第63話 惨劇

 わけが分からず、総司は固まっていた。 どうしてそうなったのか分からず、何が起きたのかを理解したくなくて動けなかった。

 理解してしまえばそれ・・が現実として確定されてしまう。──そんな恐怖から理解を拒絶して、思考が凍り付いていた。


 だが、分かってしまっていた。 バットが何かを殴りつけた音と、自分のすぐ脇で重いものが地面に落ちた音。 そして何より、打撃音と同時に微かに聞こえた聞き覚えのある声。

 分かっていて、理解したくなくて、現実にしたくなくて、様々な思いに呪縛され動けない総司の耳を、高く軽い音が叩いた。 野上が取り落としたバットが転がる音に凍り付いた思考が解かれ、弾かれたように総司は青褪めた顔を横に向ける。


 そうして、総司はまた凍り付く。 血の気が引き、体温が数度も下がったようにすら感じた。 寒気か、それとも恐怖によるものか、歯の根が合わずにカチカチと耳障りな音が聞こえる。


「ち、ちがっ! こ、こんな、つもっ……違うんだ!」


 混乱して言い訳じみたことを口走る野上の声も、総司の耳には入らない。 意識の全てが自分の隣で倒れ伏した人間に向いている。


「と……くら……」


 認めたくなかった。 しかし、そこに倒れているのは紛れもなく春だ。 無言で、青白い顔で、総司の呆然とした呟きにもわずかな反応もなく倒れている。


 春が自分を庇って殴られた──その事実に震えながら、総司は何も考えられないまま春へと手を伸ばす。

 どこを殴られたのか、怪我はひどくないか、気絶しているだけなのか、そういったことを考える余裕などなかった。 意識もしないまま自然と、ただ最悪の事態だけはやめてほしいと心の奥底で祈りながら手を伸ばしたその先で、総司の願いを嘲笑うかのように赤い滴が滴り落ちる。


 細い滴りはすぐに勢いを増し、うつ伏せで横を向いた春の顔を汚していく。 けして少なくないそれは、春の怪我の度合いとどこを怪我したか、それを雄弁に語っていた。

 総司の体がおこりにかかったように震え始める。 心臓は早鐘を打つように激しく鼓動を刻み、引きつった肺はまともに呼吸もできない。 胸が潰れそうな苦しみに耐えきれず、総司は俯き必死に息を吸おうとする。


「そ、そいつがい、いきなりっ! こ、殺すつもりなんて!」


 錯乱した野上の喚き声に、総司の震えが止まった。


──殺……す……つもり…………殺……す……──


──殺…………した?──


 恐ろしくて頭に浮かべないようにしていた言葉。 それを耳にした総司ははっと顔を上げる。 目に映る、ぐったりとした春の姿──そして、頭の中で渦を巻く野上の言葉。



──『死』



 その一文字を強く意識した瞬間、総司の視界は真っ赤に染まった。 引いていた血の気が一気に逆流し、耳の奥で血管を激しく血が巡る音まで聞こえる。 意識が沸騰しそうな激情に、わなわなと震えが止まらなかった。

 必死に喚き立てる野上の声も耳に入らない。 春を見ることができなくて、『死』を、恐ろしいそれを直視できなくて、ただ俯いている。


「な、なぁ、おい聞けよ! 俺は……悪くない! 俺は悪くないんだ! そいつが勝手に飛び込んできただけだ! そうだろ!?」


 見苦しい野上の叫びに、総司が微かに反応する。


──悪く……ない?──


 総司の震えが止まった。


 悪くない──


 ならば誰が悪いのか──


 誰が何をしたのか──


 一瞬、それを考えたのは総司の公正さによるもの。 だが、分かりきった答えはすぐに出る。 そして、どうするべきかも。

 奇しくも、総司の激情と冷静さは同じ答えを出していた。


 俯いたまま、ゆらりと総司は立ち上がる。 異様な雰囲気に気圧されるように、喚き散らしていた野上が唾液を飲み込み黙り込んだ。

 総司は野上を見ない。 見ないまま、衝動のままに右の拳を震えるほどに握っていた。 ギプスを砕かれて握れるようになった、しかし同時に、骨まで砕かれてけして握れるはずのない拳を。


 そして──絶叫が響き渡る。


「ひぃっ!」


 獣の咆哮に似た、原始的な衝動のままに放たれた叫び。 暴力的な吠声に、心胆まで凍て付かせられた野上が竦む。 その顔の真ん中に、総司の拳が突き刺さっていた。 汚い悲鳴を上げながら野上は地面に転がる。


「ひっ……ま、までっ! ぢがっ!」


 鼻骨が砕けたか、地面に倒れた野上はおびただしい鼻血を流しながら許しを乞う。 だが、顔を押さえながら情けなく手を突き出す哀れな姿も、総司の心には少しも響かなかった。

 それを示すように馬乗りになると、総司は一片の躊躇もなく拳を振り上げ──


「だ、だのむ! はなじを──」


 なおも許しを乞う野上に、総司の拳が無慈悲に振り下ろされる。 顔を押さえる手の上から叩き付けられた拳に、野上の後頭部は地面へと叩き付けられていた。

 数秒の間をおき、総司に突き出された手が力なく地面に落ちる。 沈黙した野上はぴくりとも動かない。 しかし、総司は止まらなかった。


 殴る。 殴る。 殴る。

 顔面を。 顔面を。 顔面を。

 一撃ごとに砕ける感触が拳に響く。 野上の顔面が無惨に血に塗れていく。 それでも総司は止まらない。


 殺した。 殺された。 身勝手な理由で、無思慮に他人を襲って、理不尽に巻き添えで殺した。 殺された。

 そこには斟酌すべき心情も、酌量すべき事情もない。 ならば──


──殺してやる!──


 荒れ狂う衝動のままに、総司は吼え、ただひたすら殴り続ける。 死んでも構わない、ではない。 殺してやると、明確な殺意に任せて拳を振るう。 叩きつける。

 もはや呼吸をしているかも分からない野上に、それでも総司の怒りは収まらない。 渾身の力を込めて殴りつけようと高々と拳を振り上げる。


「何やってんだ総司!?」


 野上の顔面に振り下ろそうとした拳は、その直前で止められた。 突然、羽交い締めにされた総司は背後の邪魔者を睨み付ける。


「杉田……!」


 そこにいたのは彰だった。 以前よりも日に焼け、さらにたくましくなったように見える。


「お前、これ……なんだよ!? 春も野上先輩もなんでこんなになってんだ!?」

「離せ、杉田! こいつ、戸倉を、ころっ、ころし──こいつ、殺して!」


 なぜここに彰がいるのか、そんな疑問も総司の頭には浮かばない。 それは単なる邪魔者でしかなかった。 羽交い締めから抜け出そうと、野上を殺そうと、総司は一層たくましくなった彰が必死になるほど激しく暴れる。

 何がどうなっているのか、彰にはさっぱり分からなかった。 ただ、野上が春を殴ったことと、それで春が殺されたと思った総司が激高していることだけは総司の言葉から理解できた。


「落ち着け! それより救急車だろ! 春、助かるかもしれないのに本当に死ぬぞ!」


 意表を突かれたように気の抜けた顔で、総司が彰を見返す。 そして、その顔が春へと向けられ、怒りに紅潮していた顔が一気に青褪めた。

 後頭部をバットで思い切り殴られ、ひどく出血している。 顔は青白く、わずかな反応も見せない。 そして何より、野上が口走った『殺すつもりは』というその言葉。 春が死んだと、殺されたと思い我を忘れた。

 だが、確認したわけではない。 怪我も出血はひどいが、処置を急げば命に関わるほどではないかも知れない。


「そ、そうだ! 救急車……電話っ! 早くしないと!」


 死んでいないかも知れない。 まだ助かるかも知れない。 それに気付いて、総司の凶気は去った。

 安堵した彰が総司の拘束をはずすと、総司は自分の体をまさぐり始める。 怪我をした手ではまともに使えないため、スマホを持ち歩いていないことも忘れるほどに動揺している。 そんな総司の様子に慌てて自分の携帯を取り出した彰は、総司に声をかけようとして携帯を取り落としていた。


 総司の服が血に塗れていた。 血塗れの手で体をまさぐれば当然の話だ。 だが、その血は野上を殴った返り血ではない。 断じてその程度で済む量ではなかった。

 総司の手を汚すのは総司自身の血だ。 相当な勢いで血が溢れ出すその傷がどこにあるか、どれほどのものなのか、素人の彰でも一目ではっきりと分かった。 止めどなく血が溢れるその傷口から、折れた骨が突き出しているのが嫌でも目に入ってしまった。


 愕然として叫ぶ寸前で彰は思い止まった。 見ているはずなのに、総司は自分の手の惨状に気付く様子がない。 それほどまでに気が動顛しているのだろう。

 だが、もし気付いてしまえば──その言語を絶する激痛に正気が保てるとは思えないと、辛うじて思い当たり口を噤む。


「お、落ち着け、総司!」


 どうすればいいかなど、こんな状況で考えてもいられない。 全てが一刻を争う重篤な状況だ。

 肩をつかんで揺さぶりながら必死に呼びかけると、焦燥に駆られた総司が泣きそうな顔になる。


「だっ……戸倉、俺をかばっ……そんなので、し……なんて、だめ、絶対!」

「分かってる! すぐに電話するから……だからお前は──」


 どう言えばいいのか。 怪我に意識を向けさせないように、どうするべきなのか。 必死に考えを巡らす彰だが何も思い付かない。


「とにかく休め! すぐに救急車もくるから!」


 結局、一刻も早く救急車にきてもらうしかないと、取り落とした携帯電話を拾い上げる。 そして、それが功を奏した。

 救急車が呼ばれると安心して緊張が切れたか、総司の顔から力が抜けたと思うと、そのまま総司は意識を失った。 あるいはそれは、襲いくる激痛から自分を守るために脳が働いたのかも知れない。


 倒れかかってきた総司の体を受け止め、彰はほっと息を吐く。 だが、安堵している場合ではなかった。 春も野上も、そして総司も危険な状態だ。

 右手が地面に付かないよう総司の体を地面に横たえると、彰は消防に連絡する。 分かる限りの状況を伝え、とにかく急ぐようにと頼み電話を切って一息吐いた。


 それと同時、携帯の画面に水滴が落ちる。 空を見上げると、重苦しい空から一滴二滴と雨粒が続けて落ちてきた。

 降り出した雨は勢いを増し、暗い空からの不吉の使者のように四人を濡らしていった。

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