第7話 赤いギター

それからは男がいない時も、あの男の匂いが染み付いた、古いアパートで過ごすようになった。


窓の外に揺れる新緑の桜木。

開けた窓からはかさかさと、葉の揺れる音が小さく聞こえる。

側を流れる小川の水音と、そこに佇む季節の水鳥。


欲望の渦巻く街のすぐ近くだとは思えないほどの、心地いい静寂。


気持ちがいつの間にか鎮まってゆく。


男が、ここを、少し古いこのアパートのこの部屋を、選んだ訳がわかるような気がした。


男は、静であり、動である。

男はいつも静けさを纏っていて、感情のブレのなさ、芯の太さは、ちょっとやそっとなことではびくともしない。無駄な言葉を必要としない。


けれどもその奥に、その瞳の、その静のずっとずっと奥に激しく燃え上がる、動、がある。

そこに触れればきっと火傷をしてしまうんじゃないかと、思えるくらいの激しい炎の揺らめきが、秘められているのを、わたしは知っている。


触れてみたい。


男の奥の奥に。

その激しさに。哀しみに。喜びに。

その全てに。


そう思いながら窓の下に立てかけてある赤いギターをそっと持ち上げた。


男はたまにこうやって、窓の前のこの椅子に腰掛け、男の部屋になんとも不似合いなこの赤いギターを抱えて一つの曲を弾く。

私はその曲の名前を知らない。

男はそれを静かに弾き鳴らす。



それを見ているうちに、なんだか私も無性に弾きたくなって、男に、弾き方教えてよ、とねだると、本気で面倒くさそうな顔をされた。

何回ねだっても、あからさまに無視されていたが、しつこい私に根負けしたのか、少しずつ、教えてくれるようになった。

そして、男の教え方はなんだかんだとても丁寧で、わかりやすい。そんな男の横顔を見ていると、あれだけ始めは無視していたくせに、とおかしくなって、いつも少し笑ってしまう。


でも、私はてんで楽器に向いていないらしく、何回やってもうまく弾けなかった。最初は、みんなそんなものなんだろうと思っても、途中で心が折れそうなくらい上達が遅いような気がした。


どうしても、弾きたくなったのは、男がそれを、大切に弾いていたからだ。

男の大切なものを、同じ目線で見たかったからだ。同じものを私も弾けるようになれば、ちょっとでも男の何かに近くなれるような気がしたからだ。

その音色に含まれる、男の哀しみに触れることができるような、そんな気がしたからだ。


なんて言う曲なの?、と私が聞いても、

さぁ、忘れた、と素っ気なく答える。

それは本当なのかどうなのか、分からないけれど。きっと嘘だろうと思っている。

こんなに大切に繰り返し弾く曲の名を、男は絶対に忘れるはずがないだろうから。


どうしたって男には、この赤いギターは似合わなくて。 

学生時代にバンドでもしてたのかと、想像してもどうもピンとこなくて。


けれど、何にも執着しなさそうな、あの男にとって、とても大事なものだということは、よく分かった。

だから、わたしはなかなか上手くならないこのギターを、性懲りもなく鳴らし続けるのだ。


外は月明かりを残して、仄暗く佇む。


男はまだ帰らない。


男の香りがするこの部屋に一人。


下手なギターを鳴らす。


この世界があれば、何も要らない。


心の底に染み入るように浮かんできた気持ちをわたしはかみしめる。 


それでも。


心配なのは、ずっと一緒にい過ぎることだ。


不安なのは、こんな日々にも、慣れてしまうことだ。



そんな私をよそに、頭上で時を刻んでゆく赤い秒針は、私の下手くそなギターの音色に掻き消れながらも、この時間を吸い取ってゆく。


もうすぐおとこは帰ってくるだろうか。


帰ってきたら、いつものようにわたしを一瞥しては、すぐに夜ご飯をつくるのだろう。

そうしてわたしはTVをぼんやりと見ながら、それを待つ。

いい匂いに後ろをみれば、器用に料理をするおとこの、横顔に、伏せた睫毛に、胸の内を苦しくさせられて、そして目の前に来た皿の暖かそうな湯気にどこか満たされてしまうのだろう。


わたしは男が創るこの静かな世界を愛している。それは今のわたしのすべてだった。


ずっと続けばいい。


そう、静かに願って、わたしは赤いギターをまたボロンと鳴らした。


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