第59話 変化と変化

 気持ちよく晴れ渡った空から、目も眩むような陽光が照り付ける。 八月の日差しは朝から容赦なく、そこにいる生命を傷付けるかのように鋭く降り注いでいた。

 しかし、それは主婦にとってはありがたい恵みでもある。 主婦ではないが、春にとっても恵みだ。


──いいお天気だね──


 洗いたての下着や服が詰まった籠を置いて空を見上げると、春は踏み台に乗り物干し竿を拭く。

 若さゆえか、あるいは田舎育ちの純朴さゆえか、日焼けを気にして日焼け止めを塗ったりはしていないその肌は浅く小麦色になっていた。 Tシャツと短パンという服装も、その肌色も、事件前の春ならよく似合っていた。 鼻歌でも歌いながら楽しそうに家事をしていただろうことが容易に想像できる。


 しかし、今の春にそんな、頭上で輝く太陽にも負けないほどに眩しかった以前の明るさはない。 洗濯物を干すその顔には、憂いを表すように影が落ちている。

 それでも、先日のあの出来事──総司が自分自身と向き合うことになってから、その憂いも薄くなっていた。

 鼻歌などとても出ない。 しかし重苦しい気持ちばかりでもなく、洗濯物を干しながら、春の心はくすぐったいような気持ちと居心地の悪さが混じった微妙な感覚に満たされていた。 その原因はいくつかある。


 自分の下着と総司の下着を一緒に干していることもそうだし、今、手にしている物もそうだ。

 総司が選んだ春の水着。 白のレースを重ねたオフショルダーのタンクトップ風トップスに、こちらもレースのミニスカ風のボトムスで、洋服のようなデザインのタンキニだ。 淡いブルーを基調とした小さい花柄のビキニが若干透けて見えるものの、とても可愛らしいデザインで春に似合っている。


 露出が少ないということを何よりも重視してのチョイスだ。 春に似合うようになどと、総司にそんな気持ちはなかった。 春に着てほしいと、そんなことは欠片も──いや、水着を着てほしいとこの上ないほど強く思っていたのは確かだが、恋人にこの水着を着てほしいというような、そんな甘い気持ちは微塵もなかった。

 それでも、総司に可愛い水着を選んでもらえたことを春は嬉しく感じていた。


 そして、水着を見れば否応なしにそれを着る状況のことが思い浮かぶ。 春は水着を着ているが総司は全裸だ。 見ないようにできればいいのだが、そうすると意図せぬ事故が起きる可能性がある。

 その可能性は決して『0』にはならない。 この先、いくら分母が積み重なろうと、すでに分子には『1』という数字が深く刻み込まれている。 つまりはやらかし済みだ。


 総司は激怒した。 見えずに事故が起こるくらいなら見られる方がまだましと、羞恥心を堪えながら全裸を晒すことを選んだ。 その上で、自分にとっての最悪な出来事を思い起こさせられた。 さすがの総司もそれは怒る。

 しかし、詳しく言わなかった自分にも責任はあると、すぐに怒りを引っ込めて謝ったのは実に総司らしい。 女子に対してその部分を『よく見ろ』などと言うのは、思春期男子にとってハードルが高過ぎたわけだが。


 それ以降、春は事故を起こさないためにがんばっている。 総司に言われた通りに、じっくりと見るようにしている。 思い出して思わず赤面してしまうのも、微妙な気持ちになってしまうのも当たり前の話だ。

 以前なら、そうしたことに対しても重苦しい気持ちしかなかった。 総司の苦しみが、自分がそれを与えたことが、それが常に心にのしかかり、今みたいな気持ちになることはなかった。 とてもなれなかった。


 今もそんな、どこか浮ついた気持ちになるのはいけないと思いはする。 しかし、それを抑えるのは無理だった。

 軽く頭を振って洗濯物を干しながら、春は後ろをそっと窺うように振り向く。 そこには、広間に面した縁側に座る総司がいた。 無言で、仏頂面で、それでも春のことをじっと見つめている。


「えっと……総司くん? そこ……暑くない?」

「……別に」


 ぶっきらぼうな返事に、春は曖昧に頷きながら洗濯物に向き直る。

 総司の返事は分かりきっていた。 毎日、一日に何度も繰り返しているやり取りで、春の心境が重苦しいばかりでなくなった最大の原因だ。


 春が総司に一つの許しを与えられてからの日々は、大きく変わることはなかった。 春が親身になって総司の介護をし、総司はそれに礼を言ったり面倒をかけていることを謝ったりしながら、それでも不機嫌そうな様子を見せる。 それは何も変わらない。 許されていないことに変わりはない。


 しかし、総司は変わった。 春が戸惑い、自分でいけないと思う心の動きを抑えられないほどに、その変化は大きかった。

 総司の苦しみが軽くなったこともある。 少なくとも春にはそう思えるくらいに、総司の様子は変わった。

 以前のように夜中にひどくうなされることはもうない。 少し寝苦しそうにしていると、そう感じる程度で、春が手を握れない代わりに頭を撫でるとすぐに落ち着くようになっていた。 もちろん、総司がそれを知る由はないが。


 春の料理も食べられるようになったことで、吐きそうになるようなことはなくなった。 それも大きな変化ではある。

 だが、それよりも遥かに大きな変化があった。 春に向けられる総司の視線だ。

 春を見る目は変わらない。 冷めた目で、不快感を浮かべている。 それは以前のままだ。 そして、以前の総司はその感情を表すように、あまり春に目を向けなかった。


 それがどうなったかと言えば、今の状況が言葉にする必要もないほど雄弁に語っている。 総司の身の回りの世話をしている時も、離れて家事をしている時も、自分をじっと見つめる総司のことを春は常に感じるようになった。

 

 総司がどういった心境でいるのか、春には分からない。 春を見る総司は以前にも増して不機嫌そうに、不愉快そうにしている。

 何度もため息を吐く総司が心配で、春は毎回、部屋にいることを控えめに勧めるが、総司は言葉少なにそれを拒絶する。 そうして、春を視界からはずそうとしない。

 そうやって総司に見られ続けるのは落ち着かず、同時に嬉しくもあった。 それはやはり、総司が春と向き合おうとしている証で、苦しみが薄れていることの証でもあるからだ。


 自分が何かできたわけではない。 償いなどできていない。 それは心苦しく、しかし総司の苦しみが和らいでいることは嬉しくないわけがなかった。 総司が自分を見ようとしてくれていることが、嬉しくてたまらなかった。


「待たせちゃってごめんね」

「……待ってたわけじゃないよ」


 洗濯物を干し終えた春は小走りに総司に駆け寄る。 総司が汗ばんでるのを見て謝るがそれは軽く流された。

 デートの待ち合わせをしていたカップルのようなやり取りだが、それをおかしく思うような心境に二人はない。 ただ、やはり変化はあった。


「その……毎日暑いよね」

「……夏だからな」

「だよね……えっと、シャワーとか大丈夫?」

「……いい」

「そ、そうだね。 朝に浴びたばっかだし……」


 総司の言葉少なな返答に話は続かず、それでも春は必死に言葉を探す。 総司が気分を悪くしないかと、そう心配してあまり触れようとしなかった姿はそこになかった。

 そして、総司も春が話しかけるのを止めない。 無視することもなく、春の言葉に応え、答える。


 不機嫌そうな総司に対してできることはないかと、春は総司に話しかけるようになった。 楽しく話せるわけはない。 それでも積極的に、ただ黙り込むよりかは総司の気が紛れないかと声をかける。

 不快だったら総司は止めてくれると、その思いは以前からあった。 しかし、そもそも不快にさせたくないと、必要ない限りは春が口を開くことはなかった。  


 謝ることを許された──ただそれだけのことが春を大きく変えていた。 謝れば何もなかったことになるわけではないと、そんなことは春も分かっている。 それでも、それを許された今とそれ以前には大きな隔たりがあった。

 とは言え、楽しい話はできない。 話が膨らむこともなく、話すこともすぐに尽きる。


 話題を探すように虚空を彷徨さまよっていた春の視線が、縫い付けられたかのように不意に止まっていた。


「明後日だね……」

「……そうだな」


 春の言葉に誘われるように、総司はギプスに包まれた手に目を向ける。 何も楽しいことのなかった夏休みも今日を含めて残すところ十二日。 終業式の日にひどく折れた骨も、すでにギプスの必要もない程度には繋がっているはずだ。

 両手を使えない一ヶ月という時間は、相当に長く感じたに違いない。 その間にあった様々なことを考えれば、早く終わってくれと願っていただろうことは想像に難くないだろう。


 リハビリはあるが、明後日にはこの生活ともお別れとなる。 それをどう思っているのか、総司の表情からは窺えない。 不愉快な表情が仮面のように貼り付くばかりだ。

 だが、春は違った。 総司のギプスを見て顔を曇らせる。

 一瞬──と言うには長かった。 しかし、すぐにそれを振り払うように頭を振ると、春は総司の横から家の中へと入る。


「暑いから中に入ろ? 麦茶も用意するから。 あ、それと野菜とかもらいにちょっとうちに行ってくるね。 三十分くらいで戻るけどトイレとか大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「帰ってきたらお昼ごはん作るね。 チャーハンにしようと思うんだけど──」

「いいから早く行ってきなよ」


 総司に促され、春はキッチンに行って麦茶の準備をする。 ソファに座った総司の前にストロー付のコップを置くと、春は行ってくるねと一声かけて出て行った。

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