第60話 抱える矛盾

 春が家を出て、一人残された総司はリビングのソファで目を閉じる。 静かだ。 春と向き合いたくなくて点けっぱなしにしていたテレビも、最近は沈黙していることが多い。 外から微かに聞こえる虫の声も、西瓜に塩のごとく静寂を際立たせるばかりだ。


 誰もいない。 賢也の誘いに乗ったあの日以来、総司の家には誰もこない。

 正確には翌日に一度だけ、由美と梨子の二人がきた。 総司と二度と関わらないと、そう約束した男子と、自分も三人と同罪とした紗奈の姿はなく、四人からの言葉も預かって二人で謝りにきた。


 しかし、総司は二人をすぐに帰らせた。 由美と梨子に、それに四人に対しても、怒りをぶつけるのは間違いだと、それはあの時に言った通りだ。 だが、していたことに対して軽蔑はしているし、あれだけ罵ったことをなかったことにはできない。


 時間が必要だった。 もう前みたいにする気はないだろうと、今の総司には分かっている。 全員が反省し、後悔していると、そのことから目を逸らしてはいない。

 それでも、以前のように接することはできない。 どう接すればいいのか、総司自身も整理が付かない状況だ。 もちろん、関わらないようにするという選択もある。 しかし、自分が間違えていたと思っている総司はそれを選ぶことをよしとしなかった。


 だから時間がほしい。 夏休みが明けて、そこからさらに停学期間が明けるまで。 せめてそれくらいまでは時間がほしかった。 いくつものことで頭を悩ませたくなかった。 そう頼んだから誰もこない。


 静かだ。 目を閉じていると思考に集中できる。 集中しようとしなくても、今の総司の頭は勝手に一つのことに集中する──春のこと以外、何も考えられなかった。

 それはまるで、手の着けようもない恋をしているかのようだった。 しかし、そのベクトルは正反対だ。 情熱に溢れた南国の甘い熱病とはほど遠い、生命を拒絶する凍て付いた凍土の吹雪に晒されたように凍り付いていた。


 嫌悪と軽蔑と怒り。 春に対するその感情はわずかも薄まっていない。 見たくもないと、考えたくもないと、そう思う感情が渦巻いている。 それでも、総司の目は春から離れず、頭の中は春で埋め尽くされている。

 見ようと、考えようと、見なくてはと、考えなくてはと、向き合うためにそうしなくてはと自分に強いている──そうではなかった。 ただそうしてしまう、そうなってしまう。


(……どうすりゃいいんだよ)


 苛立たしさに内心で吐き捨て、総司はギプスに包まれた手を頭に叩き付ける。 すでに痛みはない。

 自分の抱える矛盾がどうにもならなかった。 小さな矛盾から始まった大きな矛盾。 そして、その小さな矛盾も少しずつ、自分の中で膨れ上がっていく。 その全てを理解して、その結末がどうなるかまで理解して、どうすればいいのか、ただそれだけが分からなかった。


 後悔しても遅い。 禁忌パンドラの箱は開かれた。 春の料理を食べて、その中身と向き合ってしまったのだ。

 もう見なかったことにはできない。 壊れた蓋は元に戻らず、見えなくすることも、中身が膨らんでいくのを留めることもできない。

 箱の中身はこれからも膨らんでいくだろう。 そして、何かしらの結論を出さなくてはいけなくなる。 そうしなければ自分が壊れる。 いや、どんな結論を出したところでやはり壊れるのかも知れない。


 頭を叩く手を止めると、総司は自分の手を見る。 明後日にはこのギプスがはずれる。 それを終止符としてしまおうかと、そんな考えが頭をよぎる。

 もう遅い。 しかし、それでもこのまま続けるよりはいいのではないか。 しばし考え込み、総司は首を横に振る。 そして思い浮かべる──春が自分にしたことを。


 鮮明に覚えている。 思い出せる。 忘れられるはずがない。 最近のことで、特別で忘れ難い初めての体験で、それを最悪の形で迎えさせられた悪夢だ。

 身を寄せてきた春の体臭、胸の柔らかさ。 唇が重なり、絡められた舌と、そうして感じた唾液の味。 自身を愛おしそうに触る手の感触。 そして──


 胸に溢れてきたその感情が答えだった。 春をけして許せてはいない。 されたこと、させられたこと──押さえ付けられてセックスをさせられた。 それも人に見られながらだ。 その恥辱の記憶は消えていない。

 それなのに、春を許したなどと言えない。 終わりにするためでもそんな嘘は吐けない。


 吐き気も苦しさも感じない。 だが、それは春を許したからでも、時間が経って気持ちが落ち着いたからでもない。 そもそもそれは、関係なかったのだ。


 春の犯した過ちは総司の心的外傷トラウマになってなどいなかった。


 違った。 そうではなかった。 春と向き合うようにしてから、総司はようやくそのことに気付いた。 目を逸らそうとしている間は気付けなかった。

 生き恥を晒させられた。 あれほど不快だったことも、怒りを感じたことも他にない。 それだけの経験だったが、傷にはなっていない。 それはまた別のものだ。


 傷のことを考えた一瞬、頭を掠めた光景に吐き気を感じ、総司はそれを慌てて心から押しやる。 心の傷はまだそのままだと、再確認した。 何も変わっていない。


 春に世話をしてもらって、感謝もしているし春がいい娘なんだということは改めて感じてはいる。 ただそれを、総司は別のものとしてしか見れない。 許せないままでいる。 春の好ましい面を見て、それを認めながらも、されたことがなくならないように感情は少しも変わらない。


 どうにもならないことが頭の中で激しく渦を巻く。 考えて、考えて、いくら考えても答えが出ない。 同じ場所を同じように、寸分違わず同じルートで回り続ける。 わずかなブレもなく思考が空回りしている。 どこにも出口がなかった。

 どこかで自分に嘘を吐かなければ解決しない。 それなのに、総司は自分が嘘を吐くことをどうしてもよしとできなかった。


 苛立たしさに声を漏らす総司だが、微かに聞こえた音にふと顔を上げる。 陽光で明るかった部屋がいつの間にか暗くなっていた。 窓の外に目をやると、よく晴れていたはずの空が厚い雲に覆われていた。 微かに唸るような音が、総司の鼓膜をまた微かに震わせる。


 熱雷か、あるいはゲリラ豪雨がくるのだろうか。 あまりにも急激な天候の変化に驚きながら広間に移動すると、総司は洗濯物が干された庭を窓越しに見る。 飛ばされてはいないが、洗濯物がたなびく様から風が強くなりつつあることは伺える。 雨も間違いなく、さほど経たずにくるだろう。


 時計に目をやる。 春が言葉通りに三十分で戻るとして、まだ十五分ほどかかるか。 それまで雨が降らないとは限らないし、風で飛ばされるのもそう遠い話ではなさそうだ。

 右手の人差指で窓を開けると、総司はサンダルを履いて庭に出る。 洗濯ばさみをはずすのは無理でも、少しくらいなら洗濯物は取り込める。 全てが駄目になるよりはましだろう。


 春が踏み台に乗って懸命に干していた洗濯物を、総司は軽く手を伸ばして取っていく。 しかし不自由な手では相当にやりづらく苦戦してしまう。

 そんな総司を焦らせるかのように、先程よりも大きく低く、地を揺るがすような地雷じがみなりが響いた。


 雨がすぐにでもきそうなことを意識させられ、ふと、総司は春のことが気になった。 あれだけ天気がいい中を出て行ったのだ。 傘を持っているはずがない。

 行ったのは春の家だ。 普通に考えれば春の傘もあるだろうし、仮になかったとしても土砂降りの中、傘も持たせずに家族が帰らせるわけがない。 何の心配もいらない。 ただ、考えるよりも先に気にかかった。

 春を気にかける心のまま、総司は自然と春が出て行き、帰ってくるはずの玄関へと振り返り──



 ──総司の苦鳴が庭に響き渡った。

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