第6話 合鍵

じめじめした梅雨がやっと明けて、いよいよ夏の香りが漂ってきた頃、男から合鍵をもらった。


その時の私の顔はさぞ酷かったのだろう。

あの滅多に変わらない無表情の男が、微かに笑ったからだ。


高校に入ってからずっと続けている喫茶店でのアルバイトを終えて、いつものように男のアパートに訪れると、珍しく男はまだ帰っていなかった。

だからといって帰る気にもなれず、玄関前で男が帰ってくるのをずっと待っていた。

それは、いよいよ暑くなるまだちょうど前ということもあって、夜は比較的涼しい。

通り過ぎる風には、もうすぐくる夏を思わせる

、そんな匂いが含まれていて、すぅ、と香りを嗅ぐ。夏休みが来るのを、待ちきれない思いで待っていた、そんな、少しわくわくするような、香り。


こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。


わたしは実は春が、桜が好きではない。

一気に芽生えて一瞬にして散る、あのほの白く、薄ピンク色の花びらがぶわっと満開になった桜の木々は、独特のエネルギーを発していて、それが私にとってはいつも少ししんどく感じた。見ていると頭がぼんやりと、もやがかるきがするのだ。


けれども今のこの、青々とした葉がいきいきとささめき、明るい季節へと向かっていく、この初夏の空気が私は一年で一番好きだった。

そんな事を、久しぶりに思い出して、もう一度深く息を吸い込んだ。肺に青くみずみずしい初夏の風がいきわたって、わたしは思わず頰を緩める。


しばらくして帰ってきた男は、玄関に座り込んでる私を見て、呆れたような顔をしてガチャリと鍵を開けた。


そんなことが何度か続いたある日、玄関先でうとうとしている私を揺り起こし、ほらよ、と、失くしたら殺す、と脅し文句をつけて目の前に合鍵をぶら下げたのだ。


手のひらにぽとりと落ちたそれを、惚けた顔でしばらく見つめていると、くっと、喉の奥で鳴ったような小さな笑い声が目の前から聞こえて、

顔を上げると、男が呆れたように小さく笑っていた。


そして、早く入るぞ、と私を立たせ、鍵を開け、そそくさと部屋に入っていった。



じんと、胸が熱くなる。


絶対に失くさない。

絶対に失わない。


ぎゅっと、もらった鍵を握りしめる。


この、扉の向こう。

古さの滲む、男の香りが染み付いた、その部屋の中で、

男は特段優しくも、冷たくもなくて、

けれども、

ただ、ただわたしを受け入れてくれていて、

そのことが、そのときのわたしを、どれだけ、救ったことか。

そのことを、男はきっと知らない。


眼の奥がどんどん熱くなる。


ぎゅっと眉根を寄せて、溢れてくる感情を必死で押し殺し、かちゃりと、扉を開ける。


そして、

男がいる、ただそれだけの部屋へと、

わたしはまた足を踏み入れるのだ。




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