水面さま

〈『水面さま』〉


〈水面には裏側がある。〉


〈そこには「水面さま」がいて、水面の裏側の永遠の楽園でもてなしてくれる。〉


〈そこへの行き方は簡単だ。〉


〈『水面さま、水面さま。わたしを裏側へ連れて行ってください。』〉


〈そう書いた紙を〇時の水面に投げ入れ、その水の中に飛び込むだけ。〉


〈ただそれだけで、水面さまはその世界へと連れていってくれる。〉


〈たとえ望もうと、望まなかろうと。〉




 日付が変わる少し前、秘密の裏ルートを使って校舎に侵入し、ランがピッキングでプールを開放する。


 平気でピッキングする親友に少し引きながら、急いで中へと入っていく。


 プールサイドに着くと、ライトを当てて水面を見下ろした。夜の闇を吸い込んだプールは綺麗な黒みがあり、静かな空気と相まって雰囲気がある。


 そんななか、早々に四星よほしが声を上げる。


「これ、不法侵入じゃない?」


「そりゃ、不法侵入は覚悟の上ですって。ガキの戯言たわごとを許可する大人がどこにいるかって話ですよ」


「でもさあ……警備とか見回りしてんじゃないの……」


「そうなりゃ、逃げるだけですよ。ほとんど『デスタウン』にいるから、終わったらさっと帰りますし」


「んな雑な……」


 四星が呆れたように、肩を脱力させる。


 彼女の気持ちはよく分かる。実際、ランは映像優先で強引な手を取ることが多い。したたかというべきか、無鉄砲というべきか。


 いつかのわたしはどこか自棄やけ気味で、彼女のその気質を簡単に許容できるところがあった。しかしいまは、それが少しだけ怖かったりもする。


 だけど、前々回と前回の動画はそこそこ好評で、彼女はますますやる気になっていた。ここでわたしがめげたら、きっと彼女の気を削ぐことになるだろう。


「だいたい、なんで先輩がついてきたんです? いてもお荷物でしょうに」


「それは……」


「仲間外れが気に食わなかった、とか?」


「……普通に、先輩として心配だから」


 四星がこちらへ、困ったような視線が向ける。


 そんな目を向けられても困る。わたしは小さくため息をついて、藍色のジャージのファスナーに手をかけながら言った。


「早くやんないといけないんじゃないの? 警備員さん来ちゃうよ」


 ファスナーを下ろして上衣うわぎを脱ぎ、中に着ていた淡桃のフリル付きの水着を晒す。


 この前四星と買ってきた、オフショルダータイプの水着だ。私が選んだ中で、彼女に可愛いと言われて買ったものだった。フリルで胸の膨らみが強調されず、今回のために買ったものとはいえ、わたしも結構気に入っていた。


 二人の視線がこちらへ集まる。わたしはとっさに胸元を手で隠して「脱ぎなよ」と冷ややかに言い放つと、二人もようやくジャージを脱ぎ始めた。


「スズちゃん、やっぱスタイルいいですよね。映像映えが良い」


 ランがビデオカメラを地面に置いて緑のジャージを床に落とし、下に着たスクール水着を晒す。


 人のこと褒めるのはいいが、映像映えの観点で言うなら自分のことを見直してほしい気がしなくもない。いくらなんでも、スク水はどうかと思う。


「本当、脱ぐとすごいよね」


 その一方でぼそりとつぶやく四星を見る。


 細身の身体に映える藍色のビキニ。わたしにとって、彼女の無駄のない身体が羨ましく思うが、どうにも彼女にその自覚がないらしい。


 わたしたちはすぐに準備に入った。耐水性のあるライト、ビデオカメラ、除霊小刀、折りたたんだ例の紙。


 もう〇時に入っている。ランはジャージのポケットから『水面の裏側』へ行くための紙を開き、プールにそっと投げ入れる。それは水面に触れるとともに、オブラートのように闇の中へと溶け込んでいった。


 サンダルを脱いで下の水着に挟んだ小刀に手で触れ、ランと四星の手を握る。


「行くよ!」


「うん!」


「せーの!」


 ためらいもなく二人をひっぱるように走り、プールへと飛び出した。準備運動をするべきだったかと一瞬だけ後悔したが、もう遅い。


 わたしは目をつむり、そのまま水の中へ吸い込まれていくのを感じていく。




 目を開いて最初に見えたのは、下へと沈んでいく細かな泡だった。


 両隣の手の感触でランと四星の存在を確かめて、ゆっくりと手を離す。二人はちゃんとそこにいる。


「ここが……」


「水面の裏側……」


 どこまでも青が続く、海のような空間。下を見ると、どうやら水面の上に座っているようだった。


 おそるおそる、息を吸って吐く。一見水中にいるように見えるが、呼吸はちゃんとできる。


 試しに水面に触れてみると、低反発素材のように軽い力で沈み込んだ。


「ようこそいらっしゃいました」


 声とともに、突然目の前に赤いサンゴ柄の着物をまとった若い女性が現れた。女性は礼儀正しく、わたしたちの目の前で正座をする。


 いきなりのもてなしに困惑するなか、四星がすかさず手を挙げて訊く。


「『水面さま』、ですか?」


「そうですね。楽園を求めて迷い込んだ人たちを永遠にもてなす。そのようなことを主にしております」


 永遠に……


 一見腰は低いが、彼女も所詮『改造都市伝説』だ。わたしたちを永遠にここで閉じ込める腹積はらづもりだろう。


 腰の小刀に手をかけて警戒する。


「警戒する気持ちは分かります。ここの『改造都市伝説』のことを知っていたならば、私が無理やり監禁するつもりなのだと思われたでしょう」


 青い瞳が射るようにこちらを見つめ、そのまま硬直してしまう。


「ただ、私自身に監禁する意図はございません。私もまた――あるいは他の怪異もまた、所詮被害者の一人でしかありませんから」


 彼女が突然、ぱんと手を叩く。


 わたしたちの手前に、旅館で見るようなぜんが現れる。


 現れたそれらはすべて半透明だった。半透明の膳に載せられた半透明の皿の上には、水餅みずもちのようなものがある。


 水面さまの様子をうかがうと、落ち着き払った様子で言った。


「少し昔話をしましょう。私がこの怪異を生み出すに至った過程、そして……すべての『改造都市伝説』に関わる、あの男のことを」


 あの男……?


 ふと、いつかの男を思い出す。『吸血電柱』でわたしたちの前に現れ、四星との電話に突然介入した、あの謎の男のことを。


 本当に、そういうことだろうか。


 そんなことを考えている間に、水面さまの昔話が始まった。



 彼女は元々、海沿いの街で暮らす金持ちの家の一人娘だった。


 彼女には結婚を約束した男がいた。一代である事業を築き上げたその街出身の若者で、彼は仕事熱心であり人柄も良い好青年だった。そして、彼女もそんな彼の人となりに充分に惹かれていた。


 実際、二人は誰もが認めるほどに気が合った。そのまま行けば何事もなく結婚を済ませられるだろうと、誰もがそう思っていただろう。


 だが、そうはならなかった。


 ある日、二人が湾岸わんがんで穏やかな海を眺めていた時のこと。


 婚約者は、満ちては引く波の異変に真っ先に気づいていた。


「なんだか波が荒くなってきたね」


 そう呟く彼の視線を追いかける。確かに、地震でも起きたかのように、停められた漁船が大きく揺さぶられていることに気づく。


「うそ……先ほどまでそんなふうには見えなかったのに……」


「大自然は人間には到底予測しきれない、というところかな」


 彼は顎をしゃくってうなずくと、そのまま踵を返す。


「さあ、そろそろ帰ろう。もしかしたらこのまま波が強くなるかもしれない」


 そう言われて、彼女も彼の後を追うように引き返そうとした。


 その時だった。


「たすけて……たす、けて……」


 荒ぶる波の中で、か細い声が聞こえた気がした。


 彼女は足を止めて、波の方へと走る。


「どうしたんだい?」


「いま、こっちから声がした……子供かも!」


「まさか! そんなものは聞こえなかったが」


「でも、たしかにあっちから……」


 彼女は手で引き止める婚約者を振り切り、岸のへりから顔を出すようにして、その下の海を覗いた。


 しかし、子供がいる様子はなかった。


「どう?」


「いえ……」


「やっぱり、風の音かなにかだったんじゃないかな。とりあえず、早くここから引き返さない、と――」


 彼は言葉を途切れさせ、かすれた息を漏らす。


 どうしたのかと彼を見ると、信じられないものでも見たような、怯えるような顔をしている。彼女はすぐに彼の視線の先のものを見た。


 そこには、いつの間にか大きな影が広がっていた。


「え……」


 それは、いつか聞いた海坊主を思わせた。夕焼けが透けて見えて、まるで大きな黒い霧がそこに集まっているようにも見える。


「あり……が、とう……」


 けたけたと笑う声と重なるように、どこかからかそんな声が聞こえる。


 逃げないと。


 そう判断した時にはもう、彼女たちはその霧に包まれていた。




 彼女が次に目を覚ますと、目の前で小魚が泳いでいた。どうやら、いつのまにか海の底に来てしまったらしい。


 すぐに息を吸ってみる。すると、なに不自由なく呼吸ができた。というより、体内の肺が動く感触がまるでなかったのだ。


 彼女は少し考えてから、いまの自分が死んでいることを悟った。幽霊でもなければ、凡人だった彼女がこの状況で息をすることなど到底不可能だからだ。


 もしかしたら、彼の姿もあるかもしれない。すぐに婚約者の姿を探すが、まるで見つからない。


 まさか、彼は私を置いて消えてしまったのか。頭に浮かんだ嫌な憶測を信じたくなくて、彼女はすぐに海の中を探した。


 海藻かいそうと、小魚と、かにと、その他の多くのものが身体をすり抜ける。それが彼女の死んだ事実を突きつけ、彼女を苦しめた。それでも、彼のなんらかの足跡そくせきをひたすらに探した。


 眠ることのない身体で四六時中しろくじちゅう水底の岩を這いつくばり、そうして何十か光と闇が巡った頃。


 ある時、空から光が差して、目の先の一点に降り注ぐ。やけに不自然な光だと思いながら、彼女は気になってその方へと進んでいく。


 そこには、ふたつの骸骨がいこつがあった。


 片方は彼女と同じ赤色の着物をまとっていて、もう片方は婚約者と同じ藍色の着物をまとっている。くぼんだ眼窩がんかからは小さな蟹が飛び出し、こけがむしているのを見るに、沈んでから相当に時間が経っていることが分かる。


 骸骨たちは、骨だけの手を固く絡め合っている。少し波に揺られたくらいでそれが離れる様子もなく、ただそこにたたずんでいた。


 彼女はそれを見て、思わず泣き崩れていた。


 自分の死はすでに受け入れられていても、彼が死んだという目の前の証拠は彼女を簡単に揺らがせた。


「ごめん……僕があの時、止めていれば……」


 泡沫うたかたの音に混じり、どこかから彼の声が聞こえてくる。


 やはり、彼は私を置いていったわけではない。視えないだけで、そこにいたのだ。


「私も、ごめんなさい……あなたまで巻き込んで、こんなこと……!」


 彼女はなにもかもがすり抜ける身体で、藍色の着物をまとう骸骨を腕に抱いた。


 視えない彼も、もうひとつの骸骨を抱いているだろうか。いや、きっと抱いているだろう。


 そう確信して、彼女は眠りにつく。




 そうして、いくつも時を経て。


 朽ちゆく婚約者の骸骨を抱いて眠り続けていた彼女は、ある日突然起こされた。


 背中に強い痛みが走る。あるはずのない痛みで意識が覚め、ぐるりと振り返った。


 そこには、長い前髪で目を隠す男が立っていた。


 彼は黒い服に見慣れぬ粗い素材の下衣したごろもを履き、肩に大きな鞄を背負っている。そしてその片手には、白く薄い謎の板を抱えていた。


「その昔、海のあやかしにさらわれ婚約者とともに消えたと言われる、ある財閥ざいばつ令嬢れいじょう。彼女の亡霊は大きな不条理の前に無念をつのらせ、時を超えて人々を水へと引きずり込み始める」


 男はにやりと口角をみにくく歪め、前髪の隙間の瞳から彼女を見据える。


 なにを言ってるいるんだ。


 反論しようとするが、まるで声が出ない。懐かしい身体の痛みが思ったよりも強く響き、彼女の言葉をさまたげたのだ。


「君は今日から、僕の『改造都市伝説』の仲間入りだ。よろしくね」


 彼が指で薄い板の表面に触れた。すると、彼女の視界に突然の赤い光が広がった。


 直後、頭に激流のように情報が流れてくる。


 彼の名は、あかつき陽柳ようりゅう


 彼は自らの作品を完成させるために――



 話の途中で、水面さまが突然ばたりと倒れ伏す。


 彼女の身体から突然赤い石が弾けて、目の前に転がってきた。


「まったく、下らんことをしないでもらいたいね」


 つかつかと足音がする。


 間もなくして、目の前にふっと男が現れた。それはいつか見たあの男だった。


鈴木晶すずきあきら……!」


「残念だが、僕はそんなダサい名前じゃない。僕にはあかつき陽柳ようりゅうという素晴らしい名前があるんだ」


 男は赤い石を拾い、そのまま指の腹でもてあそぶ。それから、うつ伏せで気を失った水面さまの背中を思い切り踏みつける。


「彼女は『改造都市伝説』として、まったく人に恐怖を与えなかった。いつもいつも、ただここに人を閉じ込めて、ただ手厚くもてなしていただけだった。僕はネバーランドや龍宮城じゅうぐうじょうを作るために、この石を与えてやったわけじゃないってのに」


 男はぐりぐり、ぐりぐりと彼女を踏みにじる。


「その上、今回のこれだ。よりにもよって、こいつらに僕の情報をやるなんて! 都市伝説の神秘性を損なう真似なんかしやがって!」


 男の声に悪意が満ちていく。


 彼女は例外もなく『改造都市伝説』だ。ただ、先ほど水面さまもまた被害者の一人だと、目の前の彼は水面さまを生んだ元凶だと言っていた。


 彼女の言葉が真実なら。


 いま、わたしが刺すべき相手は――


 衝動的に小刀を振り上げ、その男の身体へ突き立てる。




 気づけば三人とも、じわじわと熱いプールサイドに投げ出されていた。


 ゆっくりと起き上がり、三人並んでそこに座る。


 わたしはあの男に一矢報いることができただろうか。水面さまはあの後、どうなったのだろうか。しかし、なにも思い出せない。


「戻ったの……?」


「そうみたい」


「ていうかあいつ、この前見たやつじゃん! さっきの話だと、『改造都市伝説』はあいつが作ったって……」


 わたしも聞いた時は驚いた。


 まさかあれが、誰かによって生み出されたものだとは思わなかった。しかもそれが、一人の幽霊をなかば強制的に改造したものだったなんて。


 途端、不安が襲ってくる。


 あの人は無事だろうか。あの人もまた、あいつによって妙な怪異にされていないだろうか。


 ……お姉ちゃん。


りん! 瓶井かめいさん!」


 考えにふけっていたところで、四星が声を上げる。


「これ……」


 先輩が握った手を広げて、わたしたちの方へと見せる。


 そこには、赤く光る石が載せられていた。


 あいつが水面さまから取っていた、『改造都市伝説』の核……


「覚えてないけど、あいつから奪ってたみたい」


 あちらの世界にしかなかったはずのものが、ただぼんやりと赤い光を放っていた。

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死にたいわたしと、改造都市伝説と、怪異と戦う少女たち 郁崎有空 @monotan_001

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