短編『春と杏』 2/6
「サクラギ、コハルちゃんですか……」
その少女の名前を聞いたアンリは、そう反復してから少し考えこむ。それは目の前の少女が名乗ったその名前が、どこか聞き覚えのあるものであったからだった。
──聞き覚えがあるって言っても、私の交友関係の広さなんてたかが知れてますし。一体どこで聞いたんでしたっけ……?
そうして必死に記憶を漁るアンリに、コハルは恐る恐る声をかける。
「……えーと、アンリちゃん?」
「──ああ、すみません。チョット考え事をしててですね……」
そのコハルの呼びかけで意識を現実世界に戻したアンリは、その少女の方を向いてそう言い──、その瞬間怪訝な顔になる。
「……えーと、なんです、これ?」
アンリが訝し気に見るその先には、コハルの手が差し伸べられていた。そのコハルの疑問が予想外だったのか、コハルは困惑した様子で答えた。
「えーと……、握手のつもりなんだけど……」
「ああ、なるほど握手ですね。分かりました」
そのコハルの言葉に納得したのか、アンリはそれに応じコハルの手を取る。そうして二人が握手を交わしてから数分後、ふとアンリは首を傾げて言った。
「……なぜ私たちは握手を?」
「えぇ!? なんで、って聞かれても……」
そのアンリのマイペースな挙動に振り回されつつも、コハルはそのアンリの疑問に答えた。
「えっと……、私がよくお話を聞かせてもらってる人の中に、トモヤおじさんってひとがいてね……」
コハルの口から
「続けてくれます?」
「あ、うん。そのトモヤおじさんって人が教えてくれたの。友達に会った時と友達にサヨナラするときは、その友達と握手した方がいいって」
そのコハルの言葉を聞いて、より一層首を傾げてアンリは尋ねた。
「友……達? 誰と誰がですか?」
「えーっと、私とアンリちゃんのつもりなんだけど……」
そのアンリの疑問に、おどおどしながらもコハルはそう答える。そのアンリの答えに、「ふむ」と一つ呟いてから、アンリは少し考えて言った。
「それは違うんじゃないですかね。友達って関係性の定義は確かに私もよく分かりませんが、私たちさっき会ったばっかですよね?」
「えぇ!? そうかなぁ……」
そのアンリの鋭い言葉に、コハルはそう残念そうにする。その様子を見て、アンリはため息を吐きながら心の中で呟いた。
──私が言えることじゃないでしょうケド、変わった子ですね。無駄にポジティブなところとか、カケルさんにそっくりな……
そこまで考えてから、アンリは頭の中で考えていた全てが繋がり、思わず大きな声を出す。
「──ああ! 『コハル』って、確かカケルさんが元の世界を話し聞かせてる子でしたね。思い出しました」
突然大きな声を出したアンリにびくりとしつつも、コハルはアンリの口から翔の名前が出た瞬間目を丸くする。
「──! アンリちゃん、カケルお兄ちゃんのこと知ってるの!? 仲良し!?」
「知ってるも何も、ついさっき会ってきたところですし。仲が良いかどうかは……、どうでしょうね。少なくとも私はカケルさんのことは
コハルの疑問にアンリがそう答えると、コハルは「そっかー! そうなんだー!」と言いながらも尚も目を輝かせる。その様子に多少面食らいつつも、アンリもつられて笑みを浮かべて言った。
「ま、ともあれ共通点が見つかったのは良かったです。ついでに言えば、あなたがさっきまで泣いてた原因も
そのアンリの言葉に、コハルは不思議そうに首を傾げる。そのコハルにビシッと指を向けてから、アンリはきっぱりとコハルに言った。
「──ズバリ! あなたがさっきまで泣いていた原因は、カケルさんですね?」
そうして指を指されたコハルは、一瞬きょとんとしてから、すぐにまたその目を輝かせて言った。
「──! すごいすごい! どうして分かったの!?」
そうして純粋な賛美を受けたアンリは、思わず得意げに笑いながらそれに答えた。
「ま、こんな
そうしていい気分になるアンリがその推測を成し得たのは、事実それほど大したことではなかった。彼女の天才的な頭脳を使うまでもなく、ただ事実として知っていたのだった。スサキカケルというその男は、たびたび不用心な言葉で他者の心を揺さぶる人間であることを。
──ついでに言えば、いつも何らかの
そうして自分の推測が当たっていい気分になったアンリは、コハルに笑いかけて言った。
「それで、コハルちゃんでしたっけ? あなたはカケルさんにどんなことをされてあんなに泣きじゃくってたんです?」
そのアンリの予想外の言葉に、コハルは目を丸くして聞き返す。
「……私の話、聞いてくれるの?」
そのコハルの疑問で、ようやく正気を取り戻したアンリは一瞬後悔の念に駆られる。コハルがそうして驚くのも無理もない。アンリはコハルと今さっき出会ったばかりの人間であり、そこまでコハルを気にかける必要など無いのだった。しかし──
「……まぁ、乗り掛かった舟ってヤツですよ。要はただの気まぐれです」
先ほどまでの自分の言葉を撤回することなく、アンリはそう答えた。アンリが口にしたその言葉は事実であった。構う必要のないコハルに構い、聞く必要のないコハルの話を聞こうとしているアンリのその動機は気まぐれそのものであった。
──ま、その気まぐれの中に、ほんのちょびっとだけヒナの小言って
そう心の中で呟いて、アンリは少し苦笑いする。
アンリのその行動に含まれていた少しの打算的な目的は、目の前のコハルを使ってフィルヒナーの小言を無くそうというものであった。フィルヒナーがあれほどアンリに口うるさく言っている内容は『基地の中に友達を作れ』である。ということはつまり、形だけでも目の前のコハルと友人関係になってしまえば、その小言も減るだろうとアンリは考えたのだった。
そのアンリの様子を見て、コハルは不思議そうに尋ねる。
「……アンリちゃん? 何かあったの?」
「──っ! いえいえ、なんともありませんとも!」
そうコハルに尋ねられ、思わず慌ててアンリはそう返事をする。そうして気を取り直すように一つ咳払いをしてから、アンリはコハルに向き合って言った。
「じゃあ、改めて聞かせてもらえますかね。あなたがカケルさんに何をされて泣かされたのか」
そうしてアンリはコハルの話を聞くことにしたのだった。その実コハルの涙の理由が、アンリの想定していたものより何倍もくだらないものだと知らずに。
「──はい?」
「えっと……どこかおかしい、かな?」
コハルの話を一通り聞き終えたアンリは、思わずそんな素っ頓狂な声を出した。そんなアンリの様子を見て、自信がなさそうにコハルがおずおずとそう尋ねると、アンリは一つため息を吐いてから言った。
「えーと、つまりまとめるとこういうことですか? あなたはカケルさんが遠征に出発した後、彼が無事に帰ってこれるかどうかが心配で泣いていた、と」
「うん、そうだけど……。変かな?」
それまでのコハルの話をまとめると、アンリには改めてコハルの気持ちが不可解でたまらなかった。無論、コハルのような小さな子供が遠征隊に所属する翔の身を案じることは気持ちが分からないわけでもなかった。アンリが同じように遠征隊のことを強く心配することがあるかと問われればそれは否定することになるが、それでも普通の子供は恐らく自分のように強くはないということはアンリは分かっていた。
「いやぁ……。カケルさんが心配、ってところまでは分かるんですよ? でもだからって、それが原因で泣き始めるのはチョット
アンリが困り顔でそう言うと、コハルは「……っ! でも!」とそれに反論して言った。
「でも、心配なのは本当なんだもん……。だから、カケルお兄ちゃんが無事に帰ってこれなかったらどうしようって、怖くて……」
そうしてまたコハルが目に涙を浮かべ始めたのを見て、アンリはため息を吐いてからコハルの両肩に手を置き、彼女にしっかりと向き合って言った。
「あのですね。コハルちゃん……でしたよね? あなたに一ついいことを教えてあげます」
アンリに真正面からそう言われたコハルは、思わず涙を飲み込んでアンリの方を見返す。
「これは合理的に考えればわかることですが……。心配なんて、するだけ
「──え?」
そうしてアンリが言い放ったその言葉に、思わずコハルは言葉を失う。そんなコハルの様子には目もくれず、アンリは続けて口を開いた。
「だって、冷静に考えてみてくださいよ。今あなたが翔さんの無事を願ったところで、そんな
「……あるかもしれないよ?
アンリの理論にコハルがそう返すと、アンリは一瞬で冷たい表情になってきっぱりと言い切った。
「──カミサマなんていませんよ。馬鹿なこと言わないでください」
「あ……。えっ……と、ごめん……」
そのアンリのいつもと違う口調に彼女の静かな怒りを感じたコハルは、それに思わず怯えながらもそう謝る。そのコハルの謝罪で平静を取り戻したのか、アンリは苦い顔になって頭を下げる。
「……いえ、すみませんでした。私としたことが、言いすぎました」
そのアンリの謝罪に、コハルは首を振ることで答える。そのコハルの動きで自分が許しをもらったと判断したアンリは、一つ咳払いをしてから続きを話した。
「ともかく、私たちが今カケルさんのことを心配したことで、結局それはカケルさんにとっては何の役にも立ちません。心配する気持ちは分かりますが、それでもそんなことで時間を浪費するよりは何か別のことをした方がいいと思いますよ」
そのアンリの合理的すぎる言葉に、コハルは少し考えこんでから言った。
「それは……。うん、そうかもしれないね」
そうしてアンリの理論に納得したコハルは、太陽のような笑みを浮かべて言った。
「アンリちゃんはすごいねぇ。私の何倍も頭いいみたい」
そのコハルの純粋な誉め言葉が照れ臭かったのか、アンリはきまりの悪い顔になって言った。
「いや……私が頭いいってより、あなたが子供っぽいってだけじゃないですかね?」
「ひどい! 私これでも先月の二日に十二歳になったのに!」
そうしてコハルが頬を膨らませるのをよそに、アンリは先のコハルの言葉に多少ならず驚いていた。そうして目を見開くアンリに、コハルは問いかける。
「どうしたの?」
「……いえ、大したことじゃないですし、だからどうってわけでもないですけど……」
そう前置きしてから、アンリは静かに言った。
「……私も先月の二日に十二歳になったばかりです。どうやら私とあなたの生年月日は同じみたいですね」
アンリが先のコハルの言葉に驚いていたのは、彼女が口にした月と日に覚えがあったからであった。加えて、どうやら二人の年齢も同じであるらしいということも分かった。つまり、アンリとコハルは同じ年の同じ月、そして同じ日にこの世に生を受けたのだった。
そのアンリの言葉に、コハルは最初はただ単純に目を輝かせて喜んだ。
「そっかー! 誕生日が一緒って、なんだかうれしいね!」
「その価値観には同意しかねますが……。ま、何かの
アンリがそう冷静に言ったのを聞いて、コハルは何かを思い出したようになって少し考えこむ。そうしてアンリがそのコハルの様子に疑問を呈するより前に、コハルは恐る恐るその疑問を口にした。
「……もしかして、アンリちゃんの
「──っ!?」
突然コハルの口からその名前が出たことで、思わずアンリは瞬時にコハルから距離を取り、彼女への警戒を露わにした。
そうして二人の少女の談話は、静かにその流れを変えていくのだった。
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