第61話 凶気の襲来

 突然の恐慌と混乱すら覆い尽くす凄烈な痛みに、総司は地面にうずくまる。 右手を襲った衝撃と激痛は、激しいノイズとなって脳をかき回していた。 噛み締めた歯の間から苦痛を色濃く浮かべた呻き声が溢れ、全身から汗が吹き出す。 目から溢れる涙を拭うこともできない。


 振り返った瞬間、総司が目にしたのは自分へとバットが振り下ろされるところだった。

 危険に対する本能で反射的に体が動いた。 だが、総司の運動神経はさほどに優れているわけではない。 避けようとしたまではよかったが、同時に自分を庇うよう、咄嗟に右手を翳してしまっていた。

 頭や体へ攻撃を受けることは避けられたが、ほぼ治っていた右手は痛撃をまともに喰らってしまった。


 激しく脈動する疼きに、手が実際よりも膨れ上がっているように感じる。 いや、膨れ上がっているのも間違いではないだろう。 あの時よりも激しい痛みに、折れたと、それもあの時よりもひどいと、それを総司は感じていた。

 完全に砕けたギプスがいくらかは衝撃を肩代わりしてくれたようだが、そんなものは気休め程度でしかなかった。


「クソが……面倒かけんじゃねぇよ」


 忌々しげな声に、総司は歯を食いしばりながら顔を上げる。 そこにはバットを肩に担ぐようにして、血走った目で総司を見下ろす男がいた。 口元はマスクで隠している。 しかし、それが誰かは明白だった。


「ぅっ…………の……がみ……ぎぃっ!」


 総司が名前を口にすると、不愉快そうな舌打ちがマスクの下から漏れる。 それは肯定だった。


「ただ殴られておねんねしてりゃそれで済んだのによ、バレちまったらそうもいかねぇじゃねぇか、あぁっ?」


 バットの先端で地面を叩く野上に、総司の顔が怯えに歪む。

 元々、総司は喧嘩などしたことがない。 殴ったのも野上を殴ったあの時が初めてのことで、殴られたのも野上に殴られた今が初めてだ。


 高校生らしからぬ面の多い総司だが、暴力に対する耐性は低かった。 実際に暴力を加えられ、さらにそれをちらつかせる相手に下手なことは口走れない。


「俺に……殴られた……いっ……仕返し……」


 怯えながらも総司は口を開く。 誰かが通りかかるなり、距離は離れているが近所の人が気付くなりして騒ぎになれば野上も逃げるはずだ。 そのために少しでも時間を稼ぎたかった。

 総司の予想に、野上は暗い笑いを漏らす。


「殴られた仕返し? そんだけなわけねぇだろ」


 バットの先端を向けられ、総司は体を起こしそれから逃げるように後ずさる。 しかし手が使えない不自由な体はそのまま地面へと倒れ、手に響いた衝撃に鋭い悲鳴が上がる。

 総司の無様とも言える姿にも溜飲が下がることはないのか、野上の目は狂犬のようにギラついていた。 


「お前のせいでみんな変わっちまった……楽しくやってたのにみんなおかしくなりやがったんだよ」


 ギラついた目とは対象的に、その声は静かだった。 いっそ不気味なほどのその静かさが恐ろしく、総司はただ口を噤む。


「学校で集会があったって聞いてんだろ?」


 総司も渡部から聞いていた。 一部の生徒が起こした事件と問題行動についての説明ということで、当事者以外の生徒を緊急で集めて集会が開かれたと。

 そして、その際に渡部が強く主張して通達したことがあった。


「学校に注意されたから当分はセックスしないって……バレるわけもないのにバカだろ。 そもそもセンコーも今さらそんなこと言い出すとかよ、ふざけてるって思わないか?」


 生徒同士の不純異性交遊によって事件が起きたことを鑑み、今後は学校側も不純異性交遊に対して厳しく対処していく──その通達は生徒たちに衝撃を与えた。 今まで普通にしていたことが問題になるようなことだと、それを学校から、大人から突き付けられたのだ。

 そして、実際に何人もがそのために処罰を受けている。 その事実は、生徒たちに自分たちのしていたことの意味を考えさせる機会になった。


 渡部の思惑はここにあった。

 教え子たちのしていたこと、それで起きた事態に対して、根本を何とかしなくてはいけない。 そう考えてはいたが、地元出身の教師たちは自分たちもそうだったからと、深刻に考えようとしなかった。

 その矢先に起きたあの事件。 学校側も生徒を処分せざるを得ない大事になり、渡部はそれを、悪い言い方をするならば利用することにした。


 ──洋介たちに自分たちの行為を告白させ、処分を受けさせる。

 総司を守るためにどうすればいいか──教え子たちの相談に、それが最善の方法と考えたから教えた。 それは確かだ。

 しかしその裏側で、悪い言い方をすれば自分の教え子たちを見せしめにするという、そうしたことも考えていた。


 処分を決める権限は渡部にはない。 だからどうなるかまでは分からなかったし口にはしなかった。

 しかし、れっきとした事件になった以上は放置しておけないと、渡部と他にも数人いる外からきた教師の主張が通り、洋介たちにも処分が降った。


 完全になくならないにしても、生徒の大半は何も考えずに処分されるかも知れないことをしようとは思わなくなっていた。 時間が経つとどうなるかは知れないが、子供たちの意識に一石を投じることには成功していた。

 そしてそれは、受験を控えた三年、野上の周りで特に顕著だ。 


「……セックス……できなくなった……くらいで──」

「そんだけじゃねぇんだよ、クソが!」


 激昂した野上がバットを振るい、再度の悲鳴が上がる。 片手で振るったバットは、押さえられないのに本能的に右手に添えられていた総司の左手を打ち払っていた。

 最初の一撃よりは弱い。 ヒビが入るまではいっていない。 だが、ひどく傷めた右手にまで衝撃が伝わり、総司は悲鳴を上げながらのたうち回る。

 

「彼氏ができた戸倉にムリヤリ迫って彼氏に殴られた? お前らそんなんじゃなかったよな? それで付き合い考えるとかふざけんな! そんなことになったのも全部お前のせいなんだよ!」


 総司が苦痛に喘ぐ様にも、野上の激昂は冷めることを知らなかった。 激情のままに怒鳴り散らすと、荒ぶる感情に肩を上下させながら、総司を踏みつける。


 あの日、教師に追い払われる前に生徒たちが目にした光景。 野上たちが二年のところに何をしに行ったのか、それを知る三年が想起したのはもっともらしく、最も分かりやすい筋書きだ。


 ──春と総司が恋人同士になっていたにも関わらず、野上が以前のように関係を迫り総司に殴り飛ばされた。


 そこまで馬鹿な真似をする奴と思われて、仲間であってもそれを容認する者はいなかった。 それが事実でないと知る木村と遠野の二人も、周りを気にしてよそよそしくなった。

 違うと言っても無駄だ。 勘違いだったと言ったところで、それは相手の意思を無視してセックスを強要しようとしたと、その事実を明らかにしたに過ぎない。


 そうして、野上は三年の仲間というコミュニティから弾き出された。 付き合いを考えたいと、ほとんどの相手からそう言われた。

 完全にではない。 しばらくはと、宣告されたのはあくまで一時的なことだ。 だが、他の関係を作るなどできない、狭くて唯一のコミュニティからの排除は一時的であれ取り返しの付かないものだった。


 進学する気のない野上は夏休みを楽しむつもりでいた。 受験をする者たちとも、毎日でなくとも楽しむことはできた。

 それが全て失われた──その全てが総司のせいだと、醜く歪んだ自意識は暴発する先を求め止まなかった。


「お前がこなきゃ何も変わらなかったんだよ! クラスの連中とだってバカやって楽しんでたしあの日だって前とおんなじように戸倉とヤッてたんだ! お前なんかこなけりゃなかったんだよ!」

「………………よ」


 収まらぬ怒りをぶつけるよう持ち上げられた野上の足が、総司の微かな呟きに止まっていた。


「あ? なんつったよ?」

「俺だって……こんなとここなきゃよかったって思ってるよ!」

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