第66話 新しい選択
総司の告白に深沢は何も言わなかった。 無言で顎を撫でながら総司の顔を見ている。 その顔に、怪訝や不審といった感情は浮かんでいない。 どこか愉快そうな、珍しいものを見ているような色が浮かんでいた。
事実、深沢にとってもそれは珍しいものだった。 検事時代を含め、様々な人間と触れてきた中でも皆無とは言わないが稀な反応だ。
自分の犯した罪への自責の念から、自暴自棄になって、誰かを庇おうとして、そうした理由で自分の罪を重くするような発言をする人間はいた。
しかし、深沢から見て総司は被害者だ。 しかも、加害者との関係性には自分の罪を重くしてまで相手の罪を軽くするような理由になりそうなものは見えない。
「どういうことか聞いていいかな?」
興味深いと、それを隠すことなく深沢は話の続きを促す。
「あいつ……殺すつもりはないってはっきり言ってたんです」
総司の顔も、声音も、苦々しさに歪んでいた。 憎悪と怨嗟──野上に抱く感情はそれだけしかない。
それでも黙っていられない。 感情のままに信念を裏切る愚は二度と犯したくなかった。
「だけど俺は戸倉が殴られて……殺されたって思って……あいつのこと、殺すつもりで──」
「だから正当防衛じゃないと?」
「……はい」
躊躇いながらも頷く総司に、深沢は何やら思案するように下を向く。
「君は満足に抵抗もできない状況でひどく理不尽な暴力に晒されている。 それなのに自分に非があると、そう言うのかな?」
「自分が悪かったなんて思ってません。 悪いのはあいつです。 ただ……正当な報いを受けさせたいんです」
不当に罪を重くさせたいわけじゃない──総司の苦々しい呟きに、深沢はまた顎を撫でると呆れたようにため息を吐く。 興味本位や愉快さ、そうした軽薄な雰囲気は消えていた。
子供らしい正義感、潔癖さ。 総司の発言はそうしたものから出たと思っていた。 元々の発端において自分が手を出した非があったのだから、相手にばかり罪をなすり付けたくないと。
だが違った。 総司が求めているのは犯した罪に対する正当な裁きであり、しかもそれを自分自身にも求めている。 総司がそう考えていると、それを理解した深沢は、総司の根底にあるものまで概ね理解していた。
「……水清ければ魚棲まず、ってね」
深沢が漏らした言葉に、顔を上げた総司は怪訝そうに深沢を見る。
深沢が総司の心底に感じたものは、正にこの言葉に表されていた。 澄んだ水はどこまでも美しく、それを眺める者の心を惹き付ける。 だが、身を置く魚からすればそこは息苦しさと生きづらさに満ちた世界に他ならない。
総司はそこに居続けようとする魚だ。 苦しくてもそこから逃れることをけしてよしとしない。
そんな少年に、深沢は懸念を禁じ得なかった。 正しさを大事にする総司に、自分の息子とどこか通じるものがあると感じてしまったこともその理由の一つだろう。
「どんな仕事でもそうだし、仕事以外でもそうだけど、あまり正しくしようとしてると無理が生まれるよ。 それは自分にも周りにも不幸を呼ぶ。 もう少し自分に甘くなってもいいんじゃないかな?」
「すいません……弁護士さんからしたら迷惑ですよね」
顔を曇らせて謝罪を返す総司に、深沢は眉を顰める。 ただそれも一瞬のこと。 総司の勘違いに深沢はすぐに気付いた。
弁護士の仕事は依頼人の不利益を可能な限り減らすことだ。 依頼人が不利益を被れば、それは弁護士としての評判に負の影響を及ぼす。
だから不利益になることを言わないように弁護士として勧めている。 深沢の言葉を総司はそう受け取ったのだと。
そして、深沢の評判を気にした上でそれをできないと、総司はそう言っている。 自分が裁かれることになっても、事実は事実として、言うべきは言うと。
人間として褒められるべき美徳を持っていると、そのことに対して深沢は改めて感心する。 そして、総司の信念に対する危惧もほんの少しだが緩んだ。
狂的な信念を持ってはいるが『狂信者』ではない。 正しさを歪めようとされていると受け取りながら、それを非難するほど思考は凝り固まっていなかった。
少なくとも、弁護士という職業の事情を鑑みて申し訳ないと、そう思える程度の節度は備えている。
だが、そうして安心した反面、危惧はなくならない。 自分に対する厳しさは普通とはとても言えなかった。
弁護士としての仕事の範疇ではない。 それでも人生の先輩として、同じ年頃の息子を持つ親として、放っておくことはできなかった。
「そういうことじゃない。 私の方は問題ないし気にする必要はない」
「けど、依頼人の罪が重くなるのって──」
「君の言葉を警察に伝えたとして、君は正当防衛で起訴もされないよ」
「だけど……殺すつもりで──」
「殺していないだろう?」
深沢の端的な言葉に総司は黙り込む。
「法律ってのは四角四面なものでね。 殺すつもりで刺したって相手が死ななけりゃ殺人罪になることはあり得ないんだ」
「それは……」
「それにだ、相手が『殺すつもりはない』と言ったとして、殺されることはないと心の底から信じられたかな?」
野上がバットを振り上げた時のことを思い出し、総司は首を横に振る。
殺すつもりがなくても、凶器を持った相手に襲われて死の可能性を感じないわけがない。 あの時、総司も頭だけは必死に守ろうとした。
今、落ち着いた状況でようやく自分の身を振り返り、自分が殺されていたかも知れなかったという実感が総司の心に押し寄せていた。
それはまるで蟻の大群のようだった。 心を覆い尽くさんばかりに這い回り、内部へと潜り込んでくるその感情──総毛立つほどの悍ましさに、総司の体が不意に震え始めた。 その顔もひどく青褪めている。 恐怖に震えが止まらなかった。
立ち上がった深沢は総司の背中に手を当て、落ち着かせるように軽く叩く。 震える背中は総司がまだ子供なんだと強く語っていて、それが痛ましくてたまらなかった。
「分かっただろう? 怖くて当たり前なんだよ。 大事な彼女が頭を殴られたのを見たならなおさらだ。 手がそんなになるほどに殴ったのも、殺されるかも知れない恐怖もあって心神喪失状態だった──そう思わない人間はいない。 君は何も悪くないし、気に病むことなんかないんだ」
「けど……」
「さっき法律は四角四面だって話したね。 だけど、その重さを計るには感情も大きく影響する。 片方の感情ばかり考えてたら
総司の目の色が変わった。 そこまで正確に把握していたわけではない深沢が話の流れで口にした
震えが止まり、ようやく目を向けた総司に、深沢は言い聞かせるように大きく頷く。
「殺そうと思った、その感情を重く見るんだったらどうして殺そうと思ったか、そのことも忘れちゃいけない。 自分に厳しいのは悪いことじゃないけど厳しすぎるのは不公平だろう? 自分の感情も自分のことも、もっと大切にしていいんだよ」
穏やかな笑みを浮かべ諭す深沢だが、総司の顔は明るくはならなかった。 迷いが影を差し、悩みが渦を巻いているのが目に見えるほどに浮かんでいた。
人の考え方がそう簡単に変わるわけがない。 価値観を変えるにはそれなりの時間がかかって当然だ。
だが、少なくとも今、総司の心は揺れている。 こうあるべきと凝り固まっていた信念に、確かな揺らぎが見えた。
ただ一時関わるだけの人間ができるのは、水面を微かに揺らす程度に石を投じることぐらいでしかない。 だが、揺れは収まっても投げ込まれた石はそのままそこに、確かに存在し続ける。 それは一応できただろうと納得の息を吐く深沢が、不意に何かを思い付いたように声を漏らす。
「裁判官とか……向いてるかもね」
突然の呟きに、総司は意味が分からずに首を傾げる。 だが、思わず呟いた深沢は大きく頷いていた。 ふとした思い付きだが、改めて考えてみてもそれは悪くない思い付きだった。
変わるべきだとは思う。 しかし、変わるのが難しいなら変わらないままで進める道の選択肢を示す。 それはけして悪いことではない。
「法律家ってのはさ、正しさを求めるわけじゃない。 特に弁護士なんかは依頼者のために嘘もつくし理屈もでっち上げる、都合の悪いことは隠したりと欺瞞に満ちた職業でね。 検事だって面子のために似たようなことをすることもある。 だけど裁判官は双方から出された証拠を基に公正に判決を下すのが仕事だ。 君みたいな子には向いているよ」
目指してみるのもいいんじゃないかな?──そんな深沢の提案に、総司は深く考え込む。
進路について、将来について、総司は深く考えてこなかった。 具体的な夢や目標はなく、普通に大学に行って就職するか、あるいは大学に行ってやりたいことを見つけるか、漠然と、その程度にしか思っていなかった。
自分の考え方に対して投じられた一石に揺らぎ、思い悩むところに示された選択。 それは一筋の光明のように思えた。
今の自分に合っている進路を示され真剣に考え込む総司に、しかし深沢は苦笑する。
「まあ、そのためには
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、総司の顔は曇ったままだ。 苦悩に満ち、懊悩が止むことはない。 だが、それでも、思いもしなかった道を示された。
──自分が正しくないかも知れない。
──変わるべきも知れない。
それを明示された。 そして、変われなかった時の道まで示された。
もしも変われるなら、自分が抱えている矛盾の解決に繋がるかも知れない。
確かなことは言えない。 そもそも答えが出るようなものでもないかも知れない。
それでも、光明を示してくれた深沢に対する感謝の念から、総司は深沢に頭を下げていた。
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