた形で置かれている。
《古代白拍子》昭和十五年(一九四〇)頃
水干に緋袴と《静》《男舞白拍子》と同じ装束であるが、鼓を顔に近づけるように抱き、屈む姿勢を取っている。そして画面に映る姿は《静》が左向きで顔が前方にあるのに対し、《古代白拍子》はやや後ろ向きで右向き、顔だけを前方に向けている。
《白拍子図》 昭和十五年(一九四〇)頃
他の松園の白拍子図とは衣装が違っている。水干を被っているところは同じであるが、背中に流した垂髪を首の付け根で結っている。そして、鼓を腰の位置で手に持ち、身に纏っている装束は、白の狩衣を脱いだ桃色に茶色の花の模様が描かれた単衣と薄い水色の袴の姿である。
《白拍子》
扇を手にし、舞っている白拍子の姿を描いている。水干は被らず、中の着物が透けて見える狩衣を纏っている。この装束は、水干に烏帽子を戴き、白鞘の小刀を腰に差して舞うとされた白拍子の舞装束とは違っている。水干を被らず、鞘巻も差さずに舞ったとされるのは、静の母、磯禅師に纏わるエピソードがあり、筆者は松園の《白拍子図》は磯禅師を描いた物なのではないかと考えている。以下、磯禅師の舞に纏わるエピソードである。
元来白拍子は神に奉仕する楽人が、白衣の水干に烏帽子を戴き、白鞘の小刀を腰に差して舞う男舞であったが、磯禅師はこの烏帽子をかぶらず、鞘巻も差さず、水干を着けただけでたおやかに舞った。だが、それは宴席でのことで、神社が神殿の落成を寿ぎ、雨乞いなどを祈願するときの奉納舞では、本来の姿で舞わなければならない。そのときは師匠の磯禅師がこれを一手に引き受け、門人の静たち白拍子は水干に朱の袴で艶やかに舞った。(註十一)
この磯禅師による話から、松園はこの《白拍子》に水干を被せなかったのではないかと考えている。ちなみに静は磯禅師が白拍子として大成した後に京都北白川で生んだ娘である。ただ、鞘巻は差しているので、真意の程は明らかではないが、松園は他作品でも、必ずしも史実に沿った女性の髪型を描いているわけではない。いくつか作品があるが、一つ例を挙げるとすれば、能の謡曲「葵上」の六条御息所を描いた《焔》がある。光源氏の正妻である葵上に対して激しい嫉妬心を抱くあまり、ついに生霊となってしまった御息所を描いたもので、本作品はその生霊からヒントを得て、女性の嫉妬が焔のように燃え上がるさまを描いているとされる。はじめ題名を「生き霊」としようとしたが、露骨すぎるため「焔」としたという。腰をかがめ、首をかしげながらぬっと振り返るという姿勢、凄絶な顔の表情、霊の消え入りそうなさまを思い起こさせる精緻な頭髪の表現、画面左端にわずかに見える曲がった指先、嫉妬の対象をからめ取るかのような着物の蜘蛛の巣文様という具合に、細部にわたって女性の執拗な念が視覚化されている。嫉妬する女の美しさを描くにあたり、松園は自身の謡曲の師である金剛巌の助言を得て、眼の部分に絵絹の裏から金泥をほどこした。こうして完成した本作品は、唯一の凄艶な絵と松園自身が述べるとおり、その感情表現の激しさの点で、松園芸術において頂点を果たしていると言われている作品である。制作の長いスランプの上に、松園自身もどうしてこのような凄絶な絵を画いたのか不思議に思ったと述べている。激しい情念の絵である。仕舞の師金剛巌の助言を受けた作品で、曲の中で、巫女とシテの対話に、「瞋恚の焔」という言葉があり、己の心に違うものを怒り恨むことを意味し、仏教では三毒の一つとして戒められている。(註十二)ここで描かれている六条御息所は、舞台は平安時代を描いたものではあるが、桃山時代の女性の姿で描かれている。それは垂髪で描くよりも根結い垂髪で描く方が、高く結った黒髪が流れて、たっぷりとした墨を含んで滲んだような髪の表現が出来ると考えた松園の考えによるのではないだろうか。《焔》のように、松園は、こちらの時代の姿で描いた方が、より良い絵が出来ると考えれば、元に伝えられている題材を工夫して、その時代とは違う姿で描く事をためらわない画家である。よって、《白拍子》の髪が水干を被らず、高島田に結われているのも、松園の工夫によっているのではないかと考える。
《男舞》昭和十三年(一九三八)頃
同じく昭和十三年頃に描かれたものが二作あり、薄紫に白い桜が描かれた着物にはっきりとした赤地に金色と青色と薄紅色と薄緑色の線のみで描かれた楓模様の帯の絵画【図版】と、薄墨色に白い桜模様の着物の左肩を脱ぎ、赤に黄色の刺繍の半月模様が描かれた下着が見えている、黒い下地に金の蝶文様が描かれたものの二種類がある。この《男舞》は他の解説した絵画とはかなり違っており、白い水干に緋袴という衣装を身に纏っていない。寛永から寛文期に流行した舞踊立美人図の中に若衆の麗姿を描いた絵画群があり、いずれも花をかざした烏帽子をかぶり、派手な小袖に大太刀と御幣をつけて踊る図様をとり、一般に男舞と呼ばれている。この絵画はその若衆を女性として描いた男装の美人画だと私は考える。
上半身だけが画面に描き出された男装の女性。白拍子のことも男舞という別称で呼ぶが、本作は金の立烏帽子に振袖で、薄緑の透き通った水干を羽織り、太刀をはき、背に大御幣を指している。《男舞白拍子》にも背に大御幣が指されているので、「男舞」という名称が付けられているのだろう。右手は頭の後ろに大きく孤を描くように添え、上げており、左手には扇を持っている。振り上げた右手の先に結ばれた糸が半円形に上を向いていたり、立烏帽子から横顔を通り、顎で結ばれた緋の糸が揺れているので、動きが感じられ、まさに今舞を舞っている最中の場面である。しかし、島田に結われた髪、立烏帽子の中に隠されている前髪に差された四本の櫛、大きく張り出された鬢の上に左右で烏帽子を彩るように飾られた白い大きな牡丹の花、そして瑞々しい薄紅の唇、生え際からほほにかけて薄紅に染まっている頬からは、女性らしさが感じられ、武士の格好を真似て舞う男装姿の中に潜まれた女性の柔らかさや匂い立つ色気が、男装しているからこそ際立って感じられる。松園の白拍子を描いた絵画の中では、本作のみが上半身だけを描いている。だからこそ顔の表情により注目ができる作品である。また、孤を描き上げている右手と、左方から腰に帯びた太刀が上に向いている構図が画面全体で円を描いているように感じられる。
《静御前》 明治三年頃(一九一〇頃)
現存作品の中では最も早い時代の作品と考えられており、静の優しい顔には優しい表情があり、筆致も柔軟で魅力ある画面が構成されているとされる。また他の白拍子を描いた絵画と違い、衣服の線が太い。左膝を立てた状態で座り、羽織った白い水干に隠れた左手で口元を隠そうとしているが、その口元ははにかんでいる。そして後ろに流した垂髪からしどけた髪が肩と顔にかかり、その一本一本の髪の線が丁寧に描かれている。扇は、少し開いた状態で右膝の前に置かれている。他の白拍子画よりは顔の表情が鑑賞しやすく、やはり優しげな女性らしい柔らかさとしどけた髪の毛から色気が感じられる。
以上、松園の白拍子を描いた絵画についてのディスクリプションを行い、その中でわかったことは、
①舞っている場面、舞う前の場面、さまざまな場面を描いている。そして後ろ向き、前向き、クローズアップした上半身のみなど、描き方にはさまざまな視点と角度がある。
②必ずしも白い水干に緋袴の装束だけを描いているわけではなく、桃色や薄紫の着物を纏った白拍子も存在する。
③悲観的な静の生涯の場面を描いた絵画は存在せず、堂々とした余裕さえ感じさせる静像が描かれている。
というものだった。静については他の画家も描いているのだが、それについては第三章の第一節で解説する。そして、ディスクリプションする中で、松園は静の中に女性の毅然さだけでなく、男装させているからこそ更に匂い立つ女性らしさを表現しようとしたのではないかと考えた。そのことについても次章で明らかにしたい。
第三章〈男装としての静〉
これまでの章では一章で、松園の能を題材として描いた美人画について、二章で《静》と一章でディスクリプションした松園の能を題材として描いた美人画について、髪や顔の表現の比較を行ってきた。本章は、では松園が女性の毅然さの象徴として描いたという静御前、白拍子は男装して舞っている女性であることに注目し、男装して舞っている白拍子の女性らしさを松園はどのように表現したかったのかということを明らかにしたい。
第一節静を描いた他作品との比較
本節では、一、二章で解説した松園の白拍子を描いた美人画
静
とどのように違いがあるのかを明らかにするために、まず初めに近代に活躍した他の画家の描いた白拍子の絵画についてディスクリプションを行う。『近代日本画家が描く 歴史を彩った女性達展』(二〇〇〇年、毎日新聞社)に記載されている解説をディスクリプションの参考とした。また、画家の解説は注釈にて行いたいと思う。ディスクリプションして感じたことは、(下これは最後に書く)一人一人の個性が白拍子に反映されており、一人として同じ匂いを感じさせる白拍子はいなかったということだった。
《静御前》橘小夢(註十三) 昭和十年(一九三五)頃 絹本彩色 個人蔵 【図版二十六】
本作は他の静御前を描いた絵画とは大きく異なり、かなり個性的な静である。まず静の象徴ともされる白拍子が描かれていないのだ。舞妓風の桃色に黒の帯の振袖を纏った女性が、白い桜の花弁の舞い散る中、天を仰ぐように見上げている。その後ろには半透明の狐が同じポーズを取りながらまるで背後霊のように寄り添っている。女性に再び注目すると、結い上げた日本髪には大輪の花を思わせる白い花の髪飾りが溢れんばかりに飾られている。裾引きのだらりとした帯と大ぶりな袂が地に広がり、まるで逆さにした花のように女性の周りを水のごとく広がっている。背後の狐とおなじような長く細い手には赤い紐で彩られた鼓を持っている。どうしてこの作品が《静御前》というタイトルを取っているのか謎が残るが、もしかすると悲しい生涯を遂げた静御前が狐の霊となり、舞妓に取り付き舞っているさまを描いたのかもしれない。
作者の橘小夢は狐にまつわる伝承をよく題材としており、狐と女性をセットとして、または狐を面や影などに使用している絵画を多く残している。本作も同じくその絵画である。狐は日本伝説の中では女性の邪悪さを象徴しているとされるので、小夢は静の中に潜んでいた邪悪さを現したとも考えられる。
静の邪悪さはどこかと考えると、それは男を舞で誑かしていたとも考えられる白拍子という職業のことが当てはまるように思う。いずれにしても小夢はこの絵画において、静という女性の中にある穢れた部分も美しさとして描きたかったのだろう。
《静御前》橋本関雪(註十四) 明治二十九(一八九六)年 【図版二十七】
吊り上がった細く小さな眼をした静が、夜着に衣をひっかけただけの状態で、脇に涼てで鎧を抱えながら今にも走り出そうとしている様子が描かれている。ここで描かれている静は義経が土佐某昌俊の夜襲にあった際に機転を利かせて救った場面である。この静を描いた時の関雪は、まだ十三歳という若さだったが、十二歳の時すでに時第四回内国勧業博覧会場で席上揮毫をし、見物する人を感嘆せしめたほどの実力の持ち主であったという。
この静は、男装して戦ったとされる木曽義仲の妻である巴御前を描いたものともされているが、箱書きから静御前を描いたものとされている。
唇に注目すると、松園の《静》とは違い、歯をむき出しにし、突然の夜襲への怒りや、機転を利かせて義経を救おうとする決意の感情が感じられる。静が舞う女性としてだけではなく、頭の回転の早い女性であったことがわかる。白拍子姿の静を描いたものではないが、静の別の一面を描きだした絵画である。
《静決別之図》安田靫彦(註十五) 明治十(一九〇七)年頃 【図版二十八】
安田靫彦が描いた静は吉野で義経と生き別れる静の姿である。『義経千本桜』では、桜の季節になっている場面であるが、本作は史実に基づき、雪の吉野となっている。義経から渡された朝廷より拝領した初音の鼓を手に悲しみに耐える静を優しく見つめながら別れをつげる場面を描いている。義経が優し気なほほえみを浮かべているのに対し、白い衣で頭から全身を包んだ静の、俯いた表情は暗く悲しげである。そして従者が一人、静の元についており、静同様、義経に跪き別れの言葉を受けている。義経の足元の雪は、義経の体の重みを感じさせる窪みが出来ており、この先亡くなってしまう義経の生の証をより一層際立てているように感じる。
この絵画でも、白拍子の姿をした静を描くのではなく、義経の愛妾としての静を描いている。なので白拍子の装束はしていない。
近代の他の画家の静をディスクリプションしてわかったことは、必ずしも白拍子姿の静を描いているわけではなく、静の生涯の中の一場面や自分のイメージの中の静像を描いている画家が多いということだった。静=白拍子という認識だけではなく、広い視野を持って静という一人の女性を描こうとしている画家が多い。
その中で何故松園は静の白拍子姿にこだわって描いたかという疑問が残るが、やはり、女性の毅然の象徴としたということは、人前で舞う姿に最も毅然さを感じたということではないだろうか。そして男装して舞う姿にこそ、その中に強調される女性らしさを感じたのではないだろうか。松園の白拍子には、他の画家に見られる女性の悲しさが感じられない。それどころか、毅然とした美しさのみを放っている。
第二節静以外の白拍子を題材とした他作品との比較
平家物語の中に登場する白拍子は静の他にもいる。本節では静以外の白拍子について
解説と近代で題材として描かれた絵画についてディスクリプションし、静との差別化を図る。
《仏御前》菱田春草(註十六)明治三十九年 【図版二十九】
平家物語の登場人物で平清盛に寵愛を受けた白拍子である。仏についても実在の人物とされている。描かれた仏は、静のように白拍子姿をしておらず、単衣に白い衣が頭から足元まで羽織るように包まれている。一女笠に杖を手に持ち、白い被布をかずいた旅姿で、月夜の嵯峨野原をうつむき加減に歩く仏が描かれている。仏の物語は「祇王祇女に代わって平清盛の寵愛を得たのは、僅か十六歳の白拍子仏御前であった。しかし、その恩人を嵯峨野の奥へと追いやってしまったという罪の意識に心をさいなまれた仏は、やがて清盛の元を去る。都を去った仏は祇王祇女が結んだ庵へと向かい、剃髪して二人と共に暮らした。」というものである。仏御前はその他にも渡辺省亭の《嵯峨野(仏御前の図)》(明治末頃)【図版】にも題材として描かれているが、やはり、清盛の元を去る旅姿が印象強いようで、こちらもその姿で描かれている。
《祇王祇女》木村武山(註十七)明治十一(一九〇八)年【図版三十】
平清盛に寵愛を受けた白拍子の姉妹。実在の人物と思われるが、経歴は判然としない。江国野洲郡江部荘の生まれとされている。
彼女たちの物語はこうである。「平清盛の寵愛を一身に集めた白拍子の祇王とその妹祇女は、やはり、白拍子であった仏御前の出現により寵愛を奪われ、世の無常を感じて母と共に出家して京都嵯峨野の奥の庵を結ぶ。その庵近くの秋草が生い茂る山中で、仏に供える花を探す二人の尼、祇王祇女の様を描いたのが本作品である。都で華やかな生活を送っていた二人にとって、人里離れた土地での女性だけの侘しい暮らしは、寂しく辛いものであった。」
本作では寵愛を逃した祇王祇女が嵯峨野の奥に出家した姿を描いている。数珠をいの手に固く口を結び、愁いをたたえた女性の表情と、右側の女性の後ろ姿は悲しみに満ちている。
仏御前、祇王祇女の絵画を見てわかったことは、清盛側にも静と同じように白拍子の愛妾がいたということと、白拍子姿で描かれた絵画は無いということだった。これは、白拍子の装束=静という認識が日本美術界や世間一般で強いということであろう。
第三節白拍子を含む男装
白拍子とは、女性が男装をして舞っている姿をしている。本節では、白拍子という職業の男装について考えてみたいと思う。それには女性の売淫の歴史を辿ることが必要である。『女の歴史と民族』(赤松啓介著、上野千鶴子解説、明石書店、一九九三年)の中で赤松啓介氏は、「昔、原始氏族社会が解体したとき、また原始的な宗教観念と儀礼も変化したので、これまで神を祭り、神を司っていた巫女も神殿から追放される。神殿から追放された巫女はまず生きるために歌を唄い舞を踊った。かつて彼女達が神を慰め、楽しませるためにした儀礼は、こうして人を和げ遊ばせるための芸道に転化する。しかるに奴隷制社会の成立とともに、これまで社会的地位の極めて高かった女性が、家父長制の下に自由を失って呻吟するようになり、その一夫一婦的扮装にもかかわらず、事実上の多夫制が広く行われるようになった。いいかえると富裕な男子は、一夜妻を自由に求められるようになったのである。かくて巫女が芸能人となり、更に売笑婦となるのは、必然の道であったのだろう。かくて巫女が芸能人となり、更に売笑婦となるのは、必然の道であったのであろう。」と語っている。この論を受け、考えると白拍子の神聖さも元々神職の巫女から来ているのではないかと考えられる。白拍子の古くは巫女舞から来ていると考えられており、神事において古くから男女の巫が舞を舞うことによって神を憑依させた際に一時的な異性への「変身」の作用があると信じられていたというからだ。さらに詳しく白拍子について、赤松氏はこう述べている。
「荘園制社会が崩壊に近づき、地方の武士階級へ政権が移り始めると、関東・西海の武者達が京へ往復する機会も盛んになった。彼等は歩行ないし騎馬したのだから、毎夜毎夜の旅宿に売笑婦を求めるのも当然だろう。かくて京へ上る重要な街道の宿駅や港津には遊女宿が発達し、彼女達を指揮・統制する遊君の長者も現れた。有名な武将ともなれば各宿駅毎に特定の遊君を囲い、その生活を保証するとともに独占している。現在のヤミ屋が各地へ妾宅を置くように、かえって安上がりでよかったからだろう。明日の生命が分からない源平時代の武士にとって、一夜の慰みも欠かせなかったらしく、それだけ遊君の繁盛も驚くべきものがあった。著名な惡源太義平も、浦生の冠者範頼も遊女の子であるし、当時の系図には父親の認知した遊女の子が多い。(中略)都では白拍子が全盛であった。彼女達は肉体よりも舞芸を表面にたてたようであるが、しかし結局は公卿や武士の慰み物となって生活をささえている。」さらに氏は、戦国時代の出雲の阿国を出し、「出雲お国は京の四条河原に舞台を作って、後の歌舞伎芝居の源流となったが、また彼女達は古い白拍子の伝統を汲む者というべきであろう。」と述べている。このように神職の女性から始まった白拍子は、芸事と色を売る者の源流の一つに連なって、その後の歴史の芸能の女性達の発生源ともなっている。
現在では、少女漫画『ベルサイユのばら』【図版三十一】(池田理代子、集英社)(註十八)や、『風光る』【図版三十二】(渡辺多恵子、小学館)(註十九)など史実を元にした作品で職業や相手を欺く為に男装するヒロインの姿を描いている作品が多く見られ、宝塚歌劇団など、女性だけの歌劇集団で、男役を男装した女性に演じさせ、観客から黄色い声を浴びるなど、男装は表現の一種として、日本の文化の中に息づいている。現代の男装の表現について考えると、その起源が白拍子などの芸能から相手を悦ばせるために発していたことは、売淫色が無くなったとはいえ性同一性障害の事を除くと同じ芸術の一つであり、職業選択の為の一つであると言えるだろう。そして何より女性が社会の中で生きる為の手段の一つであると言える。
また、静御前の生涯を一つの物語として考えると、男装をした主人公の物語とも捉えられる。なので、男装主人公が登場する物語であるその他の物語との比較を行い、ストーリー上で静の男装の独自性と、その男装が物語にどのように関わっているのかという事を考えてみたい。松園は白拍子以外にも男装をした女性の美人画を描いており、《お万の図》という絵画がある。なので、他の松園作品との比較として《お万の図》と、同じ鎌倉時代に男装していた史実の女性である巴御前と、そして日本の男装ヒロイン少女漫画の元祖と言われている「ベルサイユのばら」(池田理代子、集英社、全十巻、一九七二~一九七三年)との比較を行いたい。
《お万の図》一九一五(大正四)年 名都美術館 【図版三十三】
「寛文年間に流行した、薩摩の国のおまんと源五兵衛の心中事件を歌った源五兵衛節をもとに、井原西鶴が創作した『好色五人女』巻五恋の山源五兵衛物語」をモティーフとしたもの。ここに描かれるのは、衆道の契りを結んでいた若衆二人が相次いで急死してしまったことから世を虚しく思い、出家して草深い山奥に籠った源五兵衛のことを前々から慕っており、思いを遂げるために若衆姿になった琉球屋の娘のおまんである。
足元にいちょうの葉と菅笠が見えることから源五兵衛のいる草庵に向かう途中であることが分かる。一人で外出などしたことのない大店のお嬢様が、険しい野道を行くことは容易なことではなく、生い茂る野草に足をとられてよろめいてしまったのであろう。だが、その表情には、怖れや迷いの影はみじんも感じられず、うるんだような瞳とうっすらと開かれた唇からは、これから恋しい源五兵衛に逢えるという期待で胸がいっぱいになった乙女の喜びが伝わってくるのみである。」という物語である。
この物語のお万という女性は愛する源五兵衛という男性に会う手段として、男装をしている。髪型も静が女性の髪型のまま男装しているのに対し、お万は若衆髷をしている。そして腰には帯刀しており、その刀をよろけたままの格好で、抱き締めるように大切に抱いている。しかし、柔和な顔立ちや薄赤い唇、けぶるような髪の生え際、灰色の着物に描かれた青と薄紅の桜の模様からは女性らしさを感じさせる。
静が職業として、また鑑賞される対象として男装していたのに対し、自分の目的の為の手段として人を欺くための男装がこの物語と女性である。
《巴》尾竹国観 昭和五(一九三〇)年【図版三十四】
物語の参考画像として尾竹国観の描いた《巴》を登場させた。
巴御前は平家物語の登場人物である。平安末期の女性で、(木曽宮郡日義村宮越)の中原兼遠の娘とされている。のちに近江打出の浜で戦死した今井兼平、樋口兼光の姉妹ともされている。平家物語の中で巴の活躍が語られている場面があるので紹介したい。
「木曾殿は、信濃より、巴・山吹とて二人の便女(美女)を具せられたり。山吹はいたはりあッて都にとどまりぬ。中にも巴は、いろしろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり。ありがたきつよ弓・精兵
(せいびょう)、馬の上、かちだち、うち物もッては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵(つわもの)也。究竟のあら馬のり、悪所落し、いくさと言へば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々の高名、肩を並べるものなし。されば今度もおほくのものども落ちゆき討たれける中に、七騎が内まで巴は討たれざりけり。
すなわち、義仲は寿永二年(一一八三)七月の入洛後、わずか半年にして後白河法皇と対立し、寿永三年一月、東国の源範頼・源義経勢の攻撃を受けて、粟田口から京都を落ちた。前年信濃を出た時には五万余騎であった義仲軍は、粟田口から山科の四宮河原を過ぎた時にはわずか主従七騎になっていた。「木曾最期」の段の冒頭、巴が登場する場面で「七騎が内まで巴は討たれさりけり」とあるのは、そのことを説明する部分である。瀬田橋(勢多橋)の守りを固めるため出陣していた今井兼平(義仲の乳母夫中原兼遠の子)と琵琶湖畔の大津打出浜において再会した義仲軍は、範頼軍の一条忠頼の軍勢と激しい戦闘になる。一条軍は六千余騎、対する義仲軍は兼平の手勢を加えて三百余騎、それが戦いの結果、義仲勢は主従五騎になってしまった。
義仲軍の一方の大将として活躍してきた巴は、打出浜における東国勢との戦闘の結果、主従五騎になるまで討たれなかった。五騎の中に残った巴に、討死することを覚悟した義仲は戦場から落ちゆくことを勧めた。「おのれはとうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死にせんと思ふなり。もし人手にかからば、自害せんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなンど言はれん事もしかるべからず」と。すなわち、討死を決意した義仲は、巴に対し、おまえは女だから、戦場を離脱してどこへでも行け、と勧めたのである。その理由として義仲は、木曾殿が最後の戦に女を連れて討死させたといわれるのはよろしくないと述べているが、義仲の言葉の背後には、巴を戦死させたくないという気持ちもうかがえるのであろう。
しかし巴はなおも落ちて行かなかった。が、義仲から早く落ちろとあまりにもいわれるので、よい敵と最後の戦をしてみせることを決意した。そこへ、武蔵国大里郡の恩田八郎師重という大力で聞こえた武者が三十騎ほどで現れた。巴はその中に駆け入り、恩田師重に馬を押し並べると、むずと組んで師重を馬から引き落とし、自分の乗っている鞍の前輪に押しつけて身動きさせず、その顎をねじ切って捨ててしまった。その後、巴は物具(鎧・兜)を脱ぎ捨て、東国の方へと落ちていった。以上が『平家物語』に登場する巴の姿である。巴は『平家物語』に現れず、杳としてその行方を断った。」
尾竹国観は、戦支度をする巴を描いている。鎧兜をつける巴の表情は凛々しく艶っぽく、手前に置かれた櫛、簪や右上に見える藤模様の着物は、女性としての巴を強調しているとされる。
巴の男装姿は、戦場で男性と同等に戦う女性戦士の姿である。巴はもともと男装をしなくとも大力の女性として知られていたが、鎧兜を身に着け、男装をして戦場に参戦することで、男性と対等に戦うという意志表示の意味も込められていると私は考えている。男性の中に混じり、同じ鎧兜を身に着けることで、戦場の中の戦士の一つと混じり、死を覚悟した衣装という意味での男装であると感じる、静御前と同時期に生きた女性であり、同じように男装をして表舞台に立った女性である。静と男装の比較をすると、戦う為と、舞う為という意味は違っているが、表舞台に立って人に見られる格好であるという所は同じである。そして、静が白拍子として宿敵頼朝の前で舞ったことを考えると、巴同様、静も形こそ違うが、戦う為の衣装であっただろう。
これまでの二人は日本の女性である。次は現代の少女漫画の中で男装ヒロインとして描かれている登場人物と比較をしてみたい。男装ヒロインの代表としてフランス革命時に活躍した男性をモチーフとして描かれた、「ベルサイユのばら」(池田理代子、集英社のオスカルについて比較を行う。オスカルを選んだ理由として、西洋のフランスが舞台であることとで、日本の女性である静との比較が出来ることと、史実をモチーフとしていることが挙げられる。
「ベルサイユのばら」(池田理代子、全十巻、集英社、一九七二年~一九七三年)はマリー・アントワネットとオスカルという男装の軍人をダブル主人公の人生を描いたフランス革命前からフランス革命前期を舞台にした集英社マーガレットで連載された少女漫画である。
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、幼い頃から男性として育てられた男装の麗人で、近衛連隊長としてマリー・アントワネットの護衛を務めていたが、フランス衛兵隊に異動した後、フランス革命に際し民衆側に就き、バスティーユ襲撃に参加し、戦死する。
フランス王家の軍隊を統率してきたジャルジェ伯爵家の娘で、フランソワ・オーギュスタン・ド・レニエ・ド・ジャルジェ将軍とマリー=アンヌ・ルイーズ・ド・ブルセ・ド・ラ・セーニュとの六女として生まれる。ジャルジェ将軍が男児に恵まれなかった為、後継者とすべく男として育てられた。ウェーブのかかった豊かな金髪とダークブルーの瞳を持ち、颯爽とした美しさで、しばしば婦人達の恋慕の対象となる。正義感が強く、男性・軍人としての自分と女性としての心の間で苦しむ。
フランス王妃マリー・アントワネットの寵愛を受け、若くして近衛士官となり准将にまで進級する。王妃に誠実に仕えるが、民衆の苦しみを目の当たりにして、自らのなすべき道を模索し、やがて自らの信念に基づいて近衛隊を辞し、フランス衛兵隊のベルサイユ常駐部隊 長に就任する。フランス革命の勃発に際しては、爵位を捨て一市民としてバスティーユ襲撃に参加する。その際被弾し、要塞の陥落を見届けて戦死した。
オスカルの男装は、生まれながらに親から決められたものである。そして、軍人という職業の為のものであった。しかし周りからの性認識を男性という認識を持たせていたわけでは無く、彼女は女性のジェンダーとして周りに認識されていた。逆に相手を自分とは別人だと思わせる為に女性の姿を見せたシーンがあり、それが初恋の人であるフェルゼンの前でドレス姿になった場面である。【図版三十五】この時のオスカルは本来女性であるにも関わらず、女性の姿で現れた方が自分自身だと気づかれないという状態になっている。つまり、オスカルにとって、男装姿をしている女性だという事がアイデンティティだと分かる。この事を静御前で考えてみるとどうだろう。静御前の場合は、白拍子姿が世間では静御前のアイデンティティとなっているので、白拍子姿=男装姿が静御前のアイデンティティとなっているとも言え、オスカルと同じ状態である。ただ、静御前の場合、舞を舞う以外は女性の姿をしているので、普段着=女性の服装である。これは普段着=男装のオスカルとは違っている。オスカルの例を取ると、服装で自身と認識してもらえる男装ということがわかる。
これまで史実の女性や漫画の中の男装ヒロインなどと静御前の男装を比較してわかった静御前の男装は、静が職業として、また鑑賞される対象として男装していたこと、世間が静を認識している姿、公としての男装であるということであった。また、男装という服装の形態は、軍服や普段着、鎧兜などさまざまであるが、舞姿として神に奉仕するための水干姿での男装は静を含む白拍子だけであると言えるだろう。
第四節 松園の白拍子の独自性
これまで松園の他の能楽を描いた絵画、松園の白拍子を描いた作品、他の画家が描いた白拍子を比較対象として解説しながら見てきた。その中で松園の白拍子を描いた絵画の独自性とは何であったろうか。
それは、白拍子を男性に色を売りながら舞う悲観的な存在として描いたのではなく、松園らしい柔らかい筆致を持ちながら、男装姿の中に女性らしさを見出し、女性の毅然とした対象として描いていたことではないだろうか。松園の描いた白拍子は皆、瑞々しい赤い唇にはにかんだ微笑を浮かべている。松園が繰り返し白拍子を描いてきたことも、松園の目指していた女性像が毅然とした美しさであったことを思えばうなずける。終章 〈男装して舞うこととその意義〉
結論と今後の課題
先日、日本舞踊を幼少時から習い続けている文学部在学中の二年生の二十歳の女生徒に、舞を舞っている時の心理状況と舞に感じる女性性についてインタビューを行った。
「舞踊の心理状態は、まず完全に覚えて振りが身につくまでは『次はこう、その次はこうして…』など、次の動きを思い出したり、より良く見せるために少し品やちょっとした首や手の角度を変えてみようなどと考えています。次に踊りがこなれてから、曲を聴いたり読んだりして深く理解・解釈します。が、実は私は舞踊時に時々感極まった振りの時や思考する余裕がある時にしか曲中の人にならねばと思い立ちません。実際はほとんど何も考えず、憑かれたように踊っていますが、最終的には振りも曲の感情・情感も全て体に染み込ませて、余分なものを剥いだ無我の境地で踊るのが、不自然さがなく、最高だと思います。また、曲中の人になりきると言いましたが、なんとも言い難いですけど、感情を出すこととは違います。
舞に感じる女性性は、例えば基本的に日舞(女方に限らず中性的な日舞でも)では、摺り足は常に内気味で、腕を肩以上に挙げることが少ない点などに現れていると思います。日舞は女性が踊ることが多いので、基本の型が女性を見苦しく見せないようになっています。腕をあまり挙げないのは袖がずり落ち、腕が見えるのを避け、また髷にぶつけない為です。男踊り以外はあまり体、特に手足は大きく動かしてはいけませんが、上体や手首などを代わりにかなり動かすので、身体の柔らかさが求められ、私自身そこまで認知していませんが、女性の身体性と装飾による振りへの影響の強さは計り知れないです。」という答えだった。
日舞と白拍子の舞は舞い方の違いこそあれ、実際に舞を日常的に舞っている彼女の意見は大変貴重なものだった。実際、松園も縮図帖に日舞の縮図を残している。【図版三十六】それは、松園が日舞を舞う女性から、舞の中の女性らしさを見出そうとしていたからだろう。そして、舞を舞うということは、何かに憑かれたように、無我の境地で、日常の自分の意識とは違う自分の意識になれるものである。この意見を踏まえ、では、男装して舞うことはどのような意義があるのだろうか。これまで、松園の《静》を中心に、描かれた舞の比較や男装の意味合いの比較を行った。その中で私は、男装して舞うということは、本来の性である女性という性から解き放されつつも、違う性を演じることで、舞っている最中は女でも男でもない無性の状態となり、舞を舞い終わった後に自身の中の女性性をさらに一層際立てる、それが男装して舞うことの意義ではないかと考えた。今回、松園の舞を描いた作品をディスクリプションしてみて分かったことである。
今後の課題として、他画家の描いた能楽の絵画をより深く研究していくことはもちろん、女性画家の描いた舞と男性画家の描いた舞の絵画にどのような違いがあるのかということも課題としていきたい。そして、女性の舞を描いた絵画の他に、男性の舞を描いた絵画の研究や、男装の歌劇である現代の宝塚や、映画作品の中での男装など、絵画だけではなく、実際に男装して演じている現代の表現も追求していくことが必要ではないかと考える。本論文が松園を含む白拍子の絵画の研究、男装研究に少しでも役立つことを願っている。
主要参考文献
・ルドルフ・M・デッカー『兵士になった女性達―近世ヨーロッパにおける異性装の伝統―』法政大学出版局 二〇〇七年
・武田佐知子「衣服で読み直す日本史―男装と王権―(朝日選書六〇一)」朝日新聞社
・押山美知子『少女漫画ジェンダ―表装論―〈男装の少女〉の造形とアイデンティティ―』彩流社 二〇〇七年
・佐伯順子『女装と男装の文化史〈講談社選書メチエ四五〇〉』講談社 二〇〇九年
・中田耕治『冒険する女の世紀 男装の女性史』新書館 一九八三年
・上村松園『青眉抄・青眉抄その後』求龍堂 二〇一〇年
・白洲正子 吉越立雄『お能の見方』新潮社 一九九三年
・脇田晴子『能楽の中の女たち』岩波書店 二〇〇五年
・志村貴子『放浪息子』全十五巻 エンターブレイン 二〇〇二年~二〇一三年
・さいとうちほ『とりかえ・ばや』一巻~六巻 小学館 二〇一二年~二〇一五年七月八日
・脇田晴子『日本中世女性史の研究-性別役割分担と母性・家政・性愛』東京大学出版会 一九九二年
・馬場あき子『鬼の研究』三一書房 一九七一年
・森本繁『白拍子 静御前』新人物往来社 二〇〇五年
・東京国立博物館、京都国立博物館『上村松園展』 日本経済新聞社 二〇一〇年
・『近代日本画家が描く 歴史を彩った女性たち展』毎日新聞社 二〇〇〇年
・金剛巌『能と能面』創元社 昭和五十八年
・荒俣宏『髪の文化史』二〇〇〇年
・村田孝子『結うこころ 日本髪の美しさとその型』ポーラ文化研究所 二〇〇〇年
・『静御前の伝承と文芸』内藤浩誉 國學院大學大学院 二〇〇四年
・山種美術館『特別展 上村松園 生誕一四〇年記念 松園と華麗なる女性画家たち』二〇一五年
・池田理代子『ベルサイユのばら』全十巻 集英社 一九七二年~一九七三年
・渡辺多恵子『風光る』一巻~三十七巻 小学館 一九九七年~二〇一五年
・加藤類子『もっと知りたい松園―作品と生涯
アート・ビギナーズ・コレクション
』東京美術 二〇〇七年
・上村松園『青帛の仙女』同朋舎出版 一九九六年
・赤松啓介(著)・上野千鶴子(編)『女の歴史と民俗』明石書店 一九九三年
・若桑みどり『お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』ちくま新書
二〇〇三年
・ジョルジュ・ヴィガレロ『美人の歴史』藤原書店 二〇一二年
・鎌倉市鏑木清方記念美術館『鎌倉市鏑木清方記念美術館 開館十五周年記念図録 鏑木清方名作集』文化堂印刷株式会社 二〇一三年
・細川涼『平家物語の女たち:大力・尼・白拍子』講談社 一九九五年
・中村圭子『橘小夢:幻の画家謎の生涯を解く』河出書房新書 二〇一五年
論文
・戸張泰子「上村松園『花がたみ』に関する考察」女子美術大学研究紀要 (33) 二〇〇三年
・吉村佳子「上村松園『焔』に見る藤と蜘蛛の巣文様」服飾美学(48)二〇〇九年
第一章
註一 横浜能楽堂舞台一四〇年祭 横浜能楽堂企画公演「明治八年 能楽堂の曙光」二〇一四年より
註二 『上村松園展』二〇一〇年 日本経済新聞社より
註三 特別展 上村松園 生誕一四〇年記念『松園と華麗なる女性画家たち』より註a 註四 金剛巌「能面と松園さんの絵」『國画』昭和十七年四月号より
註五 上村松篁「母を憶う」『上村松園画集』講談社、一九九二年より
第二章
註六 前掲註二
註七 前掲註二
註八 前掲註二
註九 前掲註二
註十 島田康寛「近代の日本画家が描いた歴史と文学の女性たち」より
註十一 森本繁 『白拍子 静御前』新人物往来社 二〇〇五年より
註十二 加藤類子『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい上村松園 生涯と作品』三十二ページより
第三章
註十三 秋田県生まれ。川端画学校で日本画を学ぶ。大正4年から博文館の『淑女画報』『女学世界』に挿絵やコマ絵を描きはじめ、その後から愛好家向けに日本画を分布しはじめた。大正末~昭和初期には挿絵で活躍。版画作品も多く出版しており、大正12年(1922)に三栄社、昭和7~10年(1932~35)頃に夜華異相画房と名づけたアトリエから、版画を発表した。また小夢は、狐にまつわる伝承をよく題材としていた。
註十四 明治十六年(一八八三)神戸市に旧明石藩漢学者の子として生まれる。本名成常、後に関一と改める。明治四十一年第二回文展に初入選。以後出品してしばしば受賞し、大正五年の第十回、翌年の第十一回文展では連続して特選となった。大正八年に帝展審査員に挙げられる。漢学の素養があり、中国古画を研究して中国古典に取材した作品を多く描いているが、同時に四条派の伝統的画題である動物画もよくした。また四条派と南画に写実味を加えた独自の画風を開拓する。大正十年と昭和二年には渡欧していて、昭和十二年帝国芸術院会員となる。昭和二十年(一九四五)狭心症のため死去する。
註十五 昭和期の日本画家。歴史画家で法隆寺金堂壁画の模写にも携わる。
男装の美術史 木谷日向子 @komobota705
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