第62話 愚直と愚劣
「んだと?」
心の奥で燻っていたものが込められた総司の叫びに、野上は柳眉を吊り上げる。 そこには総司に感じている不愉快さとはまた別の、より強い怒りのこもった不快感が表れていた。
だが、総司は苦痛に顔を歪ませながらも野上を睨み返す。 総司の目に怯えはなかった。 より強い感情が怯えを塗り潰していた。
「ここにきてから……ひどい目に遭ってばっかなんだよ……」
何が野上を刺激するかも分からない。
「みんな……自分のやってること……何とも思ってないバカ……ばっかで……」
持ち上げた足が何をきっかけに叩き付けられるか知れたものではない。
「あいつらだけで……やってるなら……どうでもよかったよ……」
それを考えれば何も言わない方がいい。
「それを……断ってるのに……頭おかしいことに巻き込んで……」
だが、総司の口からは留まることなく言葉が溢れる。
「……この怪我だって……戸倉が悪いんじゃないって分かってる……だけど──」
『こなければよかった』──野上の言葉は、総司が自分の目にも着くことがないほどに深く沈めていた気持ちを刺激していた。
「──何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
浮上してしまった、何度も感じながら、誰かにぶつけるのは間違っていると心の奥底に沈めていた気持ちを、もはや押し留めておくことはできなかった。
「最低なんだよ! 本当にバカなやつばっかで! ろくな目に遭わないし! こんなとこ、こなきゃよかったって思うに決まってんだろ!」
総司の口から、心に溜まっていた
当たり前だ。 いくら公正であろうとしたところで人間であり、ましてや子供の総司が何も感じないわけがなかった。
自分が母親の不貞に鉢合わせたこと。 それが原因で両親が離婚したこと。 そうして引っ越してから起きたこと。──全てのことがあまりに理不尽で、高校生が経験するにはあまりに重すぎる。 自分の身になぜこんなことが降りかかるのかと、嘆き、怒り、恨めしく思わない方がおかしい。
「ふざけんなよ! みんな嫌いだ! クラスのやつらも、あんたも嫌いだ! 戸倉なんか大嫌いだ!」
押し込められていた溶岩のような感情を一息に爆発させると、総司は荒く息を吐きながら目をつむる。
激情のままに、感情的に全てを吐き出した。 野上を刺激しようが、その結果がどうなろうがどうでもよかった。 我慢できずに全てを吐き出した総司は、どうにでもしろと体を投げ出す。 自分への嫌悪感も相まって、捨て鉢な感情に支配されていた。
だが、覚悟していた暴力が総司を襲うことはなかった。 しばし沈黙が続き、不意に聞こえた含み笑いに総司は目を開ける。
「バカみてぇな話だな。 お前がここにこなきゃお前もみんなも幸せだったのによ」
マスクに隠れて表情は分からない。 しかし総司が見上げた先、凶気にギラついていた野上の目は笑っていた。 他人の不幸に喜びを感じている、愉悦と、そう呼ぶに相応しい歪んだ感情。 それでも暴力的な気配は鳴りを潜め、愉快そうに肩を揺らしている。
「さっさと出てけよ」
だが、総司に向けられたのは暴力ではなく、冷めた声だった。
「本当はよ、ムカついてたしお前がここから出ていきたくなるくらいにボコボコにしてやろうと思ったんだけどな。 お前もここにいたくないってんなら話は早えぇ」
暴力的な雰囲気は消えた。 それでも、脅すように凶器を突き付けられて、総司は身を起こすこともできなかった。
「まあ一発は思い切り殴ったし少しはすっきりしたからな。 素直に出ていくならこれで勘弁してやるよ」
ここから出ていく──そうしたいと思ったことは何度もあった。 それで暴力から逃れられるなら迷う必要すらない。 だが、総司はそれに即座に頷かなかった。
総司がこの田舎町にやってきた事情を考えれば、出ていくのは簡単ではない。 それでも、こんなことにまでなった以上、総司が望むなら智宏は何かしらの方策を考えるに決まっている。
総司が本当にここから離れたいと思っているならできないことではない。 しかし、総司は頷かない。 躊躇うかのように口をつぐんでいる。
すんなり頷くだろうと、そんな予想を裏切る総司の無言に、野上は苛立ちを浮かべ、バットの先端を総司の額に押し付ける。
「お前が消えさえすりゃあよ、みんなだってしばらくしたら元に戻んだろ。 ちょっと前みたいにみんな楽しくやれんだ。 お前はそこに関わりたくないんだろ?」
額に食い込むバットの先端に、総司の顔が痛みに歪む。 それでも総司は頷かない。
野上の口元から不愉快そうに歯を軋らせる音がする。 だが、野上は激昂することはなかった。 ただバットの先端に一段と力を込め、言い聞かせるように言葉を重ねる。
「……ここもみんなも嫌いなんだろ? 悩むことなんかねぇだろうよ。 お前が出てきゃ戸倉たちだって喜ぶぜ?」
「……喜ぶ?」
総司の口から乾いた呟きが漏れる。 なぞるように繰り返されたその呟きに込められた響きに、野上は気付かない。 無言を続けていた総司が反応したことを言いくるめる好機と、マスクの下、野上は悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「お前は知るわけないけどよ、須原たちもみんな、うちのクラスの女とヤッたときは相当楽しんでたんだぜ。 それに……戸倉が俺の相手してどんだけよがってたかなんて想像もつかないだろ?」
愉快そうな野上の言葉に、総司の顔が歪んだ。
春たちに対する嫌悪感を煽れば総司も首を縦に振るだろうと、そんな単純で子供じみた悪意。 その効果は覿面に総司の心を掻き乱していた。
歯軋りせんばかりの不愉快さを顔に浮かべる総司に、野上はさらに畳み掛ける。
「松永も井口も、俺はヤッてねぇけど早瀬だって聞いた話じゃ変わらねぇよ。 みんな好きにヤッて気持ちよくなってたんだよ。 お前も仲間に入って楽しみゃよかったのに何が気に入らなかったんだか知らねぇけどよ、お前が消えて前みたいにできるようになれば喜ばねぇわけがねぇだろ。 そうしたら俺はまたあいつら相手に楽しんで……戸倉のやつも喜ばせといてやるからよ」
沈黙する総司に、今度は野上は苛立ちを浮かべない。 幼稚な悪意が効いていることは、総司の表情を見れば一目瞭然だ。 自分の望む言葉が出てくるに違いないと、余裕さえ浮かべながら総司を見下ろす。
「……に…………なよ……」
「あ?」
微かに漏れた総司の小さな声に、野上は
「一緒にするなよ!」
総司の怒号に、薄ら笑いを浮かべていた野上が顔を引きつらせる。 わずかにだが思わず野上が後ずさってしまうほど、総司の怒りは激しかった。
額を押さえていたバットがはずれ、総司は肘をついてかろうじて上体を起こす。 痛みはある。 だが、それを無視して体が動いていた。 野上に対する激しい嫌悪感がそうさせていた。
「あいつら……確かにバカだけど……あんたとは違う!」
どこか躊躇いを浮かべながら、それでも確信を込めて総司は断言する。
「俺のことはほっといてくれって、いないものと思って今まで通り好きにやってろなんてとっくに言ってんだよ! それであいつらがどうしたかなんてあんたは知らないだろ!」
野上の言う通り、転校してくる前の春たちが何をやっていたのかは知っていても、どのようにしていたのか、総司は詳しく知らない。 しかし、決定的なあの事件以降、クラスメートたちがどうしてきたかは知っている。
「関わりたくもないのにしつこく関わってきて……迷惑なのも分かろうとしないバカばっかで……だけど自分たちがしたことを忘れるようなバカじゃないんだよ!」
総司を傷付けたことを心の底から悔やんでいた。 自分たちがしたことから目を逸らすこともできず、何かしようと必死になっていた。 その姿を総司は見ていた。
「戸倉だって……バカだよ。 バカで、汚くて……大嫌いだ。 だけど……自分のやってたことも、やったことも分かってて……俺の世話だって本当によくしてくれてる。 あんないい娘……俺は他に知らない──それくらいのいい娘なんだよ!」
睨み付ける総司の目に、野上が怯みまた一歩下がる。
総司は感情を抑えることには慣れていた。 事情を知らずに怒りをぶつけることを嫌い、一呼吸おくことが自然となっていたからだ。
そうやって感情を爆発させることがなかったからこそ、爆発した感情を抑える術を総司は知らない。 心の奥底に沈めていた感情の爆発を引き金に抑えが利かなくなった総司の目は、鈍感で怖いもの知らずな野上ですら怯ませるほどに凄まじい怒気を帯びていた。
そして、感情の爆発のままに、総司はこの状況でけして口にすべきでないことまで口走ってしまう。
「あいつらはバカだけどあんたとは違う……あんたみたいな最低なバカ野郎と一緒にするな!」
言いたいことを叩きつけ、総司は荒く息を吐きながら無言となる。 肩を上下させる総司の睨み付ける視線と、どこか気圧された野上の視線がしばし絡みあった。
「お前……バカだな」
不意に、野上が小さくこぼす。 手にしたバットが小刻みに震え、その目には消えたはずの凶気が燃え上がっていた。 最低なバカ野郎と、そこまで罵られれば当然の話だ。
今さら出ていくと総司が言ったとして、収まるわけもないほどの怒りに震えながら、野上は威嚇するようにバットで地面を叩く。
「まあいいだろ。 最初からこうするつもりだったんだしな。 殺しゃしねぇけど──誰かに言ったらもっとひどい目に遭わせてやるからよ。 忘れんじゃねぇぞ!」
怒号ともにバットを振りかぶる姿に、一瞬後には襲いかかる暴力から命だけは守ろうと、頭を庇うように腕を巻き付ける。 殺しはしないと、その言葉に総司は逆に命の危険を感じていた。
後悔はあった。 余計なことを言わなければと。 出ていけばよかったと。
しかし、言わずにはいられなかったし、ここを出ていくこともできない。 出て行きたいと思うここから出て行きたくないと、本心からそう思っていた。
ただ、こんなところにこなければよかったと、それだけを矛盾なく思いながら総司は固く目をつむる。
その直後、総司が耳にしたことのない、硬いものがぶつかり合うような異音が庭に響いた。
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