短編『春と杏』  5/6

 時刻は午後の五時を回り、夜に近付くにつれ少しずつ基地の中は冷え込んできていた。その肌寒さに少し身震いしながらも、アンリはゆっくりと基地の廊下を歩いて研究室へと向かっていた。


 そうして基地を歩いている最中、コハルから掛けられたいくつもの言葉がアンリの脳内に蘇っていた。



『私はコハル。サクラギコハルよ。よろしくね、アンリちゃん』


『えーと……、握手のつもりなんだけど……』


『──! アンリちゃん、カケルお兄ちゃんのこと知ってるの!? 仲良し!?』


『アンリちゃんはすごいねぇ。私の何倍も頭いいみたい』


『……もしかして、アンリちゃんのって、あの『』って人?』


『ううん、違うよ。こうしたらアンリちゃんが元気出るかなって、私が考えたの』


『よし、よし。辛かった、よね』


『じゃあ、これで私たち友達ってことでいいよね?』



 それらのコハルの言葉は、アンリの身体に優しく染み渡っていった。それにより自分の身体が暖かくなることを感じながら、アンリは小さな声で呟いた。


「──ふふ。友達、ですか。この私に」


 その時、基地を軽やかに駆けていくアンリの口元が微かに笑っていたことには、当の本人さえ気付かなかったのだった。


 そうしてアンリは一人、ご機嫌な様子で基地をスキップで駆け抜けた。その一日の出来事の発端となった、口うるさい付き人のいる研究室を目指しながら。






 そうして順調な足取りで元居た場所に帰っていたアンリであったが、その途中でふと足を止めた。研究室までの道半ばといったところで、アンリの腹が可愛らしい音を立てて鳴ったからであった。


「……そういえば、今日はまだ何も食べてませんでしたね」


 その空腹のサインを見逃すことなく、アンリはそう呟いた。アンリ自身それほど食欲は強いわけではなかったが、それでも自分の生命活動に栄養補給が必須なのは重々理解していた。


「腹が減っては何とやら、とも言いますしね」


 そう小さな声で呟いて、アンリはその進行方向を反転し、食堂の方へと向かった。


 アンリは普段、付き人フィルヒナーが研究室に運んでくれる食事で腹を満たすことがほとんどであった。それはアンリがものぐさな性格であることに加え、食堂の喧騒をあまり好まないからであった。しかしその日はなんとなく、まさに気まぐれに食堂に足を運ぼうと思ったのだった。


 ──そうです、これはただの気まぐれです。さっきヒナと喧嘩した手前研究室に帰りづらいとか、そんな感情ことが原因じゃありませんから。


 自分に言い聞かせるように内心そう呟いた。幸い、アンリの推測ではその時間に食堂はそれほど混みあってはいない筈であった。午後の五時を回ろうとしていたその時間帯に食堂を訪れるのは、アンリのような不規則な生活をしている一部の人間くらいであろうとアンリは考えた。


 そのアンリの推測通り、アンリが辿り着いた時食堂は閑散としていた。ちらほらと見える人たちも皆雑談場所として食堂を使っているのが大半であり、アンリのようにしっかりとした食事目的でその食堂に来ている人は稀であった。


 そうして食堂の様子を観察した後、アンリは慣れない様子でその場所のある場所を見て呟いた。


「……えーと、あそこで注文すればいんでしたっけ? 食堂ここの注文システムぶっちゃけよく分かってないんですよね~」


 アンリが視線をやる先には、その食堂のカウンターと言えるべき場所があった。その場所には飾り気のない給仕姿で料理をする人の姿がちらほらと見え、その光景から自分の呟きが正しいであろうと判断したアンリはそちらに駆けていき口を開いた。


「今調理場に残っている余り物でいいです、何でもいいのでくれませんか?」


 そのアンリの大雑把な注文に、その場所にいた人間の一人が反応する。


「はいはーい、ちょっと待っててね~」


 軽快な調子でそう返したのは、三十を少し過ぎた程の女性であった。アンリはその女性を少しだけ観察してから、すぐに興味のないように視線を食堂全体に移した。


 アンリの注文したものは、頼んでから五分と経たずに差し出された。その迅速さにアンリは内心感心して──から、その出された食事を見て思わず呟いた。


「えーと……? 余り物でいい、って言ったハズなんですケド……?」


 アンリの前に差し出されたのは、明らかに余り物ではない程充実した大量の料理であった。汁物や主食、主菜はもちろんのこと、副菜や食後のデザートのようなものまで見え隠れしていた。


 そのアンリの困惑する反応を見て、先の女性は陽気な声で言った。


「あらやだ、遠慮なんかしなくていいのよ? あなたみたいな年頃の女の子は減量ダイエットなんか気にしないでたくさん食べたほうがいいんだから」


「いえ、遠慮してるわけではなくて……。ちょっとこの量は食べられないかなって──」


 そうしてアンリが差し出されたその料理を受け取るのを躊躇ためらっていたその時、アンリの目がその女性の胸に着いたネームプレートを捉え、その言葉を飲み込んで言った。


「──っ! あの!」


「おや、どうしたんだい?」


 突然何かに気が付いたように大きな声を出したアンリの様子を、その女性は静かに見守る。彼女の胸元に付いた名札には、彼女の苗字であろう『桜木さくらぎ』の字があった。


 その名前が目に留まって、アンリは意を決して彼女を呼び止めた。そして、一瞬だけ口を開くのを躊躇ちゅうちょしてから、恐る恐る彼女に問いかけた。


「……もしかして、サクラギ・コハルちゃんのお母さんですか?」


 そのアンリの言葉に一瞬目を丸くしてから、すぐに得心が言ったようになってその女性は言った。


「──ああ、あなたがアンリちゃんね」


 その女性がアンリを見つめる目は、まるで実の娘を見るような暖かなものであった。






「……あなたのことは、お母様から聞いていたわ」


 そうして声をかけた結果、成り行きでアンリの隣に座ったその女性──『桜木』の姓を持つその人物は静かに呟いた。


 その呟きを耳にしながら、アンリはゆっくりと手渡された食事に手を付けていた。その食事の暖かさに心まで温められながら、アンリはその女性の言葉に耳を傾けていた。


「コハルの名前があなたの口から出たってことは、あなた達友達になったのかしら?」


 そう突然尋ねられたアンリは、その質問の鋭さに思わずむせ返ってから答えた。


「それは……その……、そうですけど……」


 そうして恥ずかしそうにしながらアンリがその事実を肯定すると、その女性は嬉しそうに「……そっか」と呟いてから、再び口を開いた。


「自己紹介をしていなかったわね。私は桜木サクラギアンズ。あなたの読み通り、桜木サクラギ心暖コハルの母です」


 そうして面を向かって自己紹介をされたアンリは、負けじと自分も名乗り返す。


「……私は杏里アンリ朝比奈アサヒナ杏里アンリです」


「ええ、知っているわ」


 アンリの言葉に、桜木さくらぎあんずは静かにそう返した。その杏の穏やかな様子に少し戸惑いつつも、アンリは、続けて口を開いた。


「……あの。いくつか聞いてもいいですか?」


「どうぞ。そのために私、から抜け出してきたんですから」


 そうして杏が目をやる先には、つい先ほどまで彼女がいた調理場があった。幸い、昼飯には遅く夕飯には早いその時間帯は調理場にもそれほど仕事はなく、杏一人抜けたところで仕事が回らなくなる心配はなかった。


 そうして杏の了承を得たアンリは、必死に言葉を選びながら尋ねた。


「えーと、娘さん……コハルさんから伺ったのですが、あなたは私の母と話したことがあるそうで……」


「あらやだ、『あなた』だなんて。気軽にアンズさんとでも呼んでくださいな、私もアンリちゃんって呼ばせてもらうから」


 そうして出鼻をくじかれたアンリは、少し恥ずかしそうにしながらもその質問を言い換えて再び口にした。


「……アンズさんは、私の母と──、アサヒナハルと、話したことがあるそうで」


 その六文字を口にするのを一瞬躊躇ってから、アンリはそう言った。そのアンリの言葉に、おっとりとしたその雰囲気を崩さないまま杏は答えた。


「ええ、その通りよ。私が心暖コハルを産んだ日、もしくはあなたのがあなたを産んだ日に、ね」


 そう杏が言った途端、耐え切れなくなってアンリは口を開いた。


「……あの。『お母様』なんて仰々しい呼び方しなくていいですよ。私はあの人のこと、母親だとも何とも思ってないので」


 そう鋭い口調で言ってから、アンリはふと我に返り、自分がまた平静を失っていたことに気が付く。


「──あ、あの、すいませ──」


「──いいのよ、別に。アンリちゃんはその様子だと、まだハルさんを許せていないのね?」


 そうして無礼な発言を謝罪するアンリを止めて、杏はそう聞き返す。その杏の質問に、アンリは静かに返事をした。


「……はい」


「……そう。やっぱり、難しいことよね」


 そのアンリの言葉に、杏は怒るでも呆れるでもなくアンリをそう慰めた。その杏の言葉に苦い顔をするアンリに、杏は静かな口調で言った。


「でもねアンリちゃん、これだけは覚えておいて。あの人は──、ハルさんは確かに、あなたのことを大切に思っていたわ」


 その杏の言葉に、アンリは驚いて杏の方を見返す。


「……何を……」


「私がハルさんとお話ししたとき、あの人言ってたのよ。『実は私は……』」


 そう話す杏の脳内には、およそ十年前、その人物と話していた光景が蘇っていた。






 その日は遠征隊がちょうど遠征に出払っていた日で、そのため基地の人々の意識は散漫であった。その状況の中で杏は陣痛を感じ、周囲の人に助けを求めた。そうして杏が何とか基地の人の助けを借り、担架に乗せてもらって分娩室へと向かっていたその時であった。


「──あら、こんな狭い基地の中で同じ日に出産を迎えるだなんて、ちょっとした奇跡ですね」


 担架に乗せられ朦朧とした意識の中、杏は真横からそう話しかけられた。その声に反応し杏が薄ら目を開けると、杏の目の前には杏と同じように担架に乗せられて運ばれている、聡明な顔立ちの白衣の女性がいた。


 当時、ぼんやりとしていた意識の中で杏は彼女がアサヒナハルであることに気が付いていなかった。そのため、ただ同じ日に出産日を迎えただけの相手として、その言葉に気軽に返した。


「かもしれませんねぇ……。これで生まれた子供の性別まで同じだったら、……いよいよ私たち奇妙な縁で結ばれてそうですねぇ」


 息も絶え絶えにそう返した杏の耳に、その担架を運んでいた女性のある声が届いた。


「──ハルさん! 朝比奈アサヒナハルさん!? 意識しっかりとしてますか!?」


 その女性の呼びかけで話しかけてきた女性の正体を知った杏は、思わず驚いて声を出す。


朝比奈アサヒナハルって、あの──!?」


「……ええ、『救世主』なんて身の程知らずな二つ名をもらってる朝比奈遥ですよ。自己紹介が遅れましたね」


 そうして自分の隣で運ばれているのがアサヒナハルその人物だと知った杏は、その後も別室に運ばれるまで彼女と話をしていた。その内容は今となっては杏の記憶からは消えていたが、その会話の最後に何を話していたかははっきりと覚えていた。


「……それにしてもあの朝比奈遥さんと同じ日に出産だなんて、なんか光栄です。もしよかったら、私から生まれた子供が女の子だった場合、あなたの名前の一部を使ってもいいですか?」


 その杏の問いかけに、アサヒナハルはクスリと笑って返した。


「ええ、勿論。こんな私の名前でよければ、いくらでも使ってくださって結構です」


 そう口にしてから、アサヒナハルは少し考える素振りを見せてから、再び口を開いた。


「……その代わりと言っては何ですが、私の子供が女の子だった場合も、あなたの名前を借りてもよろしいでしょうか? 貴女の名前、『杏』の漢字を」


 そのアサヒナハルの問いかけに、杏も同じように笑って返した。


「ええ、勿論。こんな私の名前でよろしかったら、ですが」


 そう答えてから杏は、「あれ、私の名前アサヒナハルさんに教えていたっけ?」といった疑問をぼんやりと思い浮かべた。その疑問を遮るように、「……それと」と前置きしてからアサヒナハルは言った。


「……実は私は、訳あってこの子を産んだ後基地から消えなきゃいけないんです。この子にもしものことがあったら、私は死んでも死にきれない。だから……」


 そうしてアサヒナハルが言った言葉は、十年以上の時を超え、今その娘の前で語られようとしていた。






「『──だから、もしこの子に何かがあったら、その時は手を貸してあげてください、お願いします』って」


 そうして自分が生まれた日のことを話し聞かされたアンリは、思わずその言葉を訝しんで言った。


「……あの、その言葉、本当にあの人が言っていたんですか? とてもじゃないですケド私には信じられなくて……」


 そのアンリの疑問に、杏は「……そうね」と笑って言った。


「私も意外だったわ。聞いていた『アサヒナハル』の印象イメージとはだいぶ違っていたから」


 そう笑って言ってから、杏はふと真面目な顔になって続けた。


「もしかしたら、さっきの話は陣痛で朦朧とする意識の中で見た、ただの夢幻なのかもしれない。もしあれが現実だったとしても、ハルさんがどうしてあんなことを言っていたかは私には分からないわ。分かるのは本人、ハルさんだけ」


 そう前置きをしてから、杏はきっぱりと言い切った。


「……でも、きっとあの人は、ハルさんはあなたを愛していたわ。同じ日に出産した仲だもの、なんとなく分かるわ」


 その杏の何の根拠もない言葉を、アンリは何故か笑い捨てることが出来なかった。


 そうして杏が話し終えた時には、アンリは差し出された山盛りのご飯を食べ終わっていた。


「あら、残さず食べてくれたのね。嬉しいわ」


「──ええ、まぁ」


 その杏の喜んだ反応に、アンリは気恥ずかしくなって短くそう返した。


 アンリがあれほど大盛りの食事を平らげることが出来たのは、ひとえにその食事が美味であったからであった。ただ味が良いだけでなく、栄養バランスまでしっかり考えられていたその食事は、作った人の心の温かさを表しているかのようであった。


 そうしてアンリが空になった食器をお盆にのせて立ち上がったのを見て、杏は残念そうに言った。


「あら、もう行っちゃうの?」


「はい。あんまり遅くまで出歩いてると、ヒナに心配されちゃうので」


 杏の言葉にアンリがそう返すと、杏は嬉しそうに笑って言った。


「大事にされてるのね、あの人に」


「……ええ、まぁ……。それこそ母親みたいな存在です、ヒナは」


 そうしてお盆を持ち、席から立ち上がったアンリは、杏に一礼して言った。


「……母の話を聞かせていただき、ありがとうございました」


 その静かなお礼に、杏は静かに笑って頷いた。


 そうしてアンリがお盆を持ち、それを洗い場に持っていこうとしたその時、ふと立ち止まってアンリは振り返って言った。


「……それと、ごはんご馳走ちそーさまでした。おいしかった……です」


 そう照れながらも言い切ったアンリを見て、杏は静かに笑って言った。


「また気が向いたらいつでもいらっしゃい」


 その杏の言葉に静かに頷いてから、アンリは食堂を後にしたのだった。

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