短編『春と杏』 6/6
食堂を後にしたアンリの脳内には、その日彼女が体験した様々なことが蘇っていた。
朝、ひょんなことから
それらを経験したアンリは今、いつもの研究室に帰りついていた。その日アンリに起こった様々な出来事のことを胸に留めて、アンリは静かにその部屋の扉を開けた。
「……ありゃ」
そうして研究室に入ったアンリの目に映ったのは、そこで静かに寝息を立てるフィルヒナーの姿であった。
「ま、寝ちゃうのも仕方ないですかね。もうこんな時間ですし」
アンリはその部屋の時計に目をやってからそう呟いた。食堂でのんびり
──また要らない心配かけちゃいましたかね。
そうして自分の行動を恥じたアンリの目に、いつも自分が使っている
「……仕方ないですね。おなかの赤ちゃんのこと考えたら、身体冷やすのはマズいですし」
その毛布を見てそう呟いてから、アンリは優しくそれをフィルヒナーに掛けた。それはいつも彼女がフィルヒナーにしてもらっている様に慎重なものであったが、そのわずかな感触でフィルヒナーは目を開けた。
「────っ!」
「あ、起きちゃいましたか。すみません、起こすつもりはなかったんですが」
フィルヒナーが目を覚ました途端辺りを見渡して呆然とするのを見て、アンリは平然とした口調でそう言った。そのアンリの言葉には耳を傾けず、フィルヒナーは寝起きで頭が働いていない様子で辺りを見渡した。
「──ここは……?」
「見ての
そのアンリの言葉でようやくアンリの存在に気付いたのか、フィルヒナーは彼女の方を見て言った。
「……ああ、すみません。おはようございます、アンリ」
「おはようございます、ヒナ。と言っても、もう『おはよう』なんて時間でもありませんが」
そうしてアンリが視線をやった時計をフィルヒナーが見ると、思わずフィルヒナーは自責の念で頭を抱えた。恐らく自分が想定していた以上に寝てしまったのだろう、とアンリは心の中で推測してから再び口を開いた。
「いやー、本当にすみませんでした。起こすつもりはなかったんです、ただヒナにこれを掛けてあげようとしただけで……」
そうしてアンリが先ほどのことを未だに謝ろうとするのを見て、フィルヒナーはそれを制して言った。
「いえ、気にしないでください。私が過敏に反応しただけですし……」
フィルヒナーはその言葉を発してから、ふと自分が発したその言葉の一端に違和感を覚える。
──過敏に反応……? 私は何か、何か忘れているような……。
そうしてフィルヒナーがその違和感を覚えてから、彼女がその朝アンリと喧嘩したその事実を思い出すまでにはそう時間は要らなかった。そうして今朝の出来事を思い出したフィルヒナーは、慌ててアンリの顔色を窺って言った。
「──っ! その、アンリ、今朝のことなのですが……」
そうしてフィルヒナーが取り急ぎ何かを言おうとしたのを制して、アンリはフィルヒナーに向き合って言った。
「ああ、その件ですが、私の方からも話したことがありましてですね……」
そうして口を開いたアンリからどんな言葉が発せられるかを恐れ、フィルヒナーは目を閉じる。しかし、その予想に反してアンリの口から出たのは謝罪の言葉であった。
「──すみませんでした。『母親気取り』なんて言葉、明らかに言い過ぎでした」
そのアンリの言葉に、一瞬呆気に取られてからフィルヒナーは口を開いた。
「い、いえ。私が口うるさかったことは事実ですし、それに……」
そのフィルヒナーの言葉を押しとどめて、アンリは静かに笑って言った。
「だからもういいんですって、そのことは。『友達』の大切さとやらも、
そのアンリの言葉の意味を捉えかねて、フィルヒナーは怪訝な顔になる。そのフィルヒナーに笑いかけながら、アンリははっきりと言い切った。
「ここで心配性なヒナに一つ朗報です。今日、私に友達が出来ましたよ」
そう言うアンリの顔はとても嬉しそうなものであり、それは『救世主』の娘の天才少女なんて肩書きには似合わない、ただの子供のそれなのであった。
そうしてその日、
「えーと……、アンリちゃん? これは一体……?」
「よくぞ聞いてくれましたね、コハルちゃん! これこそは私の新しい発明品、『匂い以外は精巧な血の
その数日後、基地の一角でそのやり取りは行われていた。アンリのその答えになっていない答えに、コハルは恐怖で震えながらも必死に問いかける。
「えーと……、それがアンリちゃんの発明品なのは分かったし、アンリちゃんの発明はいつもすごいと思うけど……、私が疑問に思ってるのは、なんでそれを私の方に近づけてきてるのかな、ってところなんだけど……」
「…………」
そうしてコハルがその疑問を口にしても、アンリはその赤い液体の入ったバケツを下ろそうとはしなかった。そうしてなにも答えなくなったアンリに、コハルは泣きそうになりながら尋ねた。
「……アンリちゃん、私たち友達だよね……?」
そのコハルの質問に、アンリはにっこりと笑って答えた。
「ええ、勿論です。ところで、
そのなんとも
「いーやー!」
そうして数分後その場に翔とキラが現れるまで、コハルはその実験に付き合わされることとなったのだった。
このように、朝比奈杏里に友達が出来たことによる変化は、基地の中に響く悲鳴の頻度が上がった程度の話であったのだった。
BLIZZARD! 短編集 青色魚 @bluefish_hhs
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