第65話 許せない気持ち

 彰が落ち着くまで、しばしの時間を必要とした。 顔を上げ涙を拭った彰は、晴れ晴れとした顔で改めて総司に礼を言い、そしてまた一つの重要な話を伝えた。

 それが終わる頃、総司の様子を見にきた看護師に医師が呼ばれ、彰は病室を後にした。


 彰と入れ替わりでやってきた医師は、終業式の日に総司の治療を担当したあの医師だった。


『本当なら明日にはギプスをはずす予定だったのにね』


 残念そうに溢す医師から軽い診察を受け、そして総司は自分の手がどれほどの傷を負ったのか、それを説明された。


 母指を除いた四本の中手骨で六ヶ所の骨折。 基節骨は母指、小指が亀裂骨折。 示指、中指、環指で五ヶ所の骨折。 中手骨の骨折は二箇所が体外に飛び出す開放骨折となり、損傷は神経にまで及んでいた。


『リハビリで動くようにはなるけどね……以前と同じようにとはいかないことは覚悟してほしい』


 人のよさそうな医師から惨状と、そう呼ぶ以外に言葉がないような状態を告げられ、さすがの総司も顔を曇らせていた。

 呼吸管理が必要になるほど重篤な容態に陥らなかったことは不幸中の幸いと言える。 しかし、感染症の危険があるため、五日程度は入院し、抗生物質を投与しながら様子見をしなければならない。


 左手については右手と比べれば軽症だ。 それでも、示指、中指、環指の指の付け根、MP関節を脱臼している。

 両手を使えない期間がまた伸びた。 いや、下手をすると右手は完全には治らないかも知れない。


『ああ、君の大切な彼女だけどね、もう目を覚ましているよ。 大分落ち込んでるそうだし、君の容態も問題なさそうだから後で少しくらいならお見舞いに行ってもいいだろう』


 落ち込んだ様子の総司に少しでも明るい報せをと思ったか、勘違いしたままの医師はそう告げると病室を出て行った。

 そして、一人残された総司は憮然としたまま、ベッドに体を倒し目を閉じた。


 窓から差し込む夏の日差しは、カーテンに和らげられながらも刺すような鋭さを感じさせた。 しかし、ほどよく空調が効いた部屋は暑さとは無縁だ。

 個室であっても、病室というのはけして落ち着ける空間ではない。 それでも、快適さと体の怠さに誘われるように、総司は浅い眠りに落ちていった。



 不意に鳴った物音に、総司は心地よい眠りから揺り起こされた。 音の発生源を探すように辺りを見回しているとまた控えめに音が響き、総司はドアへと目を向ける。


「……どうぞ」


 ノックの主が誰かは分からないが、総司はドアの向こうの何者かに呼びかける。


「失礼するよ」


 ドアを開けて入ってきたのはスーツ姿の男だった。 智宏と同年代、おそらくは少し上くらいか。

 見知らぬ男に総司は一瞬、警察かと身構える。 しかし、細身ながら柔和な男の雰囲気は総司の持つ警察のイメージとはそぐわなかった。


「柴谷総司くんだね? 私は──っと、名刺は見れないか。 まあこういう者だよ」


 懐に手を入れかけてやめた男は、胸元に付けたバッジを指し示す。 何かしらの花を象ったような意匠の真ん中に天秤が記されたバッジ。 そこまで細かくは知らないが、総司も何となく見た記憶があった。


「弁護士さん……ですか?」


 自信なさげに問いかける総司に、男は愛嬌のある笑みを見せる。


「東京で弁護士をやってる深沢です。 君のお父さんの会社の顧問弁護士が私の同期でね。 君の弁護を頼まれてきたんだ」

「……やっぱり事件になるんですね」


 弁護というからにはつまりそれが必要な事態なんだろうと、総司は深くため息を吐く。

 仕方ないという思いはある。 襲われた事実があったとしても、殺すつもりで殴りそれなりの怪我も負わせている。 どうなるにせよ警察の取り調べは受けるだろうし、弁護士も必要になるのは当然の話だ。


 覚悟を決めて深沢に向き直った総司は、しかし深沢の態度に困惑することになった。

 ドラマのように真面目に話されるか、あるいは安心させるように自信に溢れた笑みでも見せられるかと思いきや、深沢は微妙な表情で難しそうに唸っている。


「いや、それなんだがね──ぶっちゃけ私は帰ってしまってもいいかなとも思っていてね」

「……どういうことですか?」

「どういうことも何も、まだ軽く話を聞いただけだけどよほどの無能でない限り不起訴だよ、これ」


 深沢は鞄からタブレットを取り出し、画面に指を走らせる。 病院と警察、それに彰から聞き取りをし、走り書き程度にまとめた聴取内容を目で追いながら苦笑する。


「現場は君の家。 そこに君と、一緒に住んでいた女の子、それに学校の先輩がいて全員が怪我をして病院に運ばれた。 で、女の子はバットで殴られて怪我をして凶器も転がっていた。

 彼女を誰が殴ったかだけど、医者からは君が手の怪我でギプスを付けてたことは聞いてるからね。 おまけに君のギプスも砕かれてたとなると、どう考えてもその先輩がバットを持って襲撃してきた以外にないでしょ」


 タブレットから顔を上げた深沢は『違う?』と問いかけるように片眉をあげる。 そのやけに表情豊かな仕草は、どうにも弁護士という堅い職業のイメージにそぐわなかった。 不安を抱える依頼者の緊張をほぐそうとしてわざとやっているのであれば、なかなかのやり手ではないかと思わせる。


「そもそも君が手を負傷していたのもその先輩とのいざこざだったというし、殴られた女の子もそれに絡んでいたとなれば、まあ仕返しと言うにはいささか悪質だけどそんなところだろう。 流れとしてはまず君が襲われて手を殴られた。 そしてその後に彼女が殴られて、君は手を負傷しているのにも構わず襲ってきた先輩を殴った。 そうなんだろう?」

「……よく分かりますね」


 野上が襲ってきたことはともかく、その他の流れまで言い当てられ驚く総司に、深沢は悪戯が成功した子供のように楽しそうな笑みを向ける。


「これでも四年前に退職するまで十八年間、検事をやってたからね。 いろんな事件を見てきたのは伊達じゃないんだ」


 自慢げな深沢の言葉に、総司は驚きのあまり目を見開いていた。

 ヤメ検弁護士という呼び名は総司も聞いたことがあった。 検事から弁護士へと転職したヤメ検は当然、相対する検察側のことを熟知している。 敵の情報を知り尽くしているのだから刑事事件を扱う弁護士としての手腕は一流だと、その程度には知っている。


 本やドラマからの知識でしかなく、実際のところまでは流石に知る由もなかったが、法曹界のエリートなのは間違いない。 まさか実際にそんな職業の人間と会うことになるとは想像もしていなかったし、ましてや世話になる事態に陥るなど夢にも思わなかった。


 様々な思いが複雑に絡まり何を言えばいいかも分からず、ただ呆然とするしかない総司に深沢は力強く頷く。


「彼女が殴られた後に君が殴られたなら、いくら怒りに我を忘れてたって気持ちが萎えるよ。 反撃するような気力なんか湧くわけがない。 だったらそれ以外に考えられないからね。

 凶器のバットはグリップがボロボロで、おまけに雨で思い切り水を吸って指紋なんて取れやしなかったから物的証拠はないんだけど状況証拠は確定的。 警察も同じように考えてるよ」


 おまけに、と前置き、深沢はまた鞄を漁り中から封書を取り出す。 それの正体が何か、彰から話を聞いていた総司はすぐに察していた。


「君を襲った相手の親からの嘆願書だ。 非は全て自分の息子にあって君が罪に問われることは望まない、だとさ」


 すでに知っていた内容を聞かされ、総司は複雑な内心に顔を顰める。

 その内容は事実であり極めて公正だ。 それを野上の親が書かされた・・・・・経緯についても自業自得だと、総司は感じていた。

 しかし、それを手に入れた手段が真っ当とは言えないことに、総司の心は引っかかりを拭えなかった。


 簡単な話だ。 野上の父親は智宏を脅迫した。 お前の息子にうちの息子が怪我をさせられたのだから、治療費も慰謝料も支払わせると。

 前回、総司が野上を殴った際に、智宏は治療費と慰謝料を多少だが渡していた。 それに味を占めたのもあるのだろう。


 野上が総司を襲ったことはほぼ分かっている状況にも関わらず、元はと言えばお前の息子がうちの息子を殴ったことが発端だ、やり過ぎなぐらいに怪我をさせたんだから払えと筋の通らぬことを喚き立てた。 しまいには暴力団と繋がりのある知り合いもいるとちら付かせまでした。

 そこに現れたのが、彰から連絡を受けてやってきた康雄だ。


 智宏よりも先に康雄に気付いた野上の父親は高圧的な態度を引っ込め、親しげに先輩と呼びかけながら康雄に近付いた。 そして、涙ながらに状況を訴えた。

 何のことはない。 野上の父親は康雄と知り合いで、そして、脅しに使った知り合いが康雄と康雄の会社の社長だったわけだ。


 その結果など詳しく言うまでもない。 智宏を慕い、総司に負い目がある康雄は、野上の父親の言い分に静かに怒り狂った。

 人目に付かない場所にいたとは言え、病院内で大声を出すわけにいかないと、その程度の理性は残っていたが、その程度の理性しか残っていなかった。


 野上の父親の胸倉を掴み上げた康雄は、そのまま壁に叩き付け、低い声で散々に脅し付けた。 わずかにでも口応えをしようとする度、平手で顔面を張り黙らせた。

 最後は智宏に向かって土下座させ、総司への慰謝料と治療費を払う約束もさせた。 自分が責任を持って取り立てるとのお墨付きでだ。


 そして、間違っても総司が罪に問われないようにと、康雄が命令して野上の父親に書かせたのが深沢が手にした嘆願書だ。

 親子揃って自業自得であって、同情の余地など微塵もない。 だが、暴力的な手段で書かれたその嘆願書は、総司には間違ったものと思えて仕方なかった。


「あの……先生はその嘆願書のことは──」

「ん? いやぁ、私は知らないよ? これがどんな経緯で出されたかなんて、知らなくていいことは知らないんだ」


 深沢のわざとらしい笑いと言い回しは、空惚そらとぼけているのだと露骨なまでに語っていた。

 知っていたなら問題になる。 だから表向きは知らないことにしていると、そんな狡さに総司は顔を顰めていた。


「まあ知らないんだけどね。 ただ君が何か引っかかるなら別にこんなもの使わなくてもいいんだ」


 こともなげに言うと、深沢は嘆願書を鞄にしまい込む。

 弁護をするなら被害者側の嘆願書は大きな武器だ。 それを放り捨てても構わないと言う弁護士に、総司は思わず不思議なものを見るような目を向けていた。


「さっきも言ったけど、こんなものがなくたって君が起訴されるようなことはないんだから。 心配しなくたって大丈夫だよ」

「でも……あいつのこと思い切り殴って……怪我だってさせて──」

「殺したところで正当防衛だよ。 何しろ君は満足に抵抗できないところを暴漢に襲われて殺されるところだったんだ。 二人相手に殺人未遂と暴行、傷害、それも凶器を用意して抵抗できない相手にとくればまあ数え役満だね」


 少年刑務所入り間違いなし、と折った指を見せながら軽口を叩く深沢に、しかし総司は顔を引きつらせ俯く。


「どうした──傷が痛むのか?」

「……先生」


 心配して覗き込む深沢に、総司は力なく首を振る。 その唇が震えていた。 何かに堪えようとするかのように噛み締められ、それでもその震えは収まらない。

 許せない──その思いが総司の中でぶつかり合っていた。 野上のことを許せず、しかし、このままではいけない。 自分のことが許せない。 不公正から目を逸らすことをけして許せない。


 大きく息を吸い、そしてゆっくり吐く。

 理不尽だ。 こんな目に遭わせた野上がどうなろうと構わないと、そう思う気持ちはある。

 それでも、総司は公正さを捨てられない。 黙っているわけにはいかなかった。


 心は落ち着かない。 ざわついて、ざらついて、感情に任せろと別の自分が囁いている。 自分が不条理に、不利益を被る必要などないと。

 だが、総司はそれを振り払い覚悟を決めると、けして退くつもりのない決意を込めて口を開く。


「俺があいつを殴ったの……正当防衛なんかじゃないんです」

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