第一章 第一節
たぶんそれは、恋や愛とは違う。子が母の子宮を求めるような帰巣本能を伴った卑しい感情なのだと、優孤は思っている。
お人形は、ご主人さまの寵愛を欲する。優孤の身体にぜんまいがあるわけではないけれど、もしあるとすれば、そのぜんまいを回すのは主の愛情だ。自らの手で回すのは自慰行為そのものであり、やはりこれは卑しい心なのだと、そう思うしかない。人形の身分でありがら、生きているだけでは飽き足らないのだから。
「ちょっと、ちょっと! あんたきいてんの?」
きつく、怒りを露わにした声だった。大量生産されたリクルートスーツ姿の女子学生だった。
「きいてるわ」
相手の怒りをいなすような、冷たい声だった。
「きいてたら、そんな態度ないでしょう」
「わたしはいつも通りよ」
やはり、優孤の言葉から温もりや熱は感じなかった。
「あんたねえ、ひと言くらい謝りなさいよ」
「知ってるひとだと思ったら違っていただけよ?」
「肩つかんで引っ張ったじゃない。こっちは携帯落としたのよ?」
「謝るほどじゃないわ。それに、歩きスマホはだめよ」
「ふつうは謝るでしょう!」
先輩学生が声を荒げたせいで、周囲の学生たちがふたりに視線を向け始めた。
昼休みになったばかりとあってか、教室棟から多くの学生が中庭へ吐きだされている。半分ほどが学生食堂に向かい、もう半分が正門を出ていく。
離れたところにある喫煙所からも、疑問符混じりの目が注がれていた。それだけ声が大きかったのかもしれないし、優孤の外見が目を引くものであるせいかもしれない。
顔立ちは三年前から変わっていないが、立ちふる舞いの温度は確実に冷たくなっていた。耳と尾は見えず、しかし帽子をかぶっているわけでもない。もし露わになっていれば、自由な身ではいられないだろう。
優孤は、冷たい振る舞いを変えずにいった。
「なら、ふつうじゃなくていいわ」
気にする必要はない。立ち去ろうとする優孤を女子学生が呼びとめた。
「待ちなさいよ。あんた、どうせ一年か二年でしょう」
「一年よ」
「あたしは四年。敬語ぐらい使なさいよ」
「これくらいのことでイライラするようなひとは、敬えないわ。家に帰ってゆっくりお風呂にでも入ったらどう? そんなことだから、未だに内定がもらえないんじゃない?」
残暑が終わってようやく訪れた秋は、あっという間にすぎ去ってしまった。街はもう、クリスマスに向けて加速し始めている。
「ふざけてんの?」
優孤はため息をついた。この調子だと、卒業までに内定をもらえることはないだろうと。
二〇〇八年に起きたリーマンショックから五年が経ち、いまは二〇一三年。内定取り消しなどの不遇に遭った五年前の学生や、その影響を強く受けた翌年と翌々年の学生に比べれば、ことしはだいぶいい状況だといえるのだが。
「優孤」
呼んだのは、ショートカットでスポーティーな印象の強い女の子だった。
「そこまでだよ。それ以上はだめ」
「兎萌美。わたしは、悪いことなどしていないわ」
「いいから、ここはわたしに任せて」
兎萌美は、先輩に頭をさげた。
「すみません。わたしから、いってきかせますから」
しばし、兎萌美に値踏みするような視線が向けられた。
「もういいわ。くだらない」
スーツの先輩は正門に向かっていく。石畳を叩くヒールの音が、痛々しさを感じるほどに荒々しい。仮にこのあと面接があったなら、満足のいく結果が出ることはないだろう。
優孤は一瞥もせずに歩きだした。ドレスのようなコートのすそを揺らしながら。そのあとを、黒いジャケットとベージュのショートパンツが追いかける。
「優孤。ちょっとは態度を改めてっていってるよね? 前みたいに警察呼ばれちゃったらどうするの?」
「知らない。あなたまで面倒なことをいわないで」
「面倒じゃなくてさ」
「邪魔よ。これからお昼なの」
「じゃあ、一緒に食べようよ」
「勝手にしてちょうだい」
「わかった。勝手にする。でも、なにがあったのかくらいは話して。仲裁したんだから、それくらいの権利はあるよね?」
優孤は、ぴたりと足をとめた。
「すごく似ていたのよ。紫さまに」
汗が引くように、兎萌美の顔から怒りが消えていった。
「……そっか」
「兎萌美が落ちこむことないわ。わかっているもの」
三年も捜しつづけているひとが、運よく同じ大学の構内にいるはずがない。そんなことは優孤も重々承知だ。先輩学生のうしろ姿は、それでも声をかけずにいられないほど、紫に重なって見えたのだ。
背が高いところ、肩がしっかりとしているところ、胸が大きいところ。脚が健康的にふっくっらしているところ、タイトスカートに沿うお尻が蠱惑的にふくらんでいるところ、肌が白いところ、髪が黒くて長いところ。優狐には、すべてがそっくりに思えた。
ただし、顔を拝んだ瞬間に気持ちの昂りはなくなってしまった。
昂りを奪ったのは、似ていない顔だけではなかった。
紫はあの程度で怒りはしない。寛容で意地っ張りではなく、わがままな部分もあって困らせるようなこともするが、おとなでよゆうがあり、輝かしいものを追い求める少女のような瞳を持っている。それが、優狐が知っているご主人さまの姿である。
生まれ変わったとしても、優孤は紫に愛される立場を望む。紫の人形であるという、たったひとつの理由で。
だからこそ、捜しつづけている。なにをしているのかが気になる。教えてくださいお願いですと、心のなかで叫ぶ。背骨が砕けるほどに抱き締めてほしいと、楽しかったあのころのようにと、切に願う。
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