第一章 第二節

 大学からの帰路、京王井の頭線久我山駅でおりた優孤は、住宅街のなかを歩いていた。陽が落ちているせいで、だいぶ空気が冷えこんでいる。コートを着ているひとでさえ、縮こまるほどだった。

 駅から十五分ほど歩き、優孤は自宅マンションに到着した。少しだけ距離があるが、自転車を使用したことはない。

 なんとなく歩きたい。便利な道具を使わないわけは、単純なものだった。

 マンションは、一階がガレージになった三階建てだった。俯瞰すると歪な形をしており、そのために全部屋が角部屋という特殊な作りをしている。

 一方で、なかの間取りに特筆すべき点はない。廊下兼キッチン、小さな浴室とお手洗い、抜けた先にはフローリングの六畳間がある。真南を向く、陽当たり抜群の部屋だった。

 ベッド、テレビ、背の低い本棚、三段の衣装箪笥、姿見。これらすべてに装飾がなく、家具はすべてシンプル。悪くいえば、少々味気ない。

 天井から、白い蝶の折り紙がいくつかぶらさげられていた。

 バッグを放った優孤は、歩きながらコートを脱いだ。ワンピースがシワになるのを厭わず、ベッドに寝転がる。ひとつため息つくと、意味もなく天井を見つめてつぶやいた。

「紫さま……」

 紫は、いまでもきっとこの蝶を追い求めているはず。死んでしまうなんてことは絶対にない。あり得ない。あり得てはいけない。優孤は、信じつづけている。主を失うことは、人形にとって死に等しいのだから。

 疲労によるため息をついたあと、のそりと身を起こした。サイドボードのリモコンを手にし、テレビの電源を入れる。

 ゆうがたのニュースが放送中だった。容姿だけが取り柄の女性アナウンサーが告げる。

『東京都中央区、外堀通りで発生した議員秘書殺害事件から、本日でちょうど半年が経ちました。依然として凶器は見つからず、容疑者の特定にも至っておりません』

「……そんなこともあったわね」

 命が奪われるほどの大きな事件であっても、たった半年で興味の外に置かれてしまう。事件が起きたばかりは、どこの局でも我先にと報じられていたのに、世論の興味はすっかりべつのものへ移ってしまった。いまは、アイススケートのオリンピック代表選手が誰になるかという論争に熱が入っている。優孤にとっての紫は、何年経とうと色褪せることはないのだが。

 いも虫のように動いた優孤は、放ったばかりのバッグに手をつっこんだ。なかから携帯電話をだして、開く。周囲はスマートフォンを持っているひとばかりだが、通話しかしない優孤には無用の長物だった。

 着信履歴の画面を呼びだして、優孤は電話をかけた。わずか二回のコールのちに、元気な声が応答した。

「もしもーし」

 優孤は簡潔に答えた。

「お願い、兎萌美」

 しばし間が開いた。

「うん、わかった。準備しとく」

 通話を終え、優孤は立ちあがった。ワンピースを脱ぎ、タイツも白い下着も外す。姿見に映るのは、蝶を象ったペンダントだけをつけた、女の子らしい華奢な肢体。胸は大きすぎず、脚も腰も細い。紫が愛でてくれたこの身体を、優孤は心底気に入っている。

 ペンダントを取ると、耳と尾が顔をだした。圧縮された空気が弾けるような、めいっぱい引っ張られたゴムが一気に戻るような、そういう類の快感に優孤は声を漏らした。

「んっ……」

 やはり、この自然な姿でいたい。紫が作ってくれたこの身体で、堂々と外を歩きまわりたい。優孤は何度そう願ったかわからない。

 裸になった優孤は、外出のためにシャワーを浴びた。特に耳と尾を入念に洗った。髪にするのと同じように優しく、ときにはトリートメントも使用する。一番のお気に入りなのだから、当然だった。

 兎萌美の家でシャワーを浴びたことはない。いく前に綺麗にして、たとえ汗で髪の毛がべたべたになっても、汗や愛液で下着がびしょ濡れになっても、帰るまでは我慢する。それが決まりごと。絶対に破ってはならなかった。

 髪と尾を乾かし、どちらにも櫛通しをした。やや古びた竹櫛だった。落ちた際に折れてしまったところがあるけれど、新しいものはいらない。紫が手ずから作ってくれた、紫のにおいを感じられる数少ないもののひとつだった。

 シンプルな白の下着をつけ、タイツをはき、グレーの簡素なワンピースを着た。サックスブルーのマフラーを巻いて、ペンダント着ければもう完成。化粧はしない。これ以上のおしゃれは必要ない。ポーチほどの小さなバッグを肩にかけて、外に出た。

 兎萌美が住んでいるマンションは、電車で三駅隣りの浜田山にある。

 到着してインターフォンを鳴らすと、兎萌美はすぐに出迎えてくれた。

「いらっしゃい。少し遅かったね」

「いつも通りよ。あなたがそう感じただけ」

 兎萌美はガウンしか着ていなかった。

 逸る気持ちを抑えられなかった兎萌美に、優孤は歯ぎしりをした。心の中で、罵倒の言葉を並び立てる。

 勘違いしないで。あなたはいいひとだけれど、わたしの一番じゃないのよ。あなたにお願いするのは、わたしがお人形だから。ぜんまいを回してくれる誰かが必要だから。決して、あなたがいいからじゃないの。あなたを紫さまに見立てているだけなのよ。あなただってそうでしょう。幼いころに両親を失い、ひとりの力で歩くことに疲れてしまったからでしょう。そういう、傷のなめ合いでしかないはずよ。

「優孤」

 ドアが閉まりきらないうちに、兎萌美はキスをせがんできた。優孤は、手のひらでその唇を覆った。

「だめよ。ルールは守って」

 残念がる兎萌美を置いて、優孤はなかへ入っていく。間取りは優孤の部屋とほとんど変わらない。家具や内装にも、妙な少女趣味や変な土産物はない。ただ、一枚だけ妙な水墨画が飾られている。円環状になった蛇だが、尾を食んではいない。でき損ないのウロボロス。優孤は、そう呼んでいた。

「固いね。優孤は」

「違うわ」

「固いって」

 煙草に火をつけ、兎萌美は換気扇のスイッチを入れた。紫煙が次々と換気扇に吸いこまれていく。

 銘柄は、紫が吸っていたものとは違う。フィリップモリス社の、マルボロ・ウルトラライトメンソールだった。

 兎萌美に喫煙の習慣はない。これは、優孤のわがままによるものだった。彼女は、煙草のにおいがしないキスを嫌っている。絶対に嫌だと拒絶を示す。それだけで、紫がいないという事実をつきつけられた気になってしまうから。煙草がいいにおいではないことを承知で、兎萌美に喫煙を強いている。

「固くないわ。そもそも、そういう議論の余地はないのよ」

 優孤は、しわひとつないくらいに整えられたベッドに腰をおろした。

「紫さんがいるから?」

「あたり前よ」

 わかっているなら、どうしていうのか。優孤再び歯ぎしりをした。

「疲れない?」

「疲れるわけないわ」

 雄が雌を求めるのと同じだ。人形が主を求めるのは本能だと、優孤は思っている。本能に従っているだけなのだから、むしろ気は楽だ。それに反するほうが、兎萌美を本命として求めるほうが、紫を追い求めるよりもよっぽど疲れが溜まる。

まさか、兎萌美は自分を本命にしているのか。そう感じた瞬間、優孤のなかに渦巻いていた苛立ちが形になった。

「やめてよ、そういうの」

 つぶやき、立ちあがった優孤は、玄関へ向かった。

「どうしたの?」

「帰るわ」

「なんで」

「冷めてしまったの。それだけよ」

「待って」

 兎萌美は腕をつかんだ。

「放して。わたしを捕まえていいのは、紫さまだけよ」

「謝るから」

「嫌よ。もう決めたの」

 少しの沈黙があった。換気扇の羽音だけが饒舌になり、やがて兎萌美の手は力なく離れていった。

「ごめんね、優孤」

「それ以上謝るようなら、一生ここへはこないわ」

「……わかった。じゃあ、明日」

 パンプスをはいて、優孤はマンションをあとにした。

 兎萌美とは、傷を舐め合う関係でしかない。気分が乗らないのなら行為には及ばない。悪いとか謝るとか、そういう問題でもない。未来のない関係に謝罪や罪悪感がつきまとってはならない。いくら心を痛めても、癒すための機会はない。満足だけを素直に享受すればいい。いまを延々と引き延ばすだけが目的なのだから。

 しかし、兎萌美以外の相手が見つからないというのも、事実だった。

 兎萌美は、十五年前に両親を失っている。大切な導き手をなくし、強がりながら、生きてきた。優孤との結びつきは、そういう共通点だった。

 優孤は、住宅街の路地を、ひとりゆく。街灯はまばらだけれど、歩くのに困るほどではない。じゅうぶんに明るかった。

 バッグのなかで、携帯電話が震えたような気がした。取りだしたときには切れてしまっていたが、着信はたしかにあった。海原(うなばら)清(きよ)海(み)。知り合いの女性だった。優孤はすぐに折り返した。

 清海はなかなか出なかった。スピーカーモードに切り替えて、歩きながら出るのを待った。もう切ってしまおうかと思ったときに、ようやく出てくれた。

「もしもし優孤?」

 すっかり酒と煙草に焼かれてしまった、ハスキーな声だった。

「遅いわよ」

「あなたは出なかったでしょう」

「出先なのよ」

「それは悪かったわ」

「用件は?」

「紫に関する情報が入るかもしれないの」

「本当?」

「ええ。詳しくはまだわからないけど、日塔ひとうの当主が殺されたわ」

 日塔家は、人形師としてもっとも有名な家系のひとつだ。当主は、日塔霜月しもつきという。家内政治のやりかたは、圧政のひと言。人形師としての血を引いている以上、たとえ稼ぎがなくとも人形師として生きることを強制する。そのため、反発している者も多いことで有名だった。

「家督は、すでに如月きさらぎが継いでるわ。霜月のやりかたは、維持しないみたいよ」

 日塔如月は、霜月の長女だ。人形師の技量では高名といえないが、当主としての器は、弟の睦月むつきよりも大きいといわれている。

「じゃあ、廃業者が出ているのね」

 人形師を廃業するときに、持っていた情報を金に換える輩がいる。自らの家系を売るようなことになってもかまわず、そこで得た大金を持って高飛びしてしまうのだ。

 優孤は、つづけてきいた。

「もしかして、人形師拉致事件と関係があるの?」

 半年ほど前から発生していた事件だった。被害者の数は九人。犯人の目星はまったくついていない。日塔でも、ひとりいたはずだった。

「なんともいえないわ。それも含めて調べるつもりよ。運がよければ、明日の午後にはなにかわかるかも」

「そんなに早く?」

「アポを取れた廃業者が、何人かいるのよ。明日、三時でどう? あくまでも、運がよければの話だけど」

「無益でもいいわ。マイナスじゃない限り」

「じゃあ、明日三時で」

「頼むわ」

 通話を終えた優孤は、ほんのりと口角があがっていた。

 今夜は、悪いことばかりではないらしい。

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瑠璃に白蝶 猫と暮らしたい @ak_8525

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