第58話 許しと謝罪

「なんで……総司くんが謝るの?」


 春の口から漏れた声は掠れ、微かに震えていた。

 想像できなかったわけではない。 聞きたくなかった。 総司に謝るなどしてほしくなかった。 総司は何も間違っていないのだから。

 自転車の後ろに座った総司は、春の体に手を回すでもなく、面倒くさそうに息を吐く。


「……俺が悪かっ──」

「悪くないよ……! 総司くん……謝ることなんて……何もない……謝らないといけないのはあたしなのに……」


 悪かったと、そう言おうとした総司を、春が声を荒げて遮っていた。 総司の顔を見れないのは変わらない。 だが、否定されるのを総司がいかに嫌うかを知った上で、春は言わずにいられなかった。

 自転車のグリップを手が白くなるほどに握り締め、呪縛から解き放たれたように総司を否定しようと、勢いはないものの言葉を重ねる


「どれだけ謝ったって……許してもらえないし……謝らせてももらえないようなことして……なんで総司くんがあたしに──」

「謝ればいいだろ」


 あまりにも自然な総司の言葉に、春の意識が硬直した。 何を言われたのか分からないように固まり、思わず背後を振り返る。

 総司は──何も変わっていなかった。 春と同様に泣きはらした赤い目で、春のことを不機嫌そうに見ている。 変わったようには見えなかった。 それでも、総司の口から出た言葉は春にとって、許しの言葉にしか思えなかった。


「……戸倉のことは嫌いだよ」


 面食らって言葉も出ない春に、総司は不機嫌そうなまま、辛辣な言葉を投げかける。 


「馬鹿だと思うし、汚い女だって思ってる」


 胸の痛みに、春は微かに顔を歪める。 しかし、すでに思い知っていることで、捨てることはできなくても諦めている春は涙を浮かべることはなかった。


「やめたからって許せるわけもないし……あのことだって……」


 一生忘れない──小さく呟いた総司に、春は沈痛な顔で俯く。 自分が、自分の愚かさがそれほどまでに人を傷付けた。 一生、背負い続けなくてはいけない罪。 その重さに顔も上げられない。


「許してなんかいないし……許せる気だってしない。 一生許せないかも知れない。 だけどさ──」


 軽くため息を吐く。 そうしてできた一拍の間。 本当にわずかな間を空けて、総司はその言葉を口にしていた。


「許さないって決めるのはやめた」


 春が思わず顔を上げていた。 何も変わっていない総司──それでも今朝までの総司とは違う。

 魂を抜かれたように口を開けたままの春に、総司の表情が変わる。 それはほんの微かでほんの一瞬だけ、呆れたようなものではあったが、久しぶりに見せた総司の笑み。 苦笑であろうと、本当に久しぶりな総司の感情だった


「先生にも言われたんだ。 『許さないって決めるのはやめておけ』って」


 渡部に言われ、そして何より自分の心がずっと叫んでいた。 ただ、感情に囚われてそれから目を逸らし続けていた。

 許せないと、その感情が収まったわけではない。 総司の様子も、それを雄弁に物語っている。 しかし、それでもだ。 春と向き合い、自分の心と向き合った総司には確かな変化が起きていた。


「だからさ……謝るのも償うのも好きにすればいい。 今までそれを認めなかった俺が間違ってたし……悪かったよ」


 総司の許しに、春はまた俯いていた。 赦しではなく許し。 罪を赦さず、それを償うことも認めなかった総司に、謝り、償い、赦されるかも知れない道を許された。


「ごめん……なさい……」

「……ああ」


 恐る恐る、春の口から出た謝罪。 それに総司が少し苦々しげに、それでも頷いた。 もう止まらなかった。


「ごめん……なさい…………ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 春の口から何度も何度も、それまで謝りたくても謝れなかった分を吐き出すように、謝罪の言葉が溢れる。


 馬鹿な女でごめんなさい。

 汚い女でごめんなさい。

 勘違いしてごめんなさい。

 ひどいことをしてごめんなさい。

 傷付けてしまってごめんなさい。

 苦しめてしまってごめんなさい。



 ──好きになって……ごめんなさい。



 謝りたいことが多すぎた。 何に謝っていいかも分からずにただごめんなさいと、春は延々と繰り返す。

 涙混じりに謝り続ける春に、総司はずっと相槌を打ち続けた。 もういいと、そう返すのは赦しを与えるようでできず、春の謝罪が止むまでの間ずっと、そうし続けていた。




 日が山に差し掛かり始めた頃、二人は総司の家へと戻ってきた。 リビングの電気を点けて総司がソファに座ると、春はテレビの電源を入れる。 いつものことだ。


「……お腹空いたな」


 総司の呟きに、春も思わずお腹を押さえる。 二人して泣き腫らして、帰りはかなりの時間、自転車にも乗らずに歩いていた。 体力はかなり使っている。


「……用意するからちょっと待ってて」


 テレビを見ながら生返事をする総司を置いてキッチンに行くと、春は冷蔵庫から食材を取り出す。 下拵えは由美と梨子が済ませていた。 食材を切り、豚肉をタレに漬け込んである。 そこまではしていて、そこまでしかしていない。 最後の仕上げは春がしなくてはならない。


 また総司は食べられないだろう。 それでも智宏の分は用意しなくてはいけないからと、久しぶりに春は料理に取りかかる。 豚の生姜焼きとニラともやしの炒めものを手早く作り、そうして春は総司のためにレトルトのカレーも温めておく。


「できたよ」


 テーブルに料理を並べて声をかけると、総司がダイニングへとやってくる。 春が引いた椅子に座り目の前のカレーをじっと見る総司。

 隣に座ってカレーをスプーンですくうと、軽く冷まして総司の口元に運ぶ。 いつもしていること。 だが、総司の反応はいつもと違った。


「……どうしたの?」


 総司は春の問いかけにも口を開かず、難しい顔で机を睨むようにしている。 どうしたのかと首をかしげる春に、総司はまた苛立たしそうにため息を吐いた。


「……そっち」

「……ふぇ?」


 思わず間の抜けた声を上げて、春は総司の視線を追う。 そっちと、そう指した総司の目は一応、並べるだけ並べた春の料理を見ていた。

 それが意味することは分かってもすぐには理解できず、思わず総司の顔と自分の料理を交互に見てしまう。


 恐る恐る、生姜焼きを一切れつまみ上げる。 総司のために最初から一口サイズに切られていたそれを、しかしすぐに総司の口へは運べない。


「その……無理……しなくていいと思うけど……」


 心境が大きく変わった総司が無理をしてるのではないかと、そう心配する春だが、総司は黙って口を開ける。 そこに春がゆっくりと箸を運ぶと、総司は豚肉をゆっくりと咀嚼して、吐き出すことなく飲み込んだ。


「……大丈夫?」


 心配そうな春の前で、総司は沈黙する。 気分が悪そうな、吐きそうな様子はない。 しかし、別の意味で気分が悪そうに顔を歪め、その口が微かに動いた。

 その小さな呟きは春には聞こえない。 聞き返そうとした春の前で総司は大きく息を吸い込むと、三秒もかけてそれを吐き出す。 事件以来、総司が頻繁にため息を吐くのを見て、その度に自分のせいだと心を痛めていた春もここまでの深いため息は見たことがなかった。


「……美味しいよ」


 項垂れるようにしながら総司が呟く。 その言葉に、しかし春は喜びよりも戸惑いを感じていた。 


「……本当に? 大丈夫?」


 ずっと食べてもらえなくて、それが食べてもらえて、美味しいと、そう言ってもらえた。 嬉しいはずで、嬉しくないはずがないのに、しかし、総司の様子には不安しか感じない。 無理をしているのではと、嬉しさよりも総司に対する心配の方が先に立つ。


「大丈夫……」


 分かったから──また小さく呟く総司の言葉を、今度は春も聞き取っていた。 聞き返そうとして、しかしそれより早く、総司が口を開ける。 もっと食べさせてほしいと、そう促されて春はまだどこか不安げに、総司の口へと料理を運ぶ。

 結局、総司は吐き気を催すようなこともなく、春の料理を全て食べた。 カレーまでしっかり平らげた総司に、春もようやく安心して自分の食事に取りかかる。


「……ちょっと一人にさせてくれ」


 不意に立ち上がった総司は、そう言い残すと自分の部屋へと向かった。 総司の背中を見送り、春は首を傾げる。

 いつもは春が食事を終えるまで、総司もそのまま待っていた。 先程の呟きのことも含め気にはなるが、今日、総司に起きたことを考えると訊くのははばかられる。


 必要なら総司は話してくれる。 だから自分からは訊かない。 そう決めると春は食事に専念する。

 シャワーでさっぱりさせてあげて、他にも総司のために何かしてあげられないかと、そう考えながら春の顔には久しぶりの笑みが浮かんでいた。

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