短編『春と杏』  4/6

 結局、アンリがその眠りから覚めたのは眠り始めてから五時間も経ってのことだった。


「──ん、あ……?」


 アンリが寝ぼけまなこをこすって辺りを見渡していると、途端に様々な違和感を抱いた。まず一つ、眠りから覚めたアンリの視界に映っていたその光景は、普段アンリが寝起きに見るそれとは異なっていたのだった。


 ──あれ、じゃあ私、どこで寝てたんでしたっけ……。


 寝起きで靄のかかったような頭を必死に動かし、アンリは自分が眠る前何をしていたかを必死に思い出す。


 彼女が抱いていた違和感の二つ目は、彼女がそうして慣れない場所で寝ていたにも関わらず、やけに深い眠りについていたということであった。寝起きの頭が働かないのは彼女にとってはいつものことであったが、それにしても脳の起動に時間がかかりすぎているのをアンリは感じていた。


 ──そして……なんです、この枕? やけに暖かくて、柔らかくて、すごく寝心地が……。


 そうしてアンリが危うく二度寝をしてしまいそうになったその時、アンリはその枕のもう一つの特徴に気が付いた。彼女が頭を乗せているそれは、一定の周期で上下していたのだった。


 ──なんですかね、これ……? まるで、誰かの呼吸の振動みたいな……。


 そこまで考えが及んで、アンリはようやく自分がの上に寝ているのかが分かり、瞬時に身体を起こそうとした。が……


「──っ!」


いたっ……。あ、アンリちゃん、起きたんだ~!」


 起き上がろうとしたアンリの頭が、何か硬いものと衝突して再び元の場所に戻される。それと同時に聞こえてきたコハルのその穏やかな声は、アンリの頭の真上から発せられていた。


「おはよう、アンリちゃん!」


 コハルはに寝そべるアンリの顔を見て、朗らかにそう言った。そのコハルの言葉に、照れ臭そうにしながらもアンリは小さな声で答えた。


「はい、おはようございます……。といっても、もうそんな挨拶をする時間でもありませんケド」


 そうしてアンリが近くにあった時計に目をやると、それはとっくに昼過ぎの時間を指していた。その時間の進み方から、アンリは先ほどまでの眠りが深かったことにも納得し、ため息を吐いた。


 ──昼寝にしては寝すぎですね、明らかに。カケルさんのためのあの靴を作るために昨晩ほとんど寝なかったことを差し引いても、チョット気が抜けすぎですね、私。


 そうして自分の行動を反省してから、アンリはゆっくりと身体を起こしていく。今度はコハルの頭に激突することなく無事に身体を起こすと、アンリは自分が先ほどまで寝ていた場所に目をやって苦い顔になった。


「……すみません。酷いことになってますね、それ」


 アンリの視界には今、涙やら何やらでぐしょぐしょになったコハルの膝周りが映っていた。ぼんやりと思い出す限り、アンリはコハルに優しく抱かれながら、涙を流しつつ意識を失ったはずであった。その記憶に加えて、アンリが先ほどまでそこに寝ていたという事実を考慮に入れれば、コハルの服をそれほどまで汚したのは他でもないアンリであろうということはすぐに分かった。


 そうして頭を下げるアンリに、コハルは優しく笑って返した。


「ううん、気にしないで。膝枕さっきのも、私がしたくてやったことだから」


 そうして太陽のように明るく笑うコハルに、アンリは少し気まずそうに笑い返した。


 アンリがどこかでコハルに対して引けもを感じつつあったのは、次第に働き始めたアンリの脳が、彼女が意識を失う前どんな言動をコハルにしていたかを克明に思い出しつつあったからであった。


 ──迂闊でした。本当に、今日の私はどうしちゃったんですかね。行きずりの相手にあんなに感情をぶちまけて、挙句泣き散らしてその人の身体の上で眠るとか。


 アンリはその過去の自分の言動を顧みて、今にもその場から逃げ出してしまいたい気持ちに襲われていた。理知的に理性的に、常に論理的に生きていこうとしているアンリにとって、先ほどの自分の醜態はまさに記憶から消し去りたい恥に他ならなかった。それでもアンリがその場を去らなかったのは、そうしたところでその醜態を見せたそのはそのことを覚えているだろうと考えたからであった。


 ──本当、何やってるんですかね、私。きっとこの子も、さっきの私の態度に愛想をつかしたはず──


 そう考えてから、アンリはその推測が間違っているだろうことに気が付いた。コハルがアンリに呆れ、彼女を見放したとするならば、つい先ほどまでコハルがアンリに膝を貸していたのは矛盾するからであった。


 そうしてアンリが自分の言動を反省しているその時も、コハルはニコニコとしながらアンリのことを見ていた。そのコハルの様子を見て、自分が彼女に嫌われたという仮説が誤りであることをアンリは改めて認知した。それと同時に、その明るい笑顔につられていつもの調子を取り戻しながらアンリは尋ねた。


「……なんでまたそんなにご機嫌なんです、あなた?」


「ふぇぇ? 私いま、そんなにニヤニヤしてた?」


 コハル自身自分がそれほど上機嫌なことには気づいていなかったらしく、アンリが指摘した途端コハルは必死に両手で自分の顔を押さえる。その様子を内心微笑ましく思いつつ、アンリはため息を吐いてから静かに笑って言った。


「そんなニヤニヤしてたから言ってるんですよ。早く答えてください、こっちも気恥ずかしいので」


 そのアンリの言葉で、コハルはまた明るい笑みを浮かべる。そしてゆっくりと、自分の心の中を言葉に変えながらコハルは言った。


「えーと……私がニヤニヤしてた理由……だよね。それはたぶん、アンリちゃんが元気になったから、だと思う」


「──え……」


 そのコハルの予想外の返答に、アンリは思わず目を丸くする。そんなアンリの心に染み入るような暖かな言葉を、コハルは続けざまに口にした。


「私、そんなに頭良くないから、さっきアンリちゃんが起こってた理由も実はあんまり分かってないんだ。それでも、今アンリちゃんが元気みたいだから、よかったなぁって、嬉しいなぁって思ったの」


 そのあまりに純粋なコハルの言葉に、アンリは心を洗われる──というよりも、その先にコハルのことを不可解だと思った。そうしてコハルのことを訝しんだアンリは、ずっと前から抱いていたその疑問を口にした。


「──?」


 アンリのその疑問は、コハルが彼女の醜態を目にしながらも、彼女のことを優しく包んだ時から抱いていたものだった。


「……あんなにみっともなく当たり散らした私に、なんでこんなに良くしてくれるんですか? 無様に感情をぶちまけた私を落ち着かせてくれただけじゃなくて、その後意識が落ちた私に膝まで貸してくれて……。そりゃありがたいですケド、正直チョット不可解です」


「…………」


 そのアンリの疑問を、コハルは静かに聞いていた。そうして静寂が再びその場を包もうとしたその時、アンリは再びその疑問を口にした。


「──なんで、こんな面倒くさい私に良くしてくれるんですか?」


「………………」


 そのアンリの疑問に、コハルは再び押し黙る。そのコハルの様子から何かを感じ取ったのか、アンリは再び泣きそうな顔になって言った。


「……ああ、もしかしておかあさんアサヒナハルが関係してますか? あの『救世主』サマの娘なんだから、助けたら何か良いことがあるだろう、みたいな」


 アンリのその推測は、何も的外れなものではなかった。事実、アンリは小さい頃そのような理由で他人に助けられたことがあったのだった。どこでアンリの母親のことを知ったのか、その人物は一日アンリの仕事を手伝った後に言い放ったのだった。「助けてやったんだから俺に何か良いことをしろ。お前は『救世主』の娘だろう」、と。


 そのアンリの嘲笑に塗れた一言に、コハルは必死に頭を振って否定しようとする。


「……そんなこと……」


「──だったらなんでなんですか?」


 そのアンリの一言は、コハルが思わず言葉を引っ込めるほど鋭いものであった。そうしてコハルが押し黙るのを見て、アンリは泣きそうな顔で笑いながら続けた。


「……ほら、やっぱりお母さんが目的だったんじゃないですか。でも残念でしたね、生憎と私はあの『救世主』ほど人の道を外れてない、ただの天才ぼんじんなんです。だから私に恩を売ったところで──」


「……違うよ?」


 そうしてアンリがまた暴走しようとするのを止めて、コハルはきっぱりと言い放った。


「だったら何で……」


「私がアンリちゃんを助けたのは、だよ?」


 そのコハルの一言に、アンリはまたも言葉を失う。


「──え?」


「ほら、アンリちゃん最初に言ってたでしょ。私たちは会ったばかりだし、友達じゃないんじゃないかって」


 コハルが言う通り、アンリは確かにコハルと会って早々にそのようなことを言った記憶があった。思わず困惑するアンリの脳裏に、まさに自分が発したその言葉が蘇る。



『それは違うんじゃないですかね。友達って関係性の定義は確かに私もよく分かりませんが、私たちさっき会ったばっかですよね?』



 その言葉を細部まで思い出したアンリは、それでもなお先のコハルの言葉に困惑していた。


 ──いや、確かにああは言いましたケド、だからってそんなに頑張ることですかね……!? 私なんかと友達になったところで、その労力に見合うだけの利点メリットなんてないですし……。


 そうして未だにそんな的外れなことを考えていたアンリに、コハルは少し恥ずかしそうにしながらも言った。


「……あのねアンリちゃん。私はアンリちゃんのお母さんがアサヒナハルさんだからアンリちゃんと友達になりたいんじゃないんだよ」


「……え?」


 そのコハルの予想外の言葉に、アンリは驚いて目を見開く。が、すぐに平静を取り戻して、その顔に意地の悪い笑みを浮かべて言った。


「あーハイ、そういうことですね。要は私の母親があの人だってことはどうでもよくて、私の天才的頭脳を利用したいから友達になったと。といっても遺伝ってものはありますし、私の頭の良さも少しはあの人に由来するものだとは思いますが……」


 そうしてまた見当違いなことを話すアンリの手を握って、コハルは首を振った。


「ううん、違うよ。私はアンリちゃんの頭が良いから友達になりたいって思ったわけでもない」


 そうしてまたも自分の仮説を否定されたアンリは、「じゃあどうして……」とその理由を尋ねようとする。しかし、アンリがその疑問を発し終わる前に、コハルは暖かな笑みを浮かべて言った。


「アンリちゃんも知ってるでしょ。私たち、同じ年の同じ月の、同じ日に生まれた仲なんだよ?」


「あっ……」


 コハルの言葉でその事実を思い出したアンリは、静かに納得の声を出す。そうして、漸く冷静な目になってコハルを見返してから、続けて自分の小さな手に視線を移して呟いた。


「……こんな私で、いいんですか?」


んだよ。お母さんから私と同じ日に生まれた女の子がいるって聞いてから、私ずっとその子と友達になりたいって思ってたの」


 アンリの自信のなさそうな言葉に、コハルは無邪気にそう返す。


 そのコハルの理論は、或いは最もアンリの人間性を軽んじるものであったかもしれなかった。同じ日に生まれた、それを友好関係の礎にするのはまるで、生まれた日が同じであったら、とも解釈できるからであった。


 しかし、その時のアンリにはそれ以上に暖かな言葉はなかった。それまでアンリに近付いてきた人間は、一部の変人を除いて彼女の母親か彼女の頭脳を求めた打算的な人物ばかりであった。そんな中で今、アンリの目の前にいたのはその二つを度外視してアンリと友達になりたいと言ってくれる人間であった。それはアンリのそれまでの生涯では考えられなかったことであり、思わずアンリはまた心を動かされる。


「……そう、ですか」


 コハルの言葉に小さくそう返したコハルの顔は、静かに笑っていた。それはただ純粋に、彼女がコハルの言葉に喜んでいることの表れであった。


 そうして静かに微笑むアンリの様子を見て、コハルはようやく自分の言葉が受け入れられたのだと分かり、彼女に微笑んだ。そして、今度はオドオドとせず堂々とした様子で、コハルに向き合って口を開いた。


「じゃあ、これで私たち友達ってことでいいよね?」


 そのコハルの言葉に、アンリは静かに微笑んで首を縦に振り──はしなかった。その代わりに、いつものような調子でアンリは、顎に手を当てて考え込むようなポーズを作って言った。


「友達の定義が分からないので何とも言えませんね、それは。色々醜態晒したのは事実ですケド、それでも私たちがさっき会ったばっかの関係ってことは変わりませんし」


「ひどい! それはそうだけど、なんかこう……違うような……」


 そのアンリのひねくれた言葉に、コハルはなかなか納得が居ない様子でそう言った。そうしてコハルが困ったような様子になるのを見て、アンリはクスリと笑って言った。


「冗談ですよ。でもま、定義づけはしておきたいですし。コハルちゃんは『友達』になる条件は何だと思いますか?」


 そのアンリのコハルを試すような言葉に、コハルは少し考えこんでから口を開いた。


「私あんまり頭良くないから、これがその『テーギ』ってものになるかは分からないけど……。『お互いがお互いを友達だと思ったら』、かなぁ……」


 そのコハルの言葉に、アンリは静かに微笑んで「……そうですか」と言ってから続けて意地が悪いように笑った。


「それじゃ、私とコハルちゃんが友達かどうかは決まりましたね。コハルちゃんにとっては『友達』はその定義でいいんですもんね?」


 そのアンリの口調から、何か良からぬものを感じたコハルは慌てて口を開く。


「えぇ!? なんか嫌な予感がするんだけど……。というか、結局アンリちゃんの中で私は友達なの?」


 そのコハルの言葉など聞いてない様子で、アンリは近くにあった時計を見て呟いた。


「ああ、もうこんな時間ですか。そろそろ研究室に帰らないとヒナに心配されますね」


「聞いてよ、もー!」


 アンリのそのマイペースな様子に、コハルは頬を膨らませてそう言った。しかしそのコハルの言葉も届いていない様子で、アンリはその場から立ち上がり、白衣についているホコリを叩き落とし始めた。


 そうしてその場を去る準備を終えたアンリは、コハルの前に手を差し出して言った。


「じゃあ、ハイ」


「……?」


 差し出されたアンリの手の意味を掴みかねたコハルは首を傾げる。その動作からコハルの理解が及んでいないことに気が付いたアンリは、ため息をいて言った。


「……『トモヤおじさんって人が教えてくれた』んじゃありませんでしたっけ?」


「──ああ、ああ!」


 そのアンリの言葉で彼女が言わんとすることを理解したコハルは、差し出されたアンリの手を握る。そうしてコハルと再び握手を交わしたアンリは、少し微笑んでいった。


「……というわけでまぁ、なんで。また暇が出来たら会いに来ますよ。それじゃ、また」


 そう言い放ってから、アンリは白衣をひるがえし、駆け足でその場を去っていった。その足取りがやけに急いだものだったことをコハルは不思議に思ったが、すぐに直前の言葉の意味を理解して納得した。


「──ああ、そっか、そういうことか!」


 そうして納得をしたコハルの脳内には、自分自身が言ったその言葉が蘇っていた。



『そのトモヤおじさんって人が教えてくれたの。に会った時と友達にサヨナラするときは、その友達と握手した方がいいって』



 そうして素直じゃないアンリのそのメッセージを受け取ったコハルは、彼女が去った跡を見てうれしそうに呟いた。


「……また会えるといいなぁ」


 その呟きは、猛吹雪の世界の雪を優しく溶かすかのような、暖かな響きを残して消えたのだった。


 そうしてコハルとアンリの、二人の少女の談話は幕を閉じたのだった。

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