130 新たな因縁の始まり
「神殿って、あの神殿だよな?」
「おそらくは」
「けど何の関係が……?」
真剣な顔のマルスが考え込むように目線を下げテーブルの上を見つめた。
「――あ、まさかアイリス嬢が聖女だからか? 聖女って神殿にいそうだもんな。ってことはソーンダイク公爵が彼女を神殿に連れていくつもりなのか? それとも公爵の所から日記と逃げ出して神殿に見つかったとか?」
マルスの疑問にウィリアムは答える術を持たない。
アーネストがアイリスを手放すとは思えないが、何かの理由で神殿に行かせる必要が出た可能性は否めない。
彼女の身柄を密かに押さえているのを神殿側に知られたのならそうなっても不思議ではない。
昔から聖人や聖女と呼ばれる存在が託宣によって在野から見出だされ神殿に迎え入れられた例は決して少なくない。むしろそう言った人材は神殿所属と決まっていると言っても過言ではないからだ。
しかもその手の事案に際しては神殿の方も伝統とか通例だからと、本人や周囲の意見を黙殺して我が物顔で強権的な態度を見せる時があるそうだ。
「仮に逃げ出したとして、保護命令も下されているくらいだし、神殿がアイリス嬢を見つけたならきっとそうするよな。だから日記は神殿って言ったのかも。けどアイリス嬢は何か用事があるって言っていたはずだよな。それは済んだのか?」
マルスの最後の疑問には、済んだのならどうしてここに戻って来ないのかという率直な訝りが含まれている。そこはウィリアムも同じように感じていた。本当に神殿に行くのだとしても行く前にここに顔を見せに来るべきだろうと。
「彼女の用事はともかく、アイリスが神殿に入るとなれば大々的に周知されるはずだ。だが今の所そんな情報はないから神殿側は何も知らないと考えて良さそうだ」
「そうなのか?」
「ああ、神殿側にとっても聖女に値する人間の出現は慶事だからな。優れた魔法や法力と言ったものを使える聖女の存在は、絶大な恩恵を与えてくれるだけでなく、各国や国民に権威を示せる絶好の機会でもある。宣伝しないわけがない」
うーん、とマルスは唸った。すっかり食事の手が止まっている。
「ならアイリス嬢は秘密裏に神殿に行くってわけか?」
「それはここでは何とも言えないな。しかし日記が送ってきた報告は明らかに妨害されていたし、神殿に何らかの手掛かりがあるのは確実だろう。一度しっかり調べてみる価値はある」
ウィリアムの言葉にマルスは無言で頷いた。
この国を託宣で縛り、ある意味裏から牛耳っているとも言える神殿という組織に彼らが目を向けるのは自然な流れだった。
思いのほか話が長引いたせいで、ややあって戻りの遅いマルスへとザックから休憩終了の声が掛かり、慌てたマルスは軽食を無理に掻っ込んで大きく噎せた。
「ゴホゴホッ、じ、じゃあまたな」
「ああ」
噎せて顔を赤くしたマルスが急いで部屋を出ていき、ウィリアムは一人残されたそこで静かに瞬いた。何とはなしにテーブルに置かれたままの封筒に目を落とす。
「……神殿、か」
彼自身、神殿の内部にそこまで詳しいわけではないが、あの組織が託宣から始まり魔法で様々な事象に干渉しているのは知っている。
代々のソーンダイク家の当主たちも神殿を無視はできなかった。だからアーネストのような悲劇に彩られた人間を生むのだ。
ウィリアムは託宣など馬鹿らしいと思っている。
しかしそこに仕込まれた緻密な魔法を決して軽視はできないのだとも知っている。
まあただ、軽視はしないが託宣を無視して降りかかると言われる大きな災いに、自らの魔法で対抗出来るだろうとも思っていた。
例えば個人に下された託宣一つが履行されないからと、世界中が厄災に見舞われるなどおよそ現実的ではない。
大体にして世に存在している託宣は決して一つではなく、また、細かく読み解けば矛盾さえしていたりもする。過去から現在に至るまでの間には、不都合だからと世に出ず秘匿されているものもきっとあるだろう。
今まで託宣に従わなかった者はいないなどとも言われているが、ウィリアムとしてはその真偽も甚だ怪しいものだと思っていた。
しかし、その意見を公言は出来ない。
国を支える王家と神殿、その両輪には微妙な力関係が存在し、それ故に暗黙の了解や黙認たる諸々の事情もあるのだ。
現在の彼の立場ではどちらの意向もおいそれと足蹴には出来ない……たとえ猛然とそうしたくとも。
身分や名前を捨てて遠い異国へと行きひっそり暮らすなら別だが、ウィリアム・マクガフィンとして望む通りの平穏を得ようとするなら、自身の魔法能力だけでは限界があった。
どうしても一緒に居たい護りたい存在があるために、彼女を誰にも取られないために、これまでのように我関せずと生きて行くのはもう難しかった。
彼女を護るために、不本意にも婚約を破棄するしかなかったのが力不足の良い証拠だ。
愚かにも彼女の危機に後手に後手にと回ってしまい、そうなってから初めて強固な立場を得ようという心積もりをした。しかしまだどこか漠然ともしていたし、もたもたともしていた。だがそれではいけないのだ。
一度目を付けられた以上、アイリスが正式に神殿に迎え入れられるのも時間の問題だ。如何にソーンダイク家とて彼女の存在は隠し通せないだろう。神殿には優れた探知能力者がいると聞く。いつかは発覚する。
そうなった場合、聖女たるアイリスの処遇は神殿に強い決定権が委ねられる。
その時自分が神殿組織と対等に渡り合えるとすれば、それはすなわちこの国の主導機関に強い影響力を持つ立場にいるほかないだろう。
「まだまだ王位は水面下の争いでしかないが、アイリスのためにも、俺も本気で上を目指すべきなのかもしれないな」
とは言えまだまだ国王は壮健で、今すぐ誰かが王位を継ぐ必要があるとはなり得ないだろう。
だから現状で彼が得るべきは、王の後継――王太子の立場だ。
「アイリス……早く君を抱きしめたい」
彼は密やかにそう希いきつく目を閉じると、この部屋の一切の灯りと共にふっと姿を消した。
「――ちょっとしくじったかもね」
その頃ソーンダイク邸では、アーネストが詰まらなそうな顔付きで日記の足を指先で抓んでぶら下げていた。
「痛い痛い痛いってば~! 放してよも~!」
「もう魔法具は挟まれていないようだね」
逆さにされてじたばたと手足を振るのは勿論アイリスの日記だ。
アーネストはアイリスと共の神殿行きに際して、そう言えばと書斎の抽斗の中の存在を思い出したのだ。
そこで鍵を開けて取り出して、何でもなさそうだと一度は思ってそのまま机の上に放置しておいたのだが、彼が使用人との会話の中でアイリスの神殿行きの準備を命じていたのをバッチリ聞いた日記が、やっと役に立つ情報を得られたと焦ったのだ。
迂闊にもアーネストが書斎を出た直後のタイミングで魔法を使ってしまったがために、まんまと察知されて妨害魔法を放たれたという次第だった。
しかも喋って動く日記だともバレた。
もう何もかもが最悪だった。
ただ、魔法が辛うじて王都まで届いていたのは幸運だったと言える。
「まあけど、それはそれで掻き回してくれそうだし、いいかもね」
もしもウィリアムたちが神殿内で騒動を起こせば、それが自分たちの良い隠れ蓑になると彼は踏んだのだ。
「日記君、急がば回れって言葉を君はよーく覚えておいた方がいいね」
「わかったから放してよ~」
「ハハハ結構重いね」
「うわーんアイリス~、ボクはここだよ助けてよ~ッ!」
「残念だけど、まだ会わせてあげないよ」
ふふふと笑い、手を左右に揺らし抓んだ日記を振り子のように振ると、アーネストは面白いおもちゃを見つけた子供のようににっこりとした。
「アイリスお姉さん、着いたみたいですよ」
「んー? 着いた……の?」
「はい。ああ降りる前にハンカチをどうぞ」
「え? ああ、ありがと」
アーニーバージョンの高い声に促されて、私は眼帯のままの顔を上げた。
気付けば馬車の揺れは止まっていた。
ここまでの道中うっかり爆睡していたみたい。
しかもお口の端っこからお水が……ふきふき、と。
神殿行きを宣言されてから今日まで緊張とかで中々眠れなくて、とうとう馬車の中でスヤァ~しちゃったのね。結構道のりは長いって聞いていたけど、鉄道から馬車に乗り換えてからは道中の何も覚えてないわー。馬車酔いすらしなかったし。
それに、こんな安眠が欲しかったんじゃないっ!
一つ馬車の中にアーネストの奴といたのに油断しまくりでしょ私……はあ。
魔法の試験もあるって言うし……はああ。
ソーンダイク家の権力だかで合格間違いなしって言っていたけど、何かの手違いで落とされる可能性もあるでしょうにねえ。
蜻蛉返りする羽目になるかも……はあああー。
「ええと、随分とよく眠っていましたけど、もう動いても本当に大丈夫ですか?」
「ああ、ええ……」
ううう、アーネストから本気で気遣われる自分が情けないっ。
「それじゃあそろそろ降りましょうか、アイリスお姉さん」
「はいよー……」
神殿入りを目前にして、何か既に私は挫けていた。
神殿の奥の奥、権限のない一般神官は立ち入りの出来ない領域で、彼女は今日も目を覚ます。
大きな天窓から燦々と降り注ぐ明るい陽射しが、物も少なく生活感のない白壁の室内をより一層輝かせる。
光を通す薄いカーテンに四方を囲まれた木の寝台の上で、彼女は半身を起こした。
「ああまだこのままですのね……」
無念そうに声を落とすと、ゆるりと周囲に視線を走らせ首を巡らせる。
敢えてなのか寝台付随の目に付く台の上に一振りのナイフが置かれていた。
「今日こそは死んでやりますわ」
目に留めたそれを手に取ると、彼女は自らの首筋に当てて咽を掻き切ろうとした。
「――ああ、今日は神殿に新入りが来るそうだよ。試験はまだだけどきっと合格だよ」
唐突に、その決意に水を差すような声が割って入った。
やや高めの男性の声。恐ろしく耳触りの良いテノールだ。
いつの間にかカーテンの向こうに一つの影が立っていた。手を止めた彼女は驚くでもなくその影を睨みつける。
「それが何だと言うんですの? わたくしにはどうでもいいことですわ」
「田舎からわざわざやってきたらしいよ。姉弟で」
「ですから、全く興味がありませんわ」
「これはやつがれも含めた一部の上層部しか知らないことだけれど、姉の方の本当の身分は伯爵令嬢だってさ。反対に、弟の方の素性はよくわからない」
ここでカーテンの向こうの影が動いた。映る影の濃さがやや薄くなったのでカーテンから少し離れたのだろう。その上で柔らかな男の声が降る。
「少女の方は本当の名を――アイリス・ローゼンバーグというそうだ」
「な……んですって?」
彼女は驚きにガラス玉のような目を見開いて、次にその手を握り締めた。
一切人間としての血の通っていないその指先を。
「あなたの尻ぬぐいをさせられたも同然のその可哀想な娘は、公開処刑されるはずだった時も一冊の日記を所持していたらしい」
「日記ですって!? まさか……まだ?」
彼女はつい先ほどまで寝かされていた木の寝台に拳を打ち付けた。
痛みは一切感じない。
「あーあまた痛め付けてー。いちいち修復するのは大変なんだよ?」
「あなたの労力などどうでも良いのですわ。ただ、気が変わりましたわ。あの悪魔の日記を灰にするまでは、決して死ぬものですか……!」
「ははっもう死んでいるも然りなのに?」
「お黙りなさい!」
彼女は握り締めていたナイフを影に投げ付けた。
しかしナイフはカーテンに当たったものの、その柔軟さに威力が殺されて床に落ちて沈黙する。
「わたくしをこんな人形に閉じ込めたのはあなたでしょうに、よくもぬけぬけと」
「ははは、そこはやつがれにも予測不能だったんだから勘弁してほしいな」
薄情とも優しいとも言える相手の軽やかな口調に彼女は苛立たしげに歯噛みする。
「本当に気持ちの悪い男ですわね! 人形魔法などという反吐の出るお人形遊びに固執しているなんて!」
「ならあなたは、そんな気持ちの悪い男にまんまと魂を閉じ込められた可哀想な女だ」
「五月蠅いっ!」
激怒し、今度は彼女自身がカーテンの向こうへと手を伸ばしたが、レールから引きちぎられたカーテンの向こうに既に声の主はいなかった。
ナイフ同様無残に床に落ちたカーテンの向こうの室内には、彼の持つ清涼な白さだけがまるで残り香のようにくゆっていた。
彼女は固い石床に両膝を着いて項垂れる。
現在の自分の美しい顔は、鏡で見る度にこの男とも女ともつかない体を一層異質な物と認識させる。そのために造られているとしか思えない。
こんな体が酷く恨めしい。
魂を魔法でこんな器に閉じ込めた先の男も同様だ。
――しかし、彼女が最も憎いのは、アイリス・ローゼンバーグの持つ日記だった。
「死ねば人生をやり直せると言ったくせに、よくもこのわたくしを騙したわね……!」
どす黒い怨嗟の声がまっさらに白い部屋を這う。
様々な糸が絡み合い、神殿に波乱が訪れようとしていた。
悪役令嬢は安眠したい。 まるめぐ @marumeguro
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