第69話 膨れ上がった感情
ドアが閉まった瞬間、一切の音が消えた。そう錯覚するほどに、部屋の空気は重く、硬直している。
その原因を、総司の目はしっかりと捉えていた。右側の壁際に設置されたベッドで、身を起こした春がうつむいている。
表情は見えない。だが、桜が病室から出るときに一瞬だけ見えた春の表情と今のその態度から、春の心境を察するのはけして難しくない。
春は何も悪くない。むしろこちらが感謝しなければいけない立場だ。総司は当たり前にそう思っていた。最初に野上を殴ったときのように、春はまた自分が悪いと責めているだろうと、そう思っていた。
何度も言っているのにと、また自分を責める春に呆れるしかない──はずだった。
自分の感情がどう変化しているか。変化してくれているか。総司が何よりも気になり、期待していたこと。確認したかったそれを、春を目の当たりにして総司は思い知った。
変わってはいた。だが、それは総司の望んだ変化ではない。方向は変わらないままに、それぞれの大きさだけが変わっている。そして今、胸の中で最も強く訴えかける感情に、総司は虚ろな笑いをこぼしそうになる。
顔を上げない、声も出さない春を見て、その感情が溢れてくる。
──『許せない』と。
許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。
荒れ狂う感情に、突然の奔騰に、しかし総司はそれを打ち消そうと、冷静に、客観的に、公正な思考をそれにぶつける。
──そんな感情を抱く資格はない。
──そんな感情を抱くのはおかしい。
今、春に感じる『許せない』という感情。それはあまりにも理不尽で、身勝手で、無責任なものだと、総司も自分で分かっていた。
だが、止まらない。許せないと思う、その気持ちの源泉が大きくなりすぎていた。
春に呆れるどころではないほどの衝撃に、笑いとともに涙がこぼれそうになる。総司はそれを必死に堪え、大きく息を吸い込むとゆっくり吐き出す。
平静になどなれるわけがない。それでも、何度か深呼吸を繰り返し幾分かは落ち着きを取り戻せた。そうして、総司は春へと向き直る。
顔を上げないまま、春の体が微かに震えていた。総司の嘆息に怯えているのか、あるいは罪悪感を感じているのだろうか。
総司は軽く
そう──これが現実だ。
感情がどうあれ、内心がどうあれ、春に
これほどまでに大きな出来事でも、心の奥底深くに抱えてしまった矛盾はどうにもならなかった。いや、これほどまで大きな出来事だからこそ大きく変わり、むしろ悪化してしまった。膨れ上がった『許せない』という感情がその証だ。
もう、時間によって落ち着き、折り合いを付けられるその時がくることを期待する他なかった。それまで、この気持ちは隠し通す他ない。
春を刺激しないように軽く息を吐くと、総司は顔を上げる。自然、一切を拒絶するように瞼を強く閉じた春の横顔が目に飛び込んできた。
瞬間、衝撃に総司は息を飲む。思いきり爪を立てて掻きむしりたくなるほど激しく胸がざわつく。
総司はまた下を向いていた。乱れる鼓動と詰まる呼吸が堪らなく不快で、同時に不快でないと感じる自分が不快で堪らなかった。どうしようもないほど矛盾した、支離滅裂な自分の心が堪らなく不快だった。
ゆっくりと、無理矢理に大きく息を吸う。気息を整えようと、窄まった道を強引に押し広げようと意識すれば、心から離れた無意識の反応は鎮まっていく。取り入れた酸素によって鼓動も、完全とはいかないまでも落ち着きを取り戻していた。
「ごめん……なさい」
か細い声に誘われ、総司は我に返る。落ち着かなくてはと、そのことだけに頭が埋め尽くされ、春に無意味な罪悪感を抱かせないようにと気遣う余裕を失くしていた。固く目を閉じた春の横顔に、ようやくそのことに気付くと、総司は頭を振る。
「戸倉は──」
「あたし……総司くんのそばにいるの、もうやめる」
否定しようとした言葉を遮る春に、総司は言葉を詰まらせる。予想していなかった、想像すらしていなかった言葉に理解が追いつかず、半端に口を開けたまま、魂が抜けたかのような顔でただ呆然と春を見るしかできなかった。
「退院したらうちに帰る……学校もやめる……家からもなるべく出ないようにする……もう…………二度と総司くんに関わらないから……」
白日《snow blind》──傷付けられた少年と傷付けた少女── 黒須 @xian9301
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