第67話 突然の宣告
ベッドに横になり、総司は無言で天井を見上げていた。
誰もいない個室には他の入院患者や見舞客の話し声などあるわけもなく、短い生を謳歌する蝉の鳴き声が窓の外から微かに響くだけだった。 手も使えない総司は何もできず、文字通りの手持ち無沙汰だ。
だが、退屈だなどと感じはしない。 こんな状況はすでに慣れきっている。 それ以前に、頭の中では思考が渦巻き、退屈などと感じる余裕もない。
警察の聴取に対して総司はどう話すべきか、それだけ打ち合わせると深沢は警察へと向かった。 打ち合わせと言っても、総司の思う通りに全てを話すので構わないと、ただそれを確認しただけだ。
弁護士と依頼人の供述に齟齬がなければ問題ないと、頼もしい笑みを見せて深沢は去っていった。 それから総司はずっと考えている。
裁判官という進路についてもそうだが、深沢に示されたもう一つのこと──正しくあろうとしてきた今までの自分は果たして正しかったのか。
公正であろうとすることも、度が過ぎれば間違っているのではないか。 正しく公正であるためには、目を逸らしてはいけないことがある。
考える。 考える。 今までの自分のこと、考えてきたこと、下した判断。 そして、今、自分が抱えている矛盾。 それを考える。
考えて、考えて、しかし考えるほどに総司は分からなくなっていった。
──果たして自分は、自分のことを軽視してきたのか。
公正であろうとするあまりに自分の感情を後回しにしてきたか。 それははっきり違うと言える。 洋介たちに頼まれて歌ったあの日に、それは嫌というほどに自覚させられた。 許したくないという感情を優先していた自分が確かにそこにいた。
考える。 公正でありたいと、それも大事にするべき自分の感情なのではないか。
考える。 感情のままにまた、春たちを許さないとすることが正しいのか。
考える。 春たちを嫌う気持ちのまま、悪しざまに罵り続け、悪意を向け続けていたならばそれは正しかったのか。
考える。 罪人のように、敵のように、仇のように、気の済むように攻撃することは許されるのか。
「……違う」
無人の部屋にすぐに溶け消えた小さな呟き。 ぽつりと小さく、だが確かな否定の意思がそこには込められていた。
思い浮かべた自分のその姿を、総司はけして認められなかった。 醜く見苦しいその姿への嫌悪感は、春に対するそれも軽く上回る。
自分の感情のことも蔑ろにしてはいないと、そう思えた。 怒りと嫌悪感を抱く春を、他のクラスメートたちを、それでも、無用に責めることを正しいとは思えなかった。
一体、自分が軽視している感情とは何なのか。 自分のことのはずなのに総司には全く分からない。
考え、考え──総司は不意に、勢いよく身を起こす。 頭を振る沈鬱なその顔に、疑問の答えを見つけた晴れ晴れしさはない。
簡単には分からない、はっきりと理解できたのはそれだけだ。 何が足りないのか、少なくとも闇雲に考えたところで意味はないだろう。
大きく息を吐き出すと、総司はベッド脇のテーブルへと目を向ける。 微かな音を立てる時計の針は四時を少し回っていた。
深沢が去ったのは三時前だった。 ずいぶんと長く考えに耽っていたことに自分で呆れ、気分を切り替えようと意識した途端、総司の頭に医師の言葉が蘇る。
「戸倉……」
春の命に別状はなかった。 そのことに心の底から安堵した。
春が死んだと思ったあの時に感じた、全身の血が凍り付いたかのような感覚。 それまでの人生をいくら振り返ろうと、あれほどの恐怖を感じた記憶は存在しない。 いくら春を嫌おうと、それは疑いようもない事実だ。
投げかけられた疑問から意識を離した今、春のことがどうしようもなく気になった。
どう声をかければいいのか、どう接すればいいのか、どういった感情を抱けばいいのか──それを考えると気まずくて仕方がない。 起こったことが衝撃的に過ぎ、何もかもを決めあぐねてしまう。
だが、そんなことはどうでもよかった。 ただ、春が無事だという、そのことを自分の目で確かめたかった。
廊下に出て右側、一部屋挟んだ部屋。 春の病室はすぐ近くだ。 総司と春の関係を誤解している医師の計らいで二人の病室は近くにされていた。 野上は逆にできるだけ離れた病室に入院している。
大きなボタンのナースコールに目をやり、総司が左手を伸ばそうとしたそのときだ。 軽いノックの音に総司はドアへと目を向ける。
総司が返事をする前にドアは静かに開けられた。 だが、姿を表したのはそんな無作法も許される相手だ。
病室へ入ってきた智宏は身を起こした総司の姿に安堵の笑みを浮かべる。 そこに隠しきれない疲労が滲んでいるのを見て取り、総司は一瞬、視線を泳がせていた。
妻の浮気と離婚、そして最初の事件。 終業式の日の事件もある。 ただでさえ心労が重なっている父親に、さらにまたこうして負担をかけてしまった。 申し訳ないと、ひたすらにそう思う。
だが、目を逸したのもほんのわずかな時間だ。 総司は智宏をまっすぐに見ると深々と頭を下げる。
「父さん……ごめん」
短い謝罪の言葉は震えていた。 それ以上、口にできなかった。 微かに震えながら、総司は頭を上げられなかった。
そんな総司の頭に、優しく手が置かれる。 子供の頃には何度もそうされた、ずいぶんと久しぶりな感触。 昔よりも小さく感じるが変わらない温かさに、変わらぬ父の愛情を総司は感じていた。
「今回はお前が悪いわけじゃない。 謝ることはないぞ」
「……けど──」
「確かに、前回お前が殴ったのは少し軽率だった。 だけど仕返しでここまでするのは相手がおかしいだろう」
お前は悪くない──そう重ねて言われ、涙を滲ませながらも総司は少し吹き出してしまった。
悪くもないのに謝る春を総司が
「今度から気をつけるよ」
「ここがおかしなところだっただけだ。──もうこんなことが起きる心配はないからな」
優しい言葉に頷きかけ──総司の動きが止まった。
違和感があった。 確かにこれほど衝撃的な事態が立て続けに起こることなど普通はあり得ない。 また何か起きるのではないかと心配するのは杞憂というものだろう。
だが違う。 そういうことではない。 智宏の言葉はそれだけではなかった。 それが意味することに気付ける程度の
「父さん! 俺──」
弾かれたように声を上げた総司だが、吐き出そうとした言葉は肩に置かれた智宏の手に遮られる。 顔を青くする総司に、智宏は険しい顔で首を横に振る。
「責任者として簡単に現場を離れるわけにはいかなかったが、だからといってお前をこんなところに呼んだ父さんが間違っていた。 学校については難しいがひとまず物件を探してもらっているし、仕事についても会社に相談することにした。 お前はもうあんな学校に行かなくていい」
断固とした智宏の態度に、総司は顔を歪めて口を開く。 だが、
分かっている。 今までどれだけ自分の意思を尊重してもらったか。 どれだけ心配をかけたか。 それがどれだけありがたいことなのか。
だから言葉にできず、ただ俯き震えることしかできなかった。 その重い沈黙を破ることは、総司にはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます