第8話 訪問者

2人だけで完結していたこの世界に、初めて他者が介入したのは、灼熱の太陽がじりじりとアスファルトを焼くようになった真夏の夜のことだった。


その頃学校は夏休みに入り、私は殆ど男の部屋に入り浸りになっていて、外に出るのはバイトの時くらいだった。


窓の外にはセミが命の限りに鳴き叫び、木の葉を揺らす風すらも生暖かい。

下に流れる川だけが涼しげな音を立て、この真夏の気温を少しだけ下げているように思えた。

木の葉の間から、強い金色の光が差すように真っ直ぐ伸びていて、外を見ていたわたしはその眩しさに目を細めた。


暑い。


クーラーをつければいいのだが、

鳴り響くうるさいセミと、湿っぽい夏の空気を、この部屋で我慢できるまで堪能するのがここ最近の日課だった。今までにないこの場所に、今、確かにわたしは存在していて、かみしめるように夏を感じている。そういう実感を。


そしておもむろに赤いギターに手を伸ばす。


男は初め、暑いと文句を言っていたが、聞こえないふりをして下手なギターを鳴らしていたら、溜息を一つついて諦めたように何も言わなくなった。

それも結局わたしが暑さに耐えきれずに、昼前には窓を締め切りクーラをつける始めるからだったのだが。


そんな折のことだった。

男は仕事からまだ帰ってなくて、暇すぎたわたしは、ご飯を作ってみようと思い立ち、普段は食器を洗うくらいしか立たない台所に立って、パスタを作ろうと決意した。料理なんて全くした事がなかったが、男が作るのをなんとなく見ているうちに、自分でも出来るような気がしてきていたのだ。

作り方をネットで調べ材料を確認する。

ミートソーススパゲティ。

玉ねぎにひき肉にトマト缶。塩にウスターソース。などなど。

財布を掴んでスーパーへと飛び出した。

何故だかこの新しい試みに少しワクワクしている自分がいた。


材料を買い込んで台所に立ったわたしは、腕まくりをして、いざ、と作り始めたのだった。


結果を言えば散々だった。


玉ねぎと挽肉は炒める間に焦がしてしまい、トマト缶を入れたところで苦さは消えない。

たっぷりのお湯でゆでたスパゲティはお湯に塩を入れるのを忘れたうえに、茹で過ぎてくたくただ。

はじめての料理に辺りはとっ散らかっていて、出来上がる頃には心が折れそうなほど、ぐったりと疲れてしまっていた。

もう懲り懲りだと思いながら仕方なく汚した台所を片付けていたとき、ピンポンと、玄関からベルの音が鳴った。

誰だろう、宅配便だろうか。

けれど男が宅配サービスを利用しているところを今まで見たことないと思いながら、インターホンの受話器を上げる。相手はかちゃりと受話器を上げた音が聞こえたようで、一方的に話し出した。


「おーい、忘れもん持ってきてやったぞ。知らない間に居なくなりやがって、わざわざ届けに来る羽目になったじゃねーか。」


わたしは何も言わずにかちゃりと受話器を置いた。

どうしよう。受け取るべきか。

でもなんか知り合いっぽいし、大事なものだったら。そこまで考えて、玄関に行き、ドアスコープから相手を覗き見る。

そこには少し丸い体型の同じように丸い顔のスーツを着たおじさんが何か封筒のようなものを手にして立っているのが見えた。

かちゃりとチェーンをはめた扉を開ける。それと同時に相手の目が瞠るのが見えた。


「あの、まだ帰ってきていないんです。

なので、お預かりしておきます。」


なるべく丁寧に答えて、届け物であろう封筒に目をやった。

相手はあ、え、と困惑した様子でわたしに封筒を手渡した。

ありがとうございますとお礼を言い、相手が何か話そうとしたそのとき、おい、と聞き慣れた声が向こうのほうから聞こえてきた。

歩いてきた男は私の目の前の相手を一瞥し、それでも声は私の方に向けているようだった。

「おい、勝手に空けてんな。

やべーやつだったらどーすんだよ。」


そう言い、私の方に呆れたように向き直る。

今更それをいうなら、いま私がここにいること自体が問題だろうと、思う私は間違っているのだろうか。


だって、大事なものだったらとおもったのに、と不貞腐れるように俯いた私に、男はまた溜息ひとつついて、まぁチェーンしてるだけマシかと、くしゃりと頭を撫でた。


「おい、おまえ、その子…」


暫く惚けたように見ていた訪問者が、我に返ったように口を開いた。

面倒くさそうに訪問者を横目で見た男は、拾った、と一言言い放ち、そして私の方を見て、向こう行ってろと言うふうに顎をしゃくって見せた。

私は頷き部屋の中へ入って行った。

外では訪問者がまた何か男に捲し立てるように話している。

拾ったっておまえなぁ、犬か猫じゃあるまいし、て、そういえば最近やたら早く帰ると思ったら…云々。男は聞いているのかいないのかタバコに火をつけ始めるのが見えた。


「仮にも警察官だろう。」


台所を片付け直そうとした私に飛び込んできた訪問者の一言に、片付けようとした手が止まった。



この小さな部屋のこの小さな世界の外側の、わたしの知らない男。



暫くして訪問者を追い返し、扉を閉めて入ってきた男は、ローテーブルの上のものを見て、作ったのか、と呟く。

私は神妙に頷いていつもの場所に座り男を待った。

焦げたミートソースに塩気のないくたくたのパスタ。

見た目だけはなんとかなったように思えるが、中身は悲惨なのはとりあえず黙っておくことにした。

そして食べ始めた男が顔をしかめるのを見て、やっぱりと思いながら素知らぬ顔でわたしも食べ始めた。

ギターも料理も。私は何もできやしない。

じくり、と胸に暗いものが去来する。


わたしはこの男のことを何もしらない。


全く理不尽な苛立ちのようなものが湧き起こってきて、今はそれをとどめることができそうになかった。


「不味いと思ってるんでしょ。無理して食べなくていいから。」


そう言って乱暴にフォークを置くわたしに、

何怒ってんだよ、と目だけをこちらにやり男はいつも通り淡々と返す。


「怒ってなんか…」

わたしは俯き、じわりと侵されていくような正体不明な感情に、テーブルに置いていた手をぎゅっと握り込んだ。



ここでは、この部屋の中では、完璧に2人の世界だった。

もはや、この世界でたった2人で生きているような気さえしていた。

 

男のことを知りたかった。

感情の少ない男の内側をわたしは知りたかった。

男のふとした哀しみに、わたしは触れてみたかった。

それと、同じだけ、わたしは知りたくなかったのだ。

この部屋の外の世界で生きている男を。

そこには紛れもなくわたしの知らないことだらけのおとこがいて。わたし以外のいろんな人と生きて、わたしの全く関係のない世界がそこにある。

そんなこと当たり前なのに。


わたしだってわたしの世界がある。


そんな自分の事を棚に上げて、

それでもこの漠然とした不安と苦しさを、わたしはまだ受け入れることができなかったのだ。


「ごちそーさん。」


泣きそうな気持ちで暫く俯いていたわたしの頭上に、おとこの低くて静かな声がぶつかった。

そろりと目線を上げると、おとこの前のスパゲティが綺麗に無くなってていた。


苦しい。わたしよりずっと大人の、このおとこのこういうところが。


「無理しなくても、よかったのに。」


いじけた気持ちと、本当の気持ちがないまぜになったまま、わたしは言った。


「何に怒ってんのか知んねーけど」


そう言うと、おとこはパチリとTVをつけた。いつものわたしの音量で。わたしの好きなお笑いが画面の中で笑っていた。

おとこがひとりのときはTVなんかつけないくせに。


「また作りゃあいい。」


皿を手に立ち上がったおとこは、わたしの頭をくしゃりとひと撫でして、台所へ向かった。そのひと撫では軽くわたしの気持ちをほぐしてしまうことを、このおとこは知っているのだろうか。


苦しい。このおとこの、こういうところが。


「嘘でも、うまかったくらい、言ってよね。」


このおとこの、こういうところが、わたしは嫌いで。

このおとこの、こういうところが、わたしはきっと好きなのだ。


「うまくなったらな。」


呆れたようにおとこが少し笑ったから。


勝手に怒っていた単純なわたしは、この優しい朴念仁を、勝手に許すことにしたのだった。

 


前にあるTVからはこの部屋に不似合いなお笑いの声が静かに流れていて、後ろからはおとこが皿を洗う水の流れる音がする。



わたしはきっと、何も知らない。

そして何もできないし、何者でもない。


知りたいし、知りたくない。

この完璧な世界を壊したくない。


けれども。


わたしは目を閉じてこの、今わたしが手に持っている幸福であろう音に耳を澄ませた。


何があったとしても、今、ここが全てだ。


そうしてわたしはもう一度、料理を作ることを決意したのだった。

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C7 雨音あゆり @Chibiayu1203

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