短編『春と杏』  3/6

 アサヒナハル、その名前がコハルの口から出た瞬間、コハルは一瞬にして臨戦態勢に入っていた。まず瞬時にコハルとの距離を取り、周囲に敵がいないかを一瞬で確認した後、アンリは真剣な表情でコハルの方を睨んだ。


 そのアンリの様子を見て、コハルは慌てて付け加えた。


「あ、勘違いだったらごめんね! でも、もしかしたらそうじゃないかなって……」


 そうしておどおどとした様子で話すコハルの姿は、お世辞にもアンリが危険性を感じる必要性があるようには思えなかった。しかし、それでもアンリはコハルへの注意を逸らさなかった。アンリにとっては、自分の母親が誰であるかを知っているだけでその人物は警戒するに値する『敵』であったのだった。


 ──どこで? いや、もしかしたらこの子が『裏切り者』の可能性も……。


 そうしてアンリは思考を超速で巡らせるが、そうしている間にもコハルはきょとんとした様子でアンリを見つめていた。そのコハルの様子から、少なくとも目の前の少女コハルが自分を狙っている可能性は低いと判断したコハルは、その警戒を崩さないまま尋ねた。


「……なんで、そう思ったんですか?」


 それは、アンリにとってコハルが『敵』であるかそうでないかを見極めるための質問であった。アンリの母親は朝比奈アサヒナハルである、その事実自体は肯定しないまま、を彼女は尋ねたのだった。


 ──正直に答えてくれる保証なんてない。はぐらかされたり、こちらに襲い掛かってくるようなら、ひとまず迎撃をしてから撤退を……。


 そうしてアンリが固唾を飲んでコハルの動向を見るのをよそに、コハルは何とも警戒のない様子で答えた。


「えーとね、お母さんが言ってたの。私は、あの『救世主』のアサヒナハルさんの娘と同じ日に生まれたんだって」


 そのコハルの予想外の言葉に、アンリは思わず警戒を解いて目を丸くして聞き返す。


「……あなたのおかあさんが?」


「うん! お母さんが私を産んでくれた日に、アサヒナハルさんとお話ししてたんだって。二人とも同じ日に出産するみたいって分かって、『奇妙な縁もあるもんですねぇ』って話してたんだって」


 そのコハルの言葉に面食らいつつも、アンリは思わずその光景を想像する。無論、アンリにとってアサヒナハルははおやは顔も声も知らないような存在である。それでも、なんとなくアンリはその光景を思い浮かべて、確かなを覚えていた。


「──へぇ、そうですか。が、ですか……」


 自らの母親をそんなぞんざいな呼び方をしながら、アンリは小さな声でそう呟いた。


 アンリにとって自分の母親は、基地を建てたりその後の基地の統率を執るなど英雄的な側面がありつつも、自分が生んだ娘が立つところも見ずに基地を去った非情な存在であった。基地の人の話から推測されるアサヒナハルという人間の人物像は、どうしてもそんな人間性に欠けるものとなってしまうのだった。そのため、アンリはどうしてもコハルのその話に違和感を覚えずにはいられなかったのだった。


 ──それでも、この子コハルが嘘をいているようには見えないんですよね……。


 しかし、その違和感をも振り切ってアンリがコハルの話を信じつつあったのは、それを話すコハルの様子が演技にしては出来すぎているほど怪しさを感じさせないものであったからだった。加え、アンリにはもしコハルが裏切り者だったとしても、その片鱗を今その場所で見せる必要性は考えられなかった。もしコハルがアンリの身を狙っているならば、尻尾を出すのはもう少し人目のない時間と場所を選ぶであろうと考えたからだった。


 そうしてコハルが警戒する必要のない相手だと判断したアンリは、一つ大きな息を吐いてから臨戦態勢を解き、ゆっくりとコハルとの距離を詰めながら言った。


「……それにしても意外ですね。あの『』サマに、そんな人間みたいな一面があったとは」


 自分の母親のことを呼ぶにはあまりにも仰々しいその呼び方を口にしながら、アンリはそう言った。そのアンリの言葉に同調して、コハルも口を開いた。


「そ、そうだよね……。私も意外だった。基地の人をたくさん助けたあのアサヒナハルさんが、私のお母さんと話したことがあるって」


 そのコハルの『アサヒナハル』を神格化するような言葉に、アンリは不機嫌そうに眉をひそめる。が、その苛立ちを何とか抑えて、アンリはそれに話を合わせて言った。


「ま、基地の中では凄い人としてますよね。実際あの人が救った人の数は馬鹿にならないほど多いですし」


 そのアンリの言葉の節々に違和感を覚えたコハルは、それを思わず口にする。


「アンリちゃん、なんでそんなな言い方を……。あ、でもそっか、私と同じ日に生まれたってことは、あんまり覚えてなくても仕方──」


「──ですよ! 私にとって、あの人は!」


 そのコハルの言葉を遮って、アンリはそう怒鳴った。そのアンリの口調の強さに、コハルは思わず怯えながらアンリの方を見る。しかし、そんなコハルの様子にも気づかずアンリは怒りを吐き出し続けた。


「……っ! そりゃ! そりゃ基地の人にとっては『アサヒナハル』は命の恩人で、『救世主』なんて二つ名がふさわしいほどの人かもしれませんよ。でも、私は!」


「──あ……」


 そのアンリの叫びを聞いて、コハルは思い出した。アンリの母親は、アサヒナハルは、アンリを産み落としたその日に基地を抜け出し、そのまま行方不明になったのだということを。


 ──そっか、アンリちゃんにお母さんの記憶がないのは当然だ。生まれてからの数時間、たったそれだけしかお母さんと会う時間がなかったんだから。


 そうしてコハルがその事実に気が付いたことに気付かず、アンリは続けて自分の感情をぶちまけた。


「……基地のリーダーとしての、科学者としての『アサヒナハル』は確かに完璧ですよ。でも、としての『アサヒナハル』もそうだとは思ってない、絶対ゼッタイに思わない! だってあの人は、!」


 そのアンリの叫びに、コハルは恐る恐る反論する。


「アンリちゃん……。それは違うんじゃ……」


 しかし、その反論も押しのけてアンリは言った。


「どうしてそんなことが言えるんですか!? 根拠データは!? 理由リーズンは!? 証拠エビデンスは!? そんな甘い考えを裏付けるものが、一つでもあるんですか!?」


 そのアンリの剣幕に、コハルは再び押し黙る。しかしそれはコハルがアンリのことを見放したわけでも、アンリに怯えて何も言えなくなったわけでもなかった。


 叫び続け、その息を荒くしたアンリは、とうとうその目に涙を滲ませつつあった。


「……もしあの人が私を愛してたのなら、なんであの人は私を産み落とした後すぐに基地から姿を消したんですか!? もし少しでも、研究に対して持っていた熱意の百分の一でも私に持っていたら、私を置いて十年間も行方不明になるわけなくないですか!?」


 そうして叫ぶアンリの言葉は、もはや理知的なものではなくなっていた。そのアンリの理論には、それこそ先ほど自分が言ったような根拠も証拠もない。アンリはその時、珍しくただ自分の感情論を振り回していたのだった。


 そうして自分の感情を吐き出すアンリの様子を、コハルは固唾を飲んで見守っていた。そうしてアンリは、その感情の叫びの終わりとして、しっかりとこう言い放った。


「──アサヒナハルあのひと。これからも認めることはないでしょう。私はあの人から、愛情なんてものをこれっぽちも受け取ってないんですから」


 アンリがその言葉を言い放った直後、その場にしばらくの静寂が訪れた。一人で感情をぶちまけていたアンリが口を閉じたためその場が静まり返るのは当然のことであった。その静けさの中、頭に上っていた血が全身に戻り冷静になったアンリは、直前までの自分の言動とその言動に対するコハルの反応を見て思わず言葉を失った。


「────ぁ」


 アンリが自分の感情を吐露した様子を、コハルは一歩引いて見守っていた。その顔には明らかな恐怖の色や辟易の色が浮かんでいた。そのコハルの様子から、アンリは自分が失敗してしまったのだと思い、苦い顔になる。


 ──まったく。こんな調子だから私には友達がいないんですよね。知ってますよ。


 アンリは自らのその言動を振り返り、そう自分自身のことを嘲笑した。


 理知的であるように努めながら、アンリの内面は全く論理的な考え方をしていなかった。そもそも、コハルの悪気わるぎのない言葉であそこまで感情を荒げ、ついさっき会ったばかりの十歳やそこらの少女に当たり散らすなどその言動に理性のひとかけらもあったものではなかった。


 無論、コハルが発した言葉が、アンリにとっては禁句タブーそのものであったというのは事実であった。アンリが先程まで叫んでいたのは確かに彼女の心の奥にあった本音であり、それは確かにコハルの一言によって呼び起こされたものであった。しかし、だからと言ってその場でその本心をぶつけるのは、アンリが必死に取り繕っている理知的な姿からは考えられないものであった。


 ──私だって、本当は分かってるんですよ。私が相当子供だってことは。


 茫然自失としたアンリは、心の中でそう呟く。アンリは自覚していたのだった。自分が十二歳の子供にしては明らかに異端なかわっている存在であることも。そしてその『特別』の意味が、大抵の場合良い意味ではないことも。


 ──無駄に理知的な理論を振り回し、その実本質は母親恋しさに泣き出すような理性の欠片もない子供。その癖他人ひとには理性的であることを求める。はた迷惑な子供ガキったらありゃしない。


 アンリは自覚していた。そんな自分が、大人たちにも、同じくらいの年の子供たちにも好かれるわけがないということを。


 ──それでも私がこうして最低限人と関わっていられているのは、結局私の母親がアサヒナハルだからだ。それでも結局、その名声ネームバリューだけでは私と友達になりたいと思うような子供が現れるわけもない。


 そうして自分のことを冷静に見直すアンリの脳裏には、つい数時間前フィルヒナーに言われたその言葉が蘇っていた。



『まったく……。どうしてあなたは人に興味を持とうとしないのですか。あなたくらいの年頃の女の子は普通、友達の一人や二人いるものですよ』



 そのフィルヒナーの言葉を思い出し、アンリは心の中で彼女に謝った。


 ──ヒナ、あの時はムキになって言い返してごめんなさい。その通りなんですよ。私は友達を作れない。こんな私を認めてくれる人なんて、この基地には一人も……。


 そうしてアンリが心の中で自分の正直な感情を吐露していたその瞬間、突如アンリの頭がある方向に引き寄せられる。その力に抵抗する暇もないまま、アンリの頭は暖かくも少し柔らかい何かに当たり、そこで勢いを止めた。


「……?」


 突然の事態に戸惑いつつも、気力が枯れつつあったアンリはゆっくりと辺りを見渡し、自分に何が起こったのかを理解しようとする。しかし、アンリが今誰に何をされているかを理解するのはそう難しくなかった。今やアンリから少し離れてその様子を見守っていたコハルの姿はそこにはなく、代わりにアンリの顔のすぐそばに彼女が着ていた暖色の服が見えていた。


「……コハル、ちゃん?」


 その予想外の事態に驚きつつも、アンリは力なくそう尋ねる。その言葉に、アンリの頭の上の方からコハルは返事をした。


「えへへ。アンリちゃん、苦しくない?」


 そう尋ねるコハルは今、アンリの頭を自分の胸に抱きかかえていた。二人の間に身長の差はそうないため、アンリの身体が少し折りたたまれる形で二人のその体勢は成り立っていた。


「……いえ、苦しくは……ないですけど……」


 コハルの身体の暖かさに包まれたアンリは、そう煮え切らない返事をする。そうコハルに返しながらも、アンリは未だにその状況に理解が及んでいなかった。


 ──何で私、さっき会ったばっかの子にこんな風に抱き寄せられて……。


 その状況はアンリにとっては不可解なものであったが、アンリはその状態を煩わしくは思わなかった。彼女がコハルのその行為から脱しようとしなかったのは、一つには先ほどの叫びでアンリの体力が消耗されていたこともあったが、アンリがその状況を快く思っていたからでもあった。


 ──って、何ほだされてるんだ、私。


 そんな状況の中、かろうじて平静を取り戻したアンリは自分に一喝してから口を開いた。


「……えーと、これは何のつもりですか?」


 その疑問を発した時点で、既にアンリの理性は限界に達しつつあった。そのアンリの心境を更に危うくしたのは、それに対するコハルの返答であった。


「何って……。アンリちゃんが苦しそうに見えたから、私に何かできないかなって……」


「────っ!」


 そのコハルの返答に、またアンリの眼に涙が滲む。それはコハルの慈愛のような優しさによりアンリの感情の一部が漏れ出たものであった。それを必死に拭い捨ててから、いつものような軽い口調を必死に取り繕ってアンリは言った。


「……って、なんです、それ? まさか、私を励まそうと? この励まし方も、そのトモヤさんって人に教わったやつですか~……?」


 そのアンリの言葉は、しんみりとし始めていたその場を少しでも盛り上げるために発したものであった。アンリは、今コハルが自分にしていることが別の人間に教わったことであるかどうかなど勿論どうでもよかった。ただアンリはコハルをからかおうとその言葉を口にしたのだった。


 しかし、そんなアンリの必死の言葉に、コハルは暖かな笑みを浮かべて答えた。


「ううん、違うよ。こうしたらアンリちゃんが元気出るかなって、私が考えたの」


「────ぁ」


 そのコハルの言葉に、とうとうアンリの感情の堤防が決壊し始める。そうしてアンリの頬を一筋の雫が伝うのを見て、コハルはゆっくりと口を開いた。


「……アンリちゃん、ごめんね。私さっき、アンリちゃんの気持ちを考えてないこと言っちゃったかもしれない」


 そうして胸に抱きかかえたアンリの頭の上に自分の顔を置きながら、コハルは優しい声でそう言った。その温かさに必死に抗うように、アンリは絶え絶えになる言葉を振り絞ってそれに答えた。


「……そんな、こと……っ!」


 そうして言葉を絞り出すアンリの様子を見守りながら、コハルは続けて口を開いた。


「ううん、私が悪いの。アンリちゃん、んだよね?」


「……っ! 寂しくなんか……!」


 コハルの口から出たその感情を認めたくないアンリは、必死にそう言い返そうとする。しかし、その言葉は言い終わる前に消えることとなったのだった。


 コハルが、自分の胸にアンリの頭を抱きかかえたまま、片手でアンリの頭を撫で始めたからだった。


「──っ!」


 思わず言葉を失うアンリの耳元に、コハルは小さな声で囁いた。


「よし、よし。辛かった、よね」


 まるで幼子に話しかけるような口調でそう言われたコハルであったが、不思議とそれに抗う気力は起きなかった。ただひたすらに、コハルのその優しさに埋もれ、アンリは静かな寝息を立てていくのだった。


「────、──」


 そうしてアンリは、コハルに抱きかかえられたまま眠りについた。その時の寝顔は、彼女にしてはとても珍しく、普通の子供と同じようなとても安らかなものであった。

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