私からの卒業
今福シノ
短編
10個目の段ボールにガムテープでフタをしたところて、一息つくことにした。
「ふうー」
額にじんわりと浮かんだ汗を拭う。引っ越し作業を始めて数時間、シャツとジャージは汗でべっとりとしている。
シャワーを浴びたい気持ちをぐっと我慢しながら、私はがらんとした部屋を見回す。
意外と広かったんだな……。
入居時も見ているはずなのに、そんな感想が出てくる。
生活を送っていたときには見えなかった白い壁。いろいろ貼ったりしていたから、跡が残らなくてよかった。
「さて、やるか」
今日中に箱詰め作業を終わらせないと。明日には引越し業者が来るし、明後日にはここを離れて新しい職場だ。今の私に感傷に浸っている時間はない。
作業は残り半分といったところ。部屋中所狭しとあった物のほとんどは断捨離したけど、まだそれなりに荷物は残っている。
いい機会だし、捨てるものはバシッと捨てよう。
「よいしょっ」
意気込んで、立ち上がる。
クローゼットを開けて、中の衣装ケースを引っ張り出す。中身でいるものとそうでないものの選別をしないと。
「ん……?」
一番下の引き出しを開けて出てきたものを見て、私は首を傾げた。
DVD……?
引き出しに無造作に放り込まれていた、無地のディスク。ケースにもなんにも書かれていない。
「なんだろこれ」
こんなところにこんなものを入れた記憶は正直ない。
うーん……。
せっかくだし、見てみるか。
なんとなく、そんな気分になった。そのままポイっとゴミ袋に投げ込んでもよかったけど、中身がわからないものを捨ててしまうのは、なんとなく気持ちが悪かった。
幸いにも、テレビもレコーダーまだ梱包していない。同じようにそのまま置いているソファに腰を下ろして、再生ボタンを押し――
「……あ」
画面に映るものを見て、私の心はすとんとお腹のあたりまで落ちた。
……まだ、あったんだ。
黒い長方形の枠の中には、ぴかぴかと光る映像。整った顔立ちのキャラクターたちが、楽しそうに笑いあっている。
女性のオタク――いわゆる腐女子に大人気のアニメ。
瞬間、思い出がリフレインする。まるで昨日のことのように、脳裏をちらつく。
あの子との、記憶が。
「これこれ、絶対ハマるから騙されたと思って見てみてよ!」
「もー、1回だけだからねー」
大学で意気投合して、アニメを勧められとき。
「よかったでしょ?」
「う、うん……」
「私たち似てるし、気に入ると思ったんだー」
アニメが思いのほか面白くて、でも素直に言うのが照れくさかったとき。
「……ね、私たちさ」
「うん?」
「私たち、気が合うしさ……付き合っちゃわない?」
「えっ……」
人生で初めて、誰かから好きだと言われたとき。
「ほらほら、物販はじまっちゃうって!早く早く!」
「もー、待ってってば!」
すっかりハマったアニメのイベントに、ふたりで手をつないで行ったとき。
「……しちゃった、ね」
「ね……」
半月の夜、初めてキスをして――愛し合ったとき。
「これ、私の今季の推しだからちゃんと見てよー?」
「わかってるって。ほんと私以上にハマってるじゃん」
私の方からお気に入りの作品を勧めてみたとき。
「……ごめん」
「どういう、こと?」
「私……ほかに好きな男の人ができたの」
ずっと続くと思ってたものが、あっさりと崩れ去ったとき。
「……っっ。うぅ……」
ひとり、ずっと泣いたとき。
……。
気がつけば、アニメは終わって、テレビ画面は真っ青になっていた。凪いだ水面みたいに。
あれだけのめり込んでいたオタク趣味。きっかけはどうあれ、人生で一番お金と時間を費やした。
うれしくて、笑って、ときには泣いて。心を揺さぶられた。彼女と一緒に。
その一つひとつが、宝石みたいに輝いていた。
なのに。
「ぜんぜんおもしろくないや……」
今の私の心は、1ミリたりとも動かない。海底の岩は、波がきてもそこにあるまま。
ぐるりと、部屋を見回す。かつて所狭しと置いてあった彼女の私物も、アニメのグッズも、物陰はまったくない。思い出はぜんぶ、忘れてしまうほど記憶の彼方。
もう、大丈夫なんだね。
取り出したDVDのディスク。なんのためらいもなく、不燃ゴミの袋に放り込む。それでも、私の心は凪いだまま。
窓の外、遠くには、桜並木が見える。
3月は終わり、そして新しい春がやってくる。
卒業おめでとう、私。
私からの卒業 今福シノ @Shinoimafuku
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