第64話 新たな道

 それはどちらが先だったのだろう。 光に誘われ意識が浮かび上がったのか、それとも意識が浮かび上がり光を感じたのか。 同時であったかも知れないし、絡み合っていたのかも知れない。

 いずれにせよ、わずかに目覚めた意識は捉えた光に引かれ、泥土にのように重く絡みつく暗闇から浮かび上がっていた。


 ゆっくりと瞼が開かれる。 白いと、何となくそう感じるだけのぼやけた視界。 鈍い意識は焦点を結ぶことなく、茫漠としながらただ白を眺めている。 しかし、それも長くは続かない。 ほどなく不鮮明な像は鮮明に、あるべき姿を結ぶ。


 目に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。 古びた、とまでは言わないが多少の年数は経っているであろう、微かに色褪せた白い天井。

 そこに温もりは感じられない。 人が暮らし、時が経ち、そうして自然と染みつく匂いのようなもの、それがなかった。

 どこか無機質で事務的で、ひどく無味乾燥な印象。 鼻腔を刺激する微かな香りのせいもあっただろうか。


「……病院?」

「おっ! 気がついたか」


 誰にというわけでもなく、ただ思ったままの印象を漏らした呟きに、横から慌てたような声がかけられる。 頭がはっきりしないまま顔を横に向けた総司の目に、心配そうに覗き込む彰が映った。


「……杉田?」


 なぜ彰がいるのか。 そんな疑問と当惑が総司の声にはありありと浮かんでいた。 茫洋とした顔で、ただ彰を見返す。

 だが、それもほんの数秒のこと。 混濁した記憶の沼から浮かび上がった恐ろしい記憶に、総司は雷に打たれたようにその身を強張らせる。


「痛っ!」


 顔を引き攣らせて上半身を起こそうとした総司が、右手を襲った痛みに手を抱える。


「大丈夫か!? すぐに看護師さん──」

「まっ……それより!」


 慌ててナースコールに手を伸ばす彰を、総司は左手を突き出して制止する。 手の痛みよりも、右手に装着された奇妙な器具よりも、腕から伸びている点滴のチューブよりも、自分のことよりも先に確認しないといけないことがあった。


「……戸倉は?」


 脳裡に甦った、頭から血を流していた春の姿。 死んだと、そう思った。 死んでいてもおかしくないと、そう感じた。 

 不安と恐怖に息を荒らげながら声を絞り出す総司に、腰を浮かせかけた彰は椅子に腰を戻す。


「春は大丈夫だ。 まあ……頭を六針縫ったから無事とは言えないけど、検査では深刻な怪我はなかったって」


 明後日には退院できるらしい──その言葉に、安堵のあまり総司の体から力が抜ける。

 野上は倒れた総司を殴ろうとしていた。 そこに春が飛び込み、総司を庇って殴られた。 打点が大きくずれて衝撃がかなり緩和されたのは当然の話だ。 頭の怪我で出血こそひどかったが、脳に障害を及ぼすようなことにはならずに済んでいる。


 自分を庇って誰かが死んだなど、まともな神経ならば看過できるはずもない。 春が無事だと知り、思わずよかったと溢すと総司は目を閉じる。 だが、その顔がまた恐怖に引き攣っていた。


「……野上……先輩は?」


 覚えている。 怒りのあまりに殴り倒した。 馬乗りになって、許しを乞う野上を殴りつけた。 動かなくなった野上を殴った。 殴った。 殴った。 殴り続けた。

 殴る度に拳に響いた骨が砕ける感触。 血に塗れていく野上の顔。 全てを覚えている。

 殺すつもりで殴り、死んでもおかしくないほどに殴った。 その全てを、総司はしっかりと覚えていた。


 だが、野上は春を殺していなかった。 仮に野上が春を殺していたとしても、自分が我を忘れて人を殺そうとしたその事実と、本当に殺してしまったかも知れない現実に、今更ながら総司は恐怖に震えていた。

 だが、青褪める総司を安心させるように、彰は苦笑して頭を横に振る。


「野上先輩も怪我はしてるけどそこまで重症じゃないよ」

「……そうなのか?」

「鼻が潰れたのと後頭部に少しヒビが入ったけど大したことはないってよ」


 肩を竦める彰の様子には、深刻さは微塵もない。 だが、総司の表情が安堵に緩むことはなかった。 困惑と疑念──あれだけ殴ってそんなことがあるのかと、そんな疑心が透けて見える。

 野上を殴っていたあの感触は、とても軽傷で済むとは思えないものだ。 後遺症が出るくらいの重傷にならなかったなど、とても信じられることではなかった。


 何かを隠していないかと、本当は野上はかなりの重傷なのではないかと猜疑の目を向ける総司に、彰の顔が沈鬱そうに曇った。


「おい! 野上先輩は本当に──」

「嘘じゃない。 野上先輩は大丈夫だ。 その……」


 言葉を濁しながら、彰は総司から目を逸らす。 言いづらいことがあるのは明白で、それがいい報せのわけがない。

 だが、それを聞かないわけにはいかない。 話せと、総司から向けられる険しい目を直視できず、落ち着かない様子で彰は目を泳がせる。

 しばし気が重そうに唸り声を上げる彰だが、覚悟が決まったか頭を掻きむしると重い口を開く。


「お前の方がよっぽど重傷なんだよ」

「……俺?」


 想像もしていなかった言葉に、総司の口から呆けたような呟きが漏れる。 そして、その視線がゆっくりと、鈍く疼く右手へと移動していた。

 また折れたと、それは分かっていてもどれほどの状態なのか、総司はまだ知らなかった。 右手に装着された見慣れない器具についても、それが何なのか分からなかった。

 言葉も出ず怪訝な目を向ける総司に、彰は沈鬱な表情で重い口を開く。


「お前の手……折れた骨が飛び出してたんだぞ? 医者の話だと何か所も折れてグシャグシャだったって……そんなんで重傷になるわけないだろ」


 そう。 野上に殴られて折れていた拳は、野上の後頭部を地面に打ち付けた一撃で逃げ場のない衝撃をまともに受け、その時点で完全に砕けていた。

 力いっぱい握りしめ、それで殴り続けていたのはただの錯覚だ。 砕けて握れもしない拳を怒りのまま叩きつけ、自分の拳を傷付けていたに過ぎない。

 殴る度に拳に響いた骨が砕ける感触も、野上の顔を血塗れに変えた血も、全てが自分のものであることに気付くこともできないまま、ただただ自分を傷付けた。


 告げられたそのあまりに衝撃的な内容に、総司は呆然としてまた右手の器具を見る。 そして、不意に思い出した。 以前に読んだ漫画に出ていたこの器具、創外固定器のことと──それが重度の骨折のときに使われるものであることを。

 彰の言葉が真実だと、それをようやく飲み込むと、総司は深く嘆息する。


「杉田」

「何だ?」

「……助かった。 ありがとう」


 理不尽さに対する思いは当然深まった。 ここにこなければよかったと、改めて強く思う。 だが、今はそれ以上に、春が死ななかったことと、自分が人を殺さなかったことに、総司は心の底から安堵していた。


 彰がこなければ春は死んでいたかも知れない。 野上が死ぬようなことはなかったが、自分の手の怪我はもっとひどいことになっていたかも知れない。

 そうならずに済んだのは彰のおかげと、総司は彰に対する蟠りなど感じさせずに感謝の言葉を口にしていた。


「よせよ。 こっちはお前に謝らなきゃいけないのに、当たり前のことしただけで礼を言われるようなもんじゃないだろ」


 総司に頭を下げられ、彰は苦笑しながら手を振る。 その言葉に、総司は疑問と得心を同時に得ていた。


「それできたのか」

「まあ……うちの親父が総司の親父さんから聞いてさ。 もっと早くに行くべきだったんだけど、ちゃんと形を作ってからと思ってな」


 少し気まずそうに言うと、彰は居住まいを正し懐から取り出した封筒を総司に差し出す。 しかし、困惑した様子の総司に一瞬考え込み、すぐに総司が受け取れないことに気付き狼狽える。

 慣れないことをするのに頭の中でシミュレーションしていたことが災いした。 想定していた流れがいきなり崩れ、彰はしばし混乱した様子を見せる。 だが、それを吹っ切るように息を吐くと頭を思い切り下げる。


「バカな真似して嫌な思いさせて、本当にすまなかった」


 これが彰が総司の家を訪れた理由だった。

 謝ることも償うことも許さない。 それが間違っていたと気付いた総司は、智宏から彰の父の康雄に伝えてもらっていた。 すぐに許すことはできなくても謝りたいならそれは構わないと。


 それを聞いた彰はすぐにでも謝りに行こうと思った。 しかし、自分の稼いだ金で誠意を見せろと康雄に言われたものの、一月足らずの給料などたかが知れている。

 二回目の給料日の八月二十日、そこで謝りに行こうと総司の家に向かい──そこであの惨劇に出くわしたのだ。


 想像もしなかった事態のせいで遅れてしまったがようやく謝れた。 まだ許されないと分かっていても、反省していると、それを示せたことに胸のつかえが一つ下りた気分になる。


「学校には戻るのか?」


 頭を下げていた彰が顔を上げる。 許すとも、許さないとも言わず、突然振られた話に戸惑いながら、彰は顔を横に振っていた。


「いや。 学校はやめてこのまま就職するつもりだ」

「……別に顔も見たくないから学校にくるなとか言ってるんじゃないけど」

「そうじゃない。 その……総司に言われて分かってたけどさ、やっぱり俺らはおかしかったんだって、現場で色んな人と付き合うようになってよく分かってさ」


 以前の自分を思い出し、苦い思いを滲ませながら彰は総司を真っ直ぐ見る。


「あいつらは大事な仲間だし、一緒にいると楽しいし、戻りたいなって正直思う──つってもあんなバカなことしたいってわけじゃないからな? ただ、狭い世界に閉じこもってちゃダメなんだって、そう思ったんだよ。 だからさ、少しはまともな人間になるために外に出ることに決めたんだ」


 総司にはっきりと自分の思いを語る彰。 その姿は以前よりも少し大人びているように総司には感じられた。


「そっか」


 ほんの二ヶ月足らずのことだが、彰が変わっている、変わろうとしているんだと、それを受け止め、総司は微かに笑みを浮かべる。 だが、すぐにそれを消すと、真面目な顔で彰に向き直る。


「俺さ……今回のことは感謝してるけど、まだあのことは忘れてないし、許せもしない」


 総司の宣言に、彰は神妙な顔で頷く。 当然のことであって、あれだけで許されるなどと虫のいいことは考えていなかった。


「だけど、まともな人間になろうとしてるならいつか許せると思う」

「総司……」

「学校をやめるなら俺はお前のこと見れないけどさ、それが俺への償いだと思ってがんばりなよ。 応援してるからさ」


 総司の言葉に、彰は思わず俯き顔を押さえる。

 総司は許していないとはっきり言った。 だが、総司から向けられた言葉は温かい、はなむけとも言えるものだった。

 まともな人間になれるよう頑張れと、そうすれば許せるかも知れないと。 その言葉の温かさに、そんなことを言える総司に、そんな総司を傷付けたことに、目頭がどうしようもなく熱くなる。


 そして何より、総司自身も気付いていないかも知れないが、総司の口調には少しだけ、以前のような柔らかさが戻っていた。

 許されてはいない。 それでも、ほんの少しだけでも許されたような気がして、彰は込み上げてくるものを抑えられなかった。


「総司……」

「……」

「ごめん……本当にごめん……」


 震える声でそう謝るのが精一杯で、それ以上は言葉にできなかった。 彰が声もなく静かに啜り泣く音が、病室の空気を微かに震わせていた。

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