Aged Beat Change~老人は時を刻む~

おこげ

第1話


 男の五感が最初に捉えたのは天井を突き破るほどの声援だった。


 むせ返るほどの熱気と興奮に満ちた会場で彼、龍崎昇りゅうざきのぼるはいた。



 武道の聖地として人々の心を動かした2020年。


 日本武道館。


 彼は今、空手日本代表としてそこに立っている。


 八月六日。

 組手試合。階級は【-67kg級】。



 「ついに……



 昇の姿に拍手が湧く。それは甘く痺れるような感覚となり彼の心を震わせる。


 すぐにでも暴れたい、そんな闘争心を歩く度に擦れる胴着の音がなだめる。



 『お爺ちゃん――』


 突如それは聞こえてきた。


 『次は準決勝だね。勝てばついに決勝だよ』


 若い少女の声だ。


 周囲の喧騒をものともせず穏やかな声が響く。


 だが声の主はそこにはいない。

 そして『お爺ちゃん』という言葉。


 『ようやく過去との決着が付けられるね』


 「マコよ、分かっとるなら黙って観ておれ」


 昇の声は歓声に掻き消された。




 世界は宇宙が繰り返し見続けている“夢”であると証明された現代――人々は己の生きる時間を行き来する術を得た。


 龍崎昇は今、若き日の己の肉体に意識を移している。

 それは孫娘のマコが過去を悔やむ祖父に与えたチャンス。


 歴史に綴られるも人ひとりの力では決して触れられなかった可能性パラレルの世界。記憶のページを辿り、老人は忘れてきた青春を取り戻しに来た。


 約束を果たすため。




 試合エリアの端に立つ。対岸にいるのは対戦相手のムフタル。OSオリンピック・スタンディングで圧巻の戦績を収めた強者だ。


 赤い帯と防具を身に着けた昇と対照的に青を纏うムフタル。


 審判の声に従い正面に一礼。続いて選手に向き直り礼を交わす。


 選手がエリア内に入り、副審の四人もエリアの外角にそれぞれ向かう。


 副審たちが手に持つのは赤と青の旗。主審と共に公正なジャッジを下すためのものだ。


 試合は三分間。勝敗は試合中に八点差となるか、試合後の点差で決まる。反則・失格・棄権も同様で、同点の際は先取先制点を得た方の勝利となる。



 「勝負……はじめっ!」


 合図と共に両者が構える。



 ムフタルは一般的な右構えオーソドックスだ。左脚を前にゆったりと腰を落とす。前拳である左腕は胸よりも下に構え、引き手の右腕で隙をカバーしている。相手の出方を窺いながら戦う彼らしい構えだ。


 対して昇は正反対の左構えサウスポーで、歩幅は狭く足先は相手に向けられている。威圧的なてのひらが相手の視界を遮る。



 昇が何度か牽制するも相手は素早く距離を取る。反撃を考慮して無理な深追いはできない。



 膠着状態が続く二人だったが。


 「やめっ!」


 主審の制止が入った。


 不活動による反則行為だ。


 これは一定時間内に有効な攻撃を両者が示せずにいた際に生じる。反則行為はCカテゴリー1とC2に分かれており、行為が累積する毎に忠告、警告、反則注意、反則と呼び名が変わる。



 『睨み合いなんかしてないでもっと攻撃しなくちゃ!先に攻めたもん勝ちだよ』

 

 頭の中で反響する野次マコの声援に呆れる昇。


 粘り試合は観る側にすれば地味で面白みに欠ける。

 だが選手にはその一挙一動こそが重要なのだ。相手の癖や弱点を探り的確な一撃を浴びせる。不用意な攻撃は己の窮地を招くだけだ。



 両者に忠告が入り試合は再開する。



 先に仕掛けたのはムフタルだ。


 距離を詰めながら彼は前拳に意識を向ける。

 牽制しつつ徐々に高さを付けて……踏み込んだ!


 素早い刻み突きが昇の人中を狙う。


 だが昇は半歩、上体を後ろに反らすと突きを外側へ払った。


 ムフタルの顔が強張る。 


 すぐさま昇は相手に近付き前脚を彼の内腿へ滑り込ませた。そのまま外側に軽く押し込むと彼は為す術なく背中から倒れた。

 過度な接触や投げを禁止する伝統派空手らしい見事な崩しだ。


 主審の制止と共に赤旗が一斉に上がる。


 無防備な相手への突きが一本――即ち三点を取ったのだ。


 湧き上がる会場。マコは声を上げて喜び、昇も思わず頬を緩めた。


 だがそれが油断を生んでしまう。


 試合再開と同時にムフタルは一気に攻め込んだ。


 本来なら冷静に対処できた状況に昇は迂闊にも息を呑む――。


 その隙が相手の上段回し蹴りを招いた。


 青旗が昇を見下ろす。


 一本。


 ムフタルの雄叫びのような歓喜が場内に轟く。


 『バカーっ!』

 マコも叫ぶ。


 大丈夫、振り出しに戻っただけだ。


 罵声を無視して昇は努めて平静を保とうとした。


 だがすぐに斬りつけるような蹴りの連続が彼を襲う。


 ムフタルの真の強さはその巧みな脚捌きだ。小柄な体躯から繰り出される蹴りは秀逸で見る者を唸らせる。


 どんなピンチも始めは小さな綻びからだ。


 やがて焦りから放った刻み突きは読まれ、昇は後ろ回し蹴りを受けてしまう。


 「青中段蹴り、技ありっ」



 残り一分強。


 まだ時間はある。落ち着いて打ち込めば心配などない。


 呼吸を整え、反撃に出る。


 昇が構えを変えた。歩幅を広げ、前後に揺れる不規則なステップで相手を翻弄する。

 警戒心が強い選手ほどペースに引き込む、昇の得意技――。


 深く腰を落として昇が前へ踏み込む。

 冷静にムフタルは後方に身を引いた。


 それが罠だと知らずに。


 昇の引き足が前進する。

 滑車の如くなめらかに地を走る。


 何が起きたのか、ムフタルはすぐには理解できずにいた。


 突然相手の顔が近付いたかと思えば、既に突きを喰らっていたのだ。


 追い突きである。


 本来無駄な動作を棄てるのが効果的な技だが、昇のそれは違う。


 執拗な牽制で相手を警戒させた後、低い位置から反り上がるように放つ。“昇り龍”とまで称された独自の突きだ。


 有効が入り、点差は一点に縮まる。


 だがそんな昇にマコだけが不満を漏らす。


 『ねぇ、どうして蹴らないの?』


 無神経な言葉に頬が引き攣るも、昇は素知らぬふりをした。


 あと40秒。


 まだ大丈夫。


 大きく踏み込み牽制する。だが流石はトップ選手、簡単には動じない。おそらく“昇り龍”はもう決まらないだろう。


 『私知ってるよ、蹴らない理由』


 昇は構えを戻した。リズムに乗った安定的な動きで攻め込む。


 『恐いんだよね』


 激しい攻防に額から汗が噴き出す。


 不意に脳裏を掠める記憶。


 昇の意識は真なる過去を視た――。


 一本を狙った上段蹴り。

 拳を構えるムフタル。

 脚を絡め捕った拳防具サポーター

 体勢を崩し、そして――。



 『また怪我して棄権するのが恐いんだ』


 ハッとする。


 相手の拳が迫っていた。

 昇は間一髪で回避し、そこでチャンスを見る。

 ムフタルの頭部がガラ空きだ。今なら蹴りを浴びせられる。


 だがあの時の恐怖が昇の心を怯ませた。


 直後、昇は深い海の底を見ていた。

 恐ろしく静かで凍えるほどに寒い闇。


 気絶していたと気付いた時には、昇は大の字で倒れていた。

 時間にすればほんの数秒でしかない。

 だがそれは彼の決意を鈍らせるには充分すぎる空隙くうげきだった。



 どうせ一度は潰えた約束だ。


 昇は刹那の日々を瞼の裏に映していた。


 あの日、足首の靱帯を断裂しながらも彼はムフタルに勝利した。

 だがその無茶は決勝を棄権する決定打にもなった。


 入院先で重厚な鉄箱に押し込まれたように消沈していた昇。


 そんな彼の元に一通の手紙が届いた。


 決勝相手であったケニー・エイメからだ。


 “いつか必ず オリンピックで”


 その一文は昇の心を激しく揺さぶった。

 自分との試合を心待ちにする者がいる。何年経とうと何歳いくつになろうともオリンピックの地で……。


 昇の眼には再び生気が満ちていた。

 そして誓ったのだ、約束は必ず守ると。


 そこから二人の交流は始まった。ショーとケンと呼び慕い、時に口頭で時に拳で語り合いながら、再びオリンピックが開かれるのを待ち続けた。


 だがそんな昇の希望は東京五輪から五年後の自動車事故に打ち砕かれる。


 腰から下の完全麻痺。


 一度救われた心は二度と立ち上がれない形で潰されたのだ。



 せっかく孫娘がくれたチャンスだったのに。


 昇は悔いていた。

 しかし背筋を這う恐怖は簡単には拭えない。

 眼前の光を掴みたくても、トラウマがそれを拒み続ける。


 残念だが仕方ない。どれだけ望んでも乗り越えられないものはある。自分はよく頑張った。


 そう諦めかけて。


 「ショーっ!」


 懐かしい呼称に昇は眼を見開く。


 「約束をっ、忘れるな!」


 「……あいつ」


 昇の瞳にじわりと涙が溢れた。

 顔を腕で隠す。再び見せた時には勇猛な男の顔があった。


 「すまんかったな、マコ」


 呟き立ち上がる。


 昇が続行を申し出た。

 主審は彼に闘志を感じ、試合が再開される。


 昇は咆吼した。

 瞳の奥に龍を宿して。


 試合終了まで残り十秒。

 逆転するには一つだけ。


 捨て身覚悟に昇は前へ飛び出す。

 ムフタルが蹴りを見越して拳を構えた。


 昇が地を蹴った。

 彼の水月を狙い定めて相手も踏み込む。


 空を斬る足刀。

 待ち構える拳。


 だが昇の蹴りは突如軌道を変えた。

 その一蹴は相手の眼前を風となって駆け抜け――。



 「やめっ!」


 響く声。はためく旗。


 どっちだ。

 互いに主審を見る。


 指先で描かれる長方形。

 VR《ビデオ判定》のサインだ。



 四台のカメラ映像がモニターに映し出された。

 一つのアングルが大きく表示され、スローで再生されていく。


 ムフタルの中段逆突き。

 そして昇の上段内蹴り。


 ムフタルの顔面を横切った足は鉤爪のような弧を描いて左側頭部を打ち抜いていた。


 息を呑む二人。


 判定員が札を手に取る――。



 「ぅおおっしゃああああ!」


 昇の叫びが天に延びていく。


 【YES】の札が昇に上がった。


 7-5


 昇の勝利だ。


 歓喜と落胆、そして健闘を称える拍手が会場を埋め尽くす。


 『やった!やったねお爺ちゃん!』


 選手は互いに手を取り肩を抱き合った。雲一つない最高の笑顔を浮かべて。


 一礼。



 試合を終え、選手用通路を抜ける最中さなか


 「……ケン」


 壁に背を預け、ケニーはいた。


 「無事に克服したな」


 それがトラウマの事だと昇はすぐに分かった。


 ここではない未来の話。


 「そちらも戻って来とったか」

 「千回だ」


 ケニーがほくそ笑む。


 「かれこれ千回、今日という日を繰り返してきた。お前の帰りをずっと待ちわびていた」


 途方もない時間のなか彼は待ち続けていた。

 叶うかも分からない再開を。


 「ふっ、約束は守るわい」


 ケニーに歩み寄り腕を前に出した。



 ――約束を果たすため、ワシは。


 「俺はお前に勝つ!」


 「望むところだ」



 老人たちの青春が再び幕を開けた。

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