第68話 小さな関門
リノリウム張りの床をスリッパが叩く。ある種、独特なその音はさほどに響かない。病院内は静かに、と言ったところで、個室を出れば様々な物音が控えめにだが響いている。
医師や看護師、入院患者に見舞客。多くの人間が動く物音や気配は、喧騒と呼べるようなものではないがしっかりと存在を主張していた。
静かな物音に触れるのもわずかな時間だ。目的の部屋にはすぐに、歩数にして二十歩も費やさずに着いた。
スライド式のドアの前で、総司は深く息を吸い、大きく吐き出す。カバーを付けられた右手は当然、左手もギプスで固定されていて使えない。ノックするのもドアを開けるのも、肘でも使うしかない。
だが、総司はドアに肘を寄せようとしない。何度か肘を動かしかけるが、それがドアに触れることはなかった。
そんな自分を誤魔化すように、総司は落ち着かない目をドア脇のネームプレートへと向ける。
『戸倉 春』
間違いない。それを確認してドアに目を戻した総司だが、その目はまた、何かから逃げるように横へと向けられる。その視線の先、自分の病室の前で、三十代半ばと思われるふくよかな女性がにこやかに笑いながら親指を立てていた。
創外固定器にカバーを付けてくれた看護師の様子に、総司が思い浮かべたのは自分を診たあの医者だ。あの場で否定しておくべきだったと思ってももう遅い。
あの医者の勘違いに尾鰭が付いてさらに広がるのか──その嬉しくない未来予想に、総司は露骨に顔をしかめる。
春との関係をどう思われようと構わないと、そう思ったのは確かだ。とは言え、ここまで広がってなおそう思えるほど、無関心でいられるわけもない。
今すぐ踵を返し、看護師の思い違いを正して、そしてそのまま部屋に戻る。春の見舞いは明日にすると告げればなおのこと、思い違いを正す材料になるだろう。
そう考え、そうしてしまおうかと思った。だが、総司は頭を振り改めてドアへ向き直る。
確かめなくてはならないことがあった。春の安否のことだけではない。できるならば、早くに確かめたいと、煙る濃霧に思い煩う胸の内が、そのざわめきが、総司に逃げることを許さなかった。
意を決して肘でそっと、乱暴にならないよう慎重にノックをする。
『はーい』
返ってきたのは思いの外、元気な返事。思わず首を
総司の顔を見た桜は一瞬、呆気に取られたように固まり背後に目線を走らせかける。だが、振り向くことはせず、総司とドアの隙間に身を入れるようにして部屋から出るとドアを閉める。
それはほんのわずかな間。時間にしても空間にしても。だが、総司はそのわずかな間に見て取っていた。ベッドの中で身を起こしていた春が、こちらを見て露わにしたその一瞬の表情を。
「あの……総司くん。手は大丈夫?」
横合いからの声に、総司は桜へと顔を向ける。どこか後ろめたそうで、心苦しそうな表情。春とよく似た面立ちが、春がずっと見せていた表情を浮かべている。
「……一応は」
桜がどんな心境でいるか、それは嫌でも分かる。それまでの春の姿が綺麗に重なって見えた。だが、それに触れることはせず言葉少なに答えると、総司はまたドアへと目を向ける。
総司の挙動に、いや、それがなくても総司が何をしにきたかなど桜にもすぐに伝わったはずだ。だが、桜はドアの取手を後ろ手に握り締め総司に道を開けようとはしない。
「戸倉に会えますか?」
「あの……ごめんなさい。春にまだ……言えてなくて……」
言いよどむ桜は後ろめたそうに、うつむいて総司の目を見ない。一瞬、戸惑う総司だが、桜の言葉が何を指しているのかすぐに気付く。
「総司くんには無理なお願いを聞いてもらって……こんなことになったんだから当然だし、これ以上、無理をお願いするわけにもいかないんだけど……春にも話してちゃんと納得させないとって……分かってるんだけど」
ここまで、総司にも智宏にも迷惑ばかりかけて、色々と許してもらっている。その上で、限界を迎えて決められたことだ。受け入れるしかないと、桜も分かっている。春にそれを納得させないといけないこともだ。
だが、もう少しだけ、春がほんの少しでも落ち着くまで、明日まででもいいからわずかな時間がほしかった。切れ切れに、切々と言葉を絞り出し、桜は顔を上げる。
「退院までには話して、もう総司くんの家にも行かせないって約束する。だから……もう少しだけ時間を──」
「必要ないですよ」
必死の懇願を遮られ、桜の顔から力が抜ける。娘のためにと意気込んでいたのをすかされた間の抜けた表情で、言葉も出ずにただ目を白黒させていた。
そんな桜に、総司は何も言わずにもう一度、病室のドアへと目を向ける。
「入っていいですか? 戸倉と二人で話したいんです」
「え、ちょっ、ちょっとまっ……必要ないって……だって、総司くんの──」
「もう終わった話です」
意味が分からず、一層深まった混乱を整理しようと声を上ずらせながらも確認しようとする桜だが、総司は短く言い切り話を断ち切る。詳しく話す気はないと言うように、ただ病室のドアを見つめている。
総司の様子から、春に対する悪感情は窺えなかった。少なくとも、今回の件については悪感情はないと、そう確信できた。
智宏からほんの数時間前に聞いた話がどうなったか、桜には分からなかった。ただ、今の総司は春を傷付けるようなことはしないと、そう確信できた。
一つ、小さく頷くと、桜は横に移動しドアのレバーをつかむ。
「ここで待ってればいいかな?」
総司が頷くと、桜はドアを開ける。確かな緊張を感じながら、総司は桜の前を横切り春の病室へと足を踏み入れた。
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